人生の目的とは何か?
古来から人間は何でこの世の中に生きているのだろうかと考えてきた
図書館に行けば、わんさとその手に関する本が陳列されている。
なぜ生きているのか
その答えはそれぞれなのだ
生きてみなければわからない
だから生きる・・・
色々な回答があることを私たちは知っている。
そもそも自分の意志で生まれてきたのではない
私を産んだ親の意志?で生まれてきたことは間違いない
しかし、
親に生きる目的を聞いたところで
親もよくわからないのだから
そうなると、そもそも人間は偶然の所産なのか、あるいは必然、すなわち、
人間を産みだした創造者が存在するのかという問いを発せざるを得なくなる。
偶然か 必然なのか
このブログではハッキリと「必然」と明言する。
所詮、いくら考えても我々は結果的な存在である以上
一生かけて自分で考えたところで、明確な答えを得ることができない
しかし、現在の先端科学をもって考えてみると
もう偶然ではどうしても説明がつかないことばかりなのだ
確率論からしても、偶然を証明するよりも、必然を証明するほうがよっぽど楽になってしまったのだ
だから「人間は偶然にうまれてきた!」という人、いわゆる無神論者は一つの信念、信仰を持っていることになる。
宗教と同じだろう
このブログでは
ハッキリと 「神は生きていらっしゃる!」 と明言する。
ただし、あまりにも宇宙が広く大きいので
神全体を「見る」ことはできないであろう。
●我々の思考は教育によって形付けられてきた
教育はある面おそろしい
いわゆる常識と言われるものを、親から子へ、先生から生徒へ教えられて来ている。
教育の恩恵は、先人の発明や発見を短時間に修得するようにするから
過去の知の蓄積をいとも簡単に相続することが出来るという利点はあるが、
そもそも、「常識」と呼ぶものが新しい発見を通して疑問視されていても、人々の強固な考えに
邪魔されて、古いパラダイムから脱出できず、何年も間違った常識が継承されていく場合がある
かつては神を否定する人は少なかったようだ
宗教の歴史は長いし、人々の生活のなかにとけこんできた
しかし中世の、ことキリスト教社会の横暴な政治ゆえに
神の権威を振りかざした時の為政者が
常識を越えた「法」を持って人々を締め付けた反動から
神は「愛なり」とといたイエスの教えに疑問を持ち
更に自然科学の発達や技術の進歩によって自然界の様々な事象がわかってくるようになるにつれて
人間中心主義になってくる
天動説から地動説にパラダイムシフトしたことも大きかった
地球を中心として天体が動くという概念が根底から覆されたのだから。
だから、神を人間生活から追い出すようになってきたのは、人類歴史から見ればつい最近のことなのである。
日本も第2次大戦前までは、天皇を中心として、神道を前に立てていた
善悪はおいといても
人々の心のなかには自然や神に対する畏敬の念がやどっていた
今私達の心の中にその大いなる存在に対する畏敬の念が薄れている
神が心の中に宿れなくなってきたのだ。