「ただいま。」


誰もいるはずがない。


「お帰り。」


尚が言った。


「ただいま。」


驚いて麻衣は答えた。


何だろう、尚に迎えられてホッとしている自分がいる。


ずっと前はそうだった。


だけど最近はそう感じなくなっていた。


「何か用?」


「随分だね。


用事がないときたらいけないの?」


「用もないのに来ることないでしょ。


それ以前に、用なんて無いでしょ。


私たちはもう何の関係もないんだから。」


「どうして?


昔からの友人としてこれからも付き合っていけるじゃないか。」


「尚、私を何だと思ってるの?


あの人を選んだのは尚なのよ。


私はこれ以上、尚の前で格好つけて平気な振りして笑ってることなんてできない。


だからもう私に拘らないで。」


麻衣は、こんなことを尚に向かってかなり感情的に言っている自分に驚いていた。


さっきまでの気持ちの延長線上にいたのだろうか、そう思った。


尚は麻衣以上に驚いていた。


いつもの麻衣なら、あれくらいのことであんな風に言ったりしないから・・。


この時、もう一歩麻衣の心に近づいた気がした。


そう、麻衣の書いた本を読んだ時の、あの気持ちに似ていた。


尚はずっと迷っていたのだ、


美緒は、二人が完全に別れることを望んでいた。


そんな姿は尚の気持ちを美緒から遠ざけた。


尚は自分の身勝手さを強く感じていた。


麻衣よりも美緒を選んだ。


今更もう遅いという気持ちと、まだ今なら間に合うかもしれない、その両方の気持ちの間で揺れていた。


「麻衣、俺はまだ・・。」


「迷ってる?


私たちはもう別々の道を歩き始めたのよ。」


もっと別の言葉が、麻衣の口から出ることを期待している自分がいた。


それでももう麻衣は迷っていない、そう感じた。


諦めに似た気持ちが生まれた。


そんな時、麻衣は自分のズルさを感じていた。


何もかも失くすんじゃない、たくさん持っているモノの中のたった一つを失くすだけだ。




「ねえ、この前どうしていなかったのよ。


せっかくお店に行ったのに急に休むことになったなんて・・。」


「あ~、俺にもいろいろあってさ。」


「あっ、あの人のこと?


草野とか言う小説家?」


「何で知ってるんだ?」


「見たから。


二人が一緒にお茶を飲んでるところ。


私、ムッとしてあの人に聞いちゃったよ。


『彼とどういう関係ですか?』って。」


「困ったな。


きっと誤解されたな。」


「何をどう誤解するのよ。


あの人、驚いてなかったし・・。


バイトのことも話しちゃった。


外で誰とも会わないと思ってたのに女の人と会ってたから・・。」


「俺だって人と会うことくらいあるよ。


店とは違う俺がいるんだ。


きっちりと線を引いておかないと、自分を見失ってしまいそうなんだ。」


彼女には章吾の言ったことの意味がほとんど理解できていなかった。


ただ、彼を怒らせてしまったことだけは感じていた。


章吾は大学に通いながら進むべき道を今も迷っていた。


遥に、あんな風に言ったものの、とっくに自分なんてものはどこかに消えてしまっていた。


ダラダラと毎日を過ごしていた。


逆に店にいるあの時間だけが『何か』をしていると言える時だった。


白く冷たくなった遥を見た時には、医者になろうかとも考えたが、そんな思い付きでどうにかなる世界でないことも知っていた。


そして、何となく自分の学力でどうにか引っかかりそうな大学を受験して、何となく通い始めた。


両親がどうしても進学を望んだという理由だけで今、学生の章吾が存在する。


無駄だと何度も言ったのに、それでもと両親は譲らなかった。


「学歴なんて今の俺には何の意味も無い。」


「何か目的はあるのか?


無駄に時間を過ごすのなら、大学に行ってくれ。


私たちは、それでもいいと言ってるんだから。」


(大学だってタダじゃないのに・・。)