罪の意識 | 神様は生きていらっしゃる

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人の生き方を左右する根本問題に触れていきます。


一般社会にいて、罪を犯せば罰せられます。

「罪」という言葉は、ある規範や法があって、それに違反した場合に用いられる言葉です。


そして、一般的に罪を犯せば、何らかの罰則が与えられています。


法律は国よって違います。

アメリカなどは合衆国という名の通り、州が国のように法律をもっています。従って、隣の州と若干の違いが生じており、時には社会問題として顕在化したりします。(大麻などの覚醒剤などがそれにあたりますね)

日本の場合は各県に独自の条例を持っていますが、法律のような強い拘束力は一般的にないようです。


ところで、宗教的にあなたは「罪人」という場合は

現法律に対する罪とは性格が異なる場合があります。


たとえば、人の心の中の様子です。

人を憎しんでも、言葉や態度、行為に及ばなければ罪に問われることはまずありません。

「思うこと」は自由だというわけです。


しかし

聖書を見ますと、イエス様は、「女を情欲でみるものは、既に姦淫の罪を犯している」と言及されました。

当時のユダヤの律法では「姦淫はしてはいけない」との規定が有り、行為に対する罪を規定していましたが、イエス様のこの発言は、目に見えない心の動機にまで言及されたのです。


動機がどうなのか

これは刑罰を与える時に、裁判において情状酌量の余地があるかどうかの争点で取り挙げられます。

やった行為に対する罪は重くても、その犯罪にいたってしまった過程や動機を見つめるわけです。

ですから、法律の世界も、人間の精神世界に踏み込んでいるということがわかります。


では、罪を犯した人をどうして法律が裁けるのか


それは、平和で、平等、しかも安全な社会秩序の維持のためには

罪に対する毅然とした態度は絶対に必要です。崩せば社会全体が混乱してしまします。


しかし、人間にとって、現法律に抵触しないからといって、何をしてもよいのか?というと

実はそうではなく、もっと人らしい、いわゆる常識や道義といったものがあって

そこに喜びや幸福、信頼、といった、人生をより豊かにさせる見えないものがあります。


子供は小さい時に善悪がよくわからず、色々なことをしでかしては親にしかられます。

叱られながら善悪観や常識を学び社会性をつけ

やがて成人し、独立し世の中に出た時

もし、親子の関係が深く、正しく良好であれば

子供はいわゆる「お天道さまに顔向けできないこと」はできません。


なぜなら、自分の犯した行為は、自分を苦しめるだけでなく、親を悲しませ、また

その親が嘆くその心の痛みを自分の痛みのように感じるからです。


もし

神様を人類の親として、神様の喜怒哀楽を自分の気持ちのように感じることができるならば

人は法律がなくても、神を悲しませる思い、行為をしないでしょう。

神様の心の痛みが自分の心の痛みのように感じてしまうからです


罪を犯してしまうのは

神様の心に通じる感性が故障しているからにほかありません。


ということは、

今人類の背負っているもっとも重大な罪は

神さまの心が感じられないことなのでしょう。


私達は罪人なのです。