「尚、お帰り。


遅かったね


ご飯出来てるよ。」


美緒は、いつもと同じ言葉で迎えた。


明るく聞こえたのは気のせいだ。


そう、尚の心がいつもより沈んでいたから。


帰りに立ち寄って読んだ本のせいだ。


麻衣の書いた物語。


「『結婚という形を欲しがったのはあなたの方なのよ。


私は一緒にいるだけで幸せだった。


あの日あの書類さえ書かなければ、今この書類を書かなくてすんだのに。


幸せだった頃のことも一緒に流されてしまいそうで辛い。


指輪なんていらない。


あなたがずっと私を愛してくれるなら他には何もいらない。』


こんなことが自然と言葉にできた頃に戻れたら、どれだけラクにになれるだろう。


今はもう、あんな風な素直な心も失くしてしまって強がりだけでどうにか生きている自分がいる。


こんな自分と別れるためにも今、この書類が必要なのだ・・。」


麻衣の書いたモノの中にそうあった。


麻衣の思いがほんの少し見えた。


ヒロインに麻衣が重なる。


俺は麻衣の何を今まで見てきたのだろう。


お互いの心をわかり合えていたのは遠い過去のことのような気がした。


「一度ウソをつたらまた次のウソをつかなきゃいけなくなる。


そんな付き合いはしたくない。


一度離れてしまった心は、きっともう戻ってはこない。


たとえ戻ってきたとしても、また離れてしまうかもしれないという不安は消えない。


そんな思いは一度でいい。


だから手放した恋をもう一度手に取る勇気は持っていない。」


俺が気づくのが遅すぎたってことか?


尚は言葉にならない不安に襲われていた。


麻衣は物語の中でいつも尚に話しかけていた、


忙しい尚と話す時間が無ければ、こうやって別の世界で話しかけてきたのだ。


だけどこれを尚に気が付けと言うのは少し無理がある。


どのみち、もう遅い。


麻衣の書いたモノを読んでみようという気持ちがあったら・・、今更ながら残念だった。


どうして、物語の世界ではなく、俺と過ごしている毎日の中で言ってくれないんだ。


物わかりのイイ女になんてならなくていい。


そのままの麻衣が好きなのに。


勝手すぎる発想。


美緒のことを麻衣が責めたとして、本当に何かが今とは違っていただろうか。


それでも美緒を選んでいたかもしれない。


あの物語を読み始めるまでは、間違いなく気持ちは美緒にあった。


俺の気持ちって・・・こんなにフラフラしたものだったなんて思いもしなかった。


消えかけていた麻衣への思いが甦る。


尚の心を動かした一つ一つと一緒に。


「尚、良かったね。


私も嬉しいよ。」


俺の仕事にほんの少し明かりが見え始めた時、麻衣はそう言った。


あの時・・コイツと生きて行きたいって思った。


「尚がその翼をいっぱいに広げて羽ばたくのを、私は見送ることになるんだろうな。


いつか、そう遠くない未来に。」


麻衣は今までに出会ったことのない女だった。


一緒にいると眩しく感じることが何度もあった。


それは、麻衣の言葉であったり、行動であったり、さまざまなのだが・・。


何があっても決して泣かない。


意地でも泣くまいとしている。


強い女だと思った。


それでも俺が傍で守ってやりたいと言う気持ちは消えたりしなかった。


彼女に俺が必要だったのではなくて、俺に彼女が必要だったのかもしれない。


麻衣は『結婚』なんて言葉を口にしたことも無ければ尚にせがんだことも無い。


長い間、一緒に暮らしていたのに。


逆に尚は麻衣に結婚を迫った。


他の誰かに盗られてしまうのが嫌だった。


外見だけでなく内面の安らぎのようなモノをこれから先失うことが怖かったから。


「今日こそは、ここに名前を書いてハンを押してくれ。」


何度か目のプロポーズでやっと本心を話してくれた。


「こんな形式的なことに捕らわれてしまいたくない。


好きだから一緒にいる今はいいけど、その気持ちが消えかけたり消えた時は、お互いを縛るモノへと姿を変える。


その時はまた離婚の形を取ればいい・・それくらいに考えているのかしら。」


「俺を信じてくれないの?」


「尚だけじゃないよ。


私だってわからない。


だから自由でいたいと思っている。


今まで、尚ほど好きになった人はいない。


多分これから先もいないと思う。


でも、多分なのよ、絶対じゃない。


この微妙なところわかってもらえないかな。」


それから尚は結婚を求めなくなった。


麻衣はいつも自由でいたい、そう言い続けてきた。


でも、その言葉の裏側の意味がぼんやりと見えてきた。


・・そうなんだ、俺が自由でいられるように。


責任‥と言うモノで何かを諦めたり、羽ばたくチャンスを見送ることがないように。


今回の別れ話も、俺の心を気遣ってのことかもしれない。


麻衣、オマエってヤツは・・。