哲也は1通の短い手紙を残して黙って姿を消した。
きっとここに来てポストに入れて行ったのだろう。
『ありがとう
楽しかった
哲也』
この手紙が哲也からのサヨナラのメッセージだと気づくまでには少し時間がかかった。
その前の夜、2人で彼の27回目の誕生日を祝ったばかりだったから。
「のぞみと出会えて良かった。」
だとか、
「心の底から笑っているのぞみを見たい。」
とか、妙なことを言うなあと思ったが、誕生日と言う特別な日だからだろうと、それほど気にとめもしなかったのだ。
哲也は2人のこの先について考え悩んでいた。
それは、自分にとってのぞみが大切な人になればなるほど、彼女が遠くを見つめている瞳が鋭く哲也の心に突き刺さる。
一緒に過ごす時間を重ねるうちに、その答えを探し出せると思い込もうとしている自分がいる。
その一方で言葉にならない不安に襲われる。
学生時代からの友人の稔は哲也にこう言った。
「誰だって心にしまっていることの1つや2つあるさ。
玲子と結婚して子供が生まれた俺だって、ただ1人心に閉じ込めている遠い過去の思いっていうのはある。
玲子には玲子の『それ』があるだろうよ。
でもそれは、思い出だ。
今更、どうこうってことを考えてるわけじゃない。
お前みたいなことを言っていたら、誰かを好きになんてなれない。
全部を欲しがるなんて所詮無理なことだ。
今と未来で十分だと思うけどな。」
「俺だって、今まではそうだった。
相手の全部なんて必要なかった。
もっと正直に言うと未来も頭には無かった。
のぞみと出会って俺の恋愛観は変わった。
2人で過ごす時間が楽しければ楽しいほど不安が膨らむ。
どう気持ちを持っていけばいいのかわからない。
もう限界なんだ。
一緒にいると、どうしても聞いてしまう、決して話いてくれないことを知っているのに。」
懐かしさが哲也の心に広がる。
波の音、潮の香り、そしてこの防波堤。
身体の隅々までがこの場所を感じている。
1年間、あちこちを渡り歩いて結局はまたここに戻って来た。
そんな自分が少し嫌だった。
あの時の自分と何が変わったということも無く、1年という時間が流れた事実だけが存在する。
スケッチブックと鉛筆を持って腰かけた。
のぞみに会いたくて・・・ここを離れてからも同じで、この家出がどれだけ無意味なものだったのかがわかる。
「哲也?
何やってるのよ。
早く家に帰らなきゃ。」
それは間違いなくのぞみの声だった。
1年振りだというのに優しい言葉1つ無い。
「厳しいとこなんて、少しも変わってないや!」
「何言ってるのよ。
みんな心配してたんだよ。」
「のぞみも?」
「そりゃ~そうだよ。」
「そうか・・。」
申し訳なさそうな顔をしてのぞみを見た。
「哲也、私、ここを出ようと思ってるの。
あなたが帰って来るのを待ってた。
ちゃんと『サヨナラ』を言いたかったから。」
「どこへ行くの?」
「ドイツ。
友達がいるの。
哲也の心を知ってて黙って行くことはできなかった。」
「そこに行けば、のぞみはのぞみでいられるんだな。
俺はどっちにしろ見送ることになるんだろうと、この1年思っていたよ。
絶対に嫌だと思っていた。
だけど、今は違う。
俺がここで見送ってやろうと帰って来たんだ。
俺が戻るまでのぞみはここにいるという確かなモノがあったから。」
「ありがとう。」