心の中に入る人 | 1997年夏

1997年夏

1997年の夏。ある出来事がおきました。その出来事により私は夫婦の関係について見直すことになり、そして恐らく人生も変えたと思います。その時のことを思い出しながら書いていきたいと思います。

7月26日(土曜)夜の話し合いで一区切りをつけ、その後は目下に迫っている仕事に集中しようと思っていた。
だが、やはり、何も解決しなかった。
わだかまりを抱いたままの状態が続いた。
どうしても仕事に集中できない。
結局、7月28日(月曜)、仕事の依頼先にEメールを送り、期限を延期してもらえるかどうか打診した。
自分は以前のように仕事を次々に片付けていく状態に戻れるのだろうか?


「優しい人なんだけど、心の中には入らない人なんだと・・・」


先の話し合いで、妻は僕のことをそう評した。


単なる社交辞令なのだろうが、僕はよく人に「優しい人」と言われる。
妻も、彼女の両親を初めとする親族、友人たち、職場の同僚たちに、僕のことを「とても優しい旦那さん」と言われ、羨ましがられているらしい。
家の近所の人たちにも、同じようなことをよく言われていた。


家事をよく手伝い、子供たちと楽しそうに遊び、いつも愛想よくニコニコしているご主人。


自分も、仕事を持った妻と結婚し子供を生み家庭を持った以上、そうすべきだと思っていた。
それに、周りからそう評されて、自分の内面は別として、一種の誇りを感じていたと思う。
自分は良き夫、良き父になるよう努めているのだ、と。


だが、本当に自分は優しい人間なのかと言うと、違うような気もしていた。
内面を抑え、表面的に優しく良き家庭人を演じていたと言ってよい。
家事を行い、子育てを手伝いつつも、こんなことをしている時間はないのだ、この時間や費やされる労力を仕事に傾ければ、仕事の上での競争において、より上に登れるはずなのだ、といつも思っていた。

家庭の運営に関して、妻に対する漠然とした不満やわだかまりが、かなり前からくすぶり続けていた。
それについて話し合ったことが何度かあったが、改善はなかった。
僕は、そのわだかまりを抑えて、良き家庭人を演じ続けていた。


いや、そのような振舞いは間違ったことだったと言っているわけではない。
どんな場合にも、何かは抑制し、表面的に演じることも必要だ。
社会生活においても、家庭内においても適切な演技をしなければ円滑な生活など望めないだろう。


しかし、妻の「優しい人なんだけど、心の中には入らない人」という言葉は、しかし、その僕の演技を彼女が見透かしていたことを表しいたのかも知れない。


だが「心の中に入らない人」と言うが、そもそも「心の中に入る人」とはどういう人なんだろう? 
人間的な深みがある人ということか? 


妻は、僕のことを「植物」のような人とも言っていた。 
植物ということは人間ではないということで、結局、人間性に欠けるということなのだろう。 
だが「人間性に溢れた人」とはどういう人なのだろうか?


人間的な深みがあり、人間性に溢れた人。

もちろん、そういう風に形容される人間になればいいのだろう。
しかし、あまりに抽象的過ぎて、どうしたらよいか分からない。
自分との対面、そして他人との係わり合いを深く多く持つということか?

妻は僕に何を求めているのだろう?