治療と治癒と施術
こんばんは。チベット院長です。我々鍼灸院は療術業に分類されます。整体院も、マッサージ院も、同じく療術業。療術、つまり医療類似行為を業として扱う業務であり、その業務内容のひとつに施術があるということですね。施術を通して病を治する、これが治療。ならば、治療のゴールはどこにあるのか。病を治めるとは、完治(症状の消失および再発の可能性が少ない)が目的の場合もあれば、症状の固定、つまり悪化も改善もしない状態を目的とすることもあるでしょう。突発性難聴の治療において、治療のゴールは人それぞれ。とにかく聴力検査の結果を正常範囲まで戻したいという人もいれば、自覚的な聞こえを少しでも良くしたい、耳鳴りや耳閉感の不快症状をなくして、日常生活を快適化したい。いろいろあります。これ以上の悪化を防ぎ、無事な方の耳を守ることを目的とする場合もあります。ですから、突発性難聴の治療において最も重要なことは、患者さんが何を求めているのか。言語化できない場合がほとんとですが、そこを一緒に考えていく。それが、患者さんの人生を手助けすることであり、僕にとっての治療の目的でもあります。しかし、ここで考えなければいけないこと。それは、治癒とはなにか、ということです。治癒とは、病=症状であるとすると、症状の消失またはコントロール、そして癒しであるということです。患者さんは体だけでなく、心も病むことが多いのです。心と体は一体ですから、体の病は心の病にもつながる。その逆もしかり。では、癒しとはなんだろう?患者さんの心は不安、焦り、疑い、後悔したくないという気持ち。これ以上がっかりしたくないし、お金の不安や今後の人生の不安を抱え、そして人間関係の苦労や寂しさを抱えているわけです。そうした時に安易な励ましや共感はかえって苦しめることもあるし、理解されない寂しさを募らせることもある。うちに初診で来院する患者さんは、だいたい最初は泣いてます。感極まって泣く姿を見ても、僕自身は当然のこととして受け止めますが、泣いていること自体に患者さんが自分でびっくりしていることもあります。それくらい、自分の心の負荷を解放できるところがなく、また自覚もないということでしょう。患者さんの心の苦しみ、寂しさ、あるいは怒りや疑い。そういった心の部分にまで向き合うことは、果たしてできるのだろうか。わからないけれど、うちに通ううちにみんな泣かなくなって、なんだかんだ打ち明け話やら楽観視な会話がでてくるので、たぶん少しは心の苦しみがとれているんでしょうかね。心の問題は目には見えないけれど、表情や顔つきを診ればだいたいわかります。それが東洋医学の「望診」という技術で、いわゆる見聞色の覇気みたいなもんですね。僕の得意分野。患者さんが求めるものは、目には見えない癒しなのかもしれません。10年くらい前に遠方から通ってくれていた患者さんが、治療の最後の日に「これで自分は諦めがついたから、自分の人生を生きられる」と言っていた言葉が今も脳裏に焼き付いています。治療は、技術だけではないんですね。チベットでした。