「章吾君、今でも彼女を?」
「いえ、そんなんじゃなくて、自分でもよくわからないけど、アイツのことを考えると、どう生きればいいのかわからなくなります。」
「そう。」
それっきり二人は黙ったままだった。
麻衣は、遥を知っていると言えなかった。
あの小説を書いたのが自分だということも。
なぜだろう・・。
このことはこれから先、ずっと言えないだろう、そう思った。
あの頃、一度だけ彼に会っていたような記憶がぼんやりと浮かんできた。
遥が病院に入院していた頃、病室の廊下で一度だけ。
軽く挨拶を交わしただけだったが、そういえばそうだ、彼だった。
あの話も読んでくれていたんだ・・そう思うとなぜか近くに感じた。
それでも麻衣は章吾に声をかけられず黙っていた。
目を閉じていると遥の笑顔が浮かんできた。
彼のことをよく話してくれた。
一度だけ泣いてしまったと遥は言った。
「誰の前でも泣かないと決めた。
それは強いからなんかじゃない。
弱くて弱くてどうしょうもないから泣かない。」と。
「遥、あなたの言ってることは正しいのかもしれない。
でも、人と付き合う時、それが全てじゃないとも思う。
素直な心を見せていいんだよ。
この人だって人には・・。
私は尚の前でよく言えば素直、悪く言えばわがまま。
こんな風でずっと付き合っていきたいと思ってるんだ。」
遥に尚の話をしていた頃は、今から思うと一番幸せな時だった。
生活は決して贅沢ができる状態ではなかったけれど。尚を好きでそんな自分も好きだった。
私が尚から逃げたのかもしれない。
自分を責めながら、心の一番奥で尚を責めながら生きてきた。
だけど今、気が付いた。
手を離したのは私だ・・麻衣は思った。
「章吾君、いつか私のこと『強い』って言ったことあるよね。
覚えてる?
『強い』ってどういうことなんだろうね。
強くなきゃ、ダメなのかな。
泣きたいときに笑ってるのって強いことになるのかな?」
「そんな難しいこと、僕に聞かないでください。」
「章吾君にならわかるんじゃない?」
「ずっと彼女の支えになりたいと思いました。
だけど僕は彼女に何もしてやれませんでした。
気の利いた言葉で励ますこともできずに、自分の無力さを責めました。
そんな時、遥は言ってくれました。
『こうして目を閉じて真っ暗な世界になって何も見えなくなっても、章吾の顔が見える章吾の声が聞こえる。
これってすごいことだよね。
ただこうやって手を繋いでいてくれるだけで、何も怖くない。
静かに眠れる。
章吾がいなければ、私は眠れなくなっていたかもしれない。
今眠ってしまうと、このまま目が覚めないかもしれないという恐怖のために。』
こんな僕でも少しは役に立っているのだと思いました。
本当に強い人なんていないのかもしれません。
強くありたいという気持ちも、弱さを見せたくないという思いも、ずっと奥で繋がっているのではないでしょうか。
大好きな人のためにそうしているのだと思います。」
「章吾君って、ちゃんと考えてるんだね、感心したよ。」
「そんなことないです。
草野さんが聞くから考えただけです。
答えただけです。
こんな風に遥のことを考えたのは本当に久しぶりのことですから。」
章吾は遥をどんどん好きになった。
思いが通じた時から冷めていくタイプの人間も多いことだが、章吾はその逆だった。
だから遥が逝ってしまった時も、こんなに好きになったことを悔やんだりはしなかった。
彼女を好きになったことは章吾の中で大切な思いだった。
終わりの約束をされていた二人の日々は美しいまま凍結された。
「章吾君の心が羨ましい。」
それっきりまた二人は黙った。
「今日は無理に付いて行ってごめんなさい。
だけど、こういう時間を過ごせてよかったです。」
「でも、辛いことを思い出させちゃったね。」
「いいえ。
彼女のことを思い出さないようにしていました。
泣いちゃいそうだったから。
彼女が泣かないでと言っていたから・・。
それでも僕は彼女のことを考えたいと思っていました。
明るく笑うことでいつも自分を騙していました。
自分と向き合うことから逃げていました。」
章吾は車を降りて軽く会釈をした。
「じゃあ。」
麻衣の言葉は短く静かだった。
章吾に優しい言葉をかけてやることもしないで別れた。