前に記事にした俳句マガジン「俳句盲腸」を読み返して何か久々に感動するところがあり、ネットで同人の方を探し出し念願だった15冊コンプリートすることに成功した。一気に読むのはもったいなくて今もって就寝前に床でちびちび読んでいる。


しっかしまあ優秀な人というのはいるもんで読んでて感心することしきり。15冊の後半に行くに従ってもパワーが落ちないそのクオリティには驚くばかりである。笑える俳句はもちろんのことだが時折書かれてあるエッセイ風の読み物がいいのだ。今回は備忘録としてそのいくつかをしたためておくことにする。



11号 「私の自薦十句 澤田ちせい」 より引く。


きれいとは不安に似たり胸の音


当時、あやしい薬を飲んでいて(あやしい、とは臨床試験中で自分はその実験台であったという意味)、今思えば、おかげですこぶる体調はいいが、自律神経失調気味だった。サワダさんにおける神経過敏とは、つねに心臓がばくばくして緊張していることをいう。体調が良くて感受性が強くなっているので、自然の美しさにいちいち気が付きいちいち心臓がばくばく言った。人生で一番空が青いのも、白樺が白いのも、夕焼けがピンクでむらさきで藍なのも、このときだった。

開高健が死んだ頃に、夕刊がそのことにふれて、「彼は美しいものを見し者は早く死す、ということを(何かの小説に)書いている」とあった。自分の状態はこれなのだ。この心臓の動悸は何のことはない恐怖感と同一ではないか。きれいなものを見ても、不安であっても人体は同じ反応をするのだ。

それにしても自分を死に至らしめる美が、大学の(つまり、そのへんの)自然の中にあることがうれしかった。

ちなみにこの時の青空が「空の青吸うた瞳で覚醒す」る空なのだった。自分はあの空の色を思い出すことができる内は、何事からも回復できるのだと思っている。

今は何もきれいだとは感じないが、自分が死なないのだと思っている。



蜉蝣(かげろふ)や夢はかなふかかなへるか


さて、かつてもった夢と、それから迎える頓挫の間で、人はどのように折り合いをつけるのだろうか。頓挫なくすむように努力して、「かなえる」というのか、頓挫なくすむことを「かなう」というのか。



ポロシャツの色で占う全人格


滅多にいないいい男の友人がいる。この人は知れば知る程かっこいいのでほとほと感心するが、かつて肌色のポロシャツを着ていた。これだけはイヤでイヤでこのポロシャツを着た日はこの人の方を向かないようにしていた。色の暴力はすさまじい。人間の180度の視界に、輪郭は曖昧であっても色で判別できてしまう。で、私はこの人に苦情を言い、それ以後このポロシャツを見ていない。

それにしても人はそのキャラクターに合ったポロシャツの色を選ぶのでおもしろい。件の友人は恋人ができて、人間らしくなり、今は御影石の様なポロシャツを着ている。



抜粋であるが、澤田氏の自薦の句とそれにつけられた解説。俳句もいいが解説が最早名エッセイの如しである。




9号 巻頭言「俳句はポップカルチャーたりうるか」 より引く。


俳句魂(俳句盲腸同人会)にとって、俳句を「そびえ立つ才能の競い合い」だと思うことほど魅力に乏しいことはない。もし俳句がそんなものなら、俳句なんか絶対やらない。俳句とは、特別何も志さず、ひよっとしたら面白いかもと思って何となく始めるものであり、逆に言えばそこにしか魅力はないのだ。大切なのは、本来俳句などやるはずでなかった人間がなぜか面白い句を作ってしまうということであって、それは例えば、英国あたりの有力な音楽グループがその音楽への志からではなく、偶然ハイスクールが一緒で仲がよかったから結成されてしまうのと同じである。関係ないはずの人間が曖昧な動機から参画できる、それがポップのシステムなのだ。

ポップカルチャーにおける才能論は、「競い合う」才能論とは自ずから別物なのである。

ポップの本質は売れるとか商業主義とかウォーホルとか、そういう所にはない。それらはとりあえずの結果である。むしろ参加のシステムこそがポップの本質なのであって、それが作品のあり方を変容させるのも当然の帰結である。



ひや~!いつもより真面目なところを引いたが、これ読んで刮目しました。そうだよなあ、ポップってそういうことだよなあ。よくぞスパッと言いきってくれた。こういう、実はうまく言えなくてずっと頭の中でもやもやしてたことを明快に言ってくれる名文に出会うと感動する。俳句盲腸主催陣はみな優秀だなあ。俺もいつかこんな文才を手に入れたいものだ。もともと無い文才が、あちらから勝手にこちらに来てくれるわけもなく、こちらから探しに行かないと会えないのである。一生会えないかもしれないが、少しずつ会えるよう読書してゆくしかないわいな。。。。