かつての被差別部落の街並み 部落の人はきれい好き。家が狭いと、食堂も寝室も同じ部屋。料理は外で行い、食事は中で、そしてきれいに掃除してから布団を敷く。ご近所助け合って子育てするので、子どもの世話も行き届いている。つき合うと、よくわかる(koki)

 

全国水平社の創立まで

部落差別は、中世からの歴史があるとされ、俗説が多く、今も研究者の手ですすめられているが、被差別部落というのが地理的には、ほとんど残っていないのに部落差別はインターネットのヘイト投稿などで増加傾向だ。

部落差別に抗議する団体は今も活動している。

国が国際的な人権基準から、部落差別に取り組む姿勢を示さないので、他のマイノリティや被害者の差別に対しても理解のない国になっているのだ。

 

早い話、自分がルーツは部落民ではないということを証明するのは難しい。だれでも「あら、ルーツは部落だったのね」という可能性は大いにある。

 

これは天皇のルーツにも同じことが言える。皇室のHPにある万世一系は大きな虚構で、長い歴史上、天皇は周りには奴婢・渡来人・穢多・非人…が直接接触する関係でいて、天皇が性的接触し、子どもが生まれることはあるある。

 

平成天皇は、「ルーツは百済(朝鮮)から来た渡来人で、韓国にはゆかりを感じる」と本人自身が明かした。桓武天皇の母が渡来人だというのは歴史的事実。

 

部落の歴史はどうでも、部落民は人為的につくられたカテゴリー、為政者の都合で集住させられ、特定の仕事を押し付けられた。

 

明治に部落民は「平民」カテゴリーに加えられ、平民とされた人数は全体の93.4%になった。部落解放といいながら、戸籍をつくって「新平民」とか「旧穢多」とか以前の呼び方を記載する。武士のクーデター政府だったので、「士族」というカテゴリーができて、天皇・皇族カテゴリーのなかから、華族というカテゴリーをつくった。

 

差別というのは、自分たちの都合により、レッテルを貼り、排除や敵視をするということ。力をもったものが社会の変化で危機感を感じたときに差別が増加する。もし、納得できないレッテル貼りをされたら、自ら認めることはやめて、そのレッテルを使うかどうかは本人の自由であるはずだ。

 

トランプが大領領になったときに、アメリカ合衆国の「国民」というカテゴリーから他の国に移住したいという希望をもち、実際、カナダとか祖国に移った人がいた。高市政権で、日本の「国民」なのは嫌だなぁと思えば、国籍を変える人が増えるかもしれない。

 

自民党高市総裁新ポスター

高市総理は彼女が考える「民主主義」について、就任以来「民主主義」という言葉をつかったことがないし、「国民のみなさん」ばかりで、「日本列島を、強く豊かに」。

 

もう、「国民のみなさん」が強く豊かになるのではなく、「日本列島」が強く豊かになる。自民党広報部は「日本列島」について「国土としての広がりや立体的な空間、日本の領土、領海、領空を想像して」という。

 

これから日本全国32万枚も、ご近所の自民党の事務所や民家などにこんなのがあちこちに貼られるのはうっとうしいな。

主権者の当事者(わたしたちだよ)たちは、領土、領海、領空を強くしようと生きているわけではない。

物価が高止まりで食べるのに苦労している当事者は、正月の餅代の物価手当3000円で喜ぶだろうとあしらわれ、生活は苦しくとも補正予算の軍事関係費8兆円や核武装で希望を感じるに違いない?と。首相とは何か? 歴史も財政も知らなくて、務まるものなのか? 

1933年の国際連盟を脱退した頃の大日本帝国と似ている。

あ~ぁ、また高市ネタで10行も使ってしまった。

 

この連載も近現代史。2022年の「水平社宣言100年」で、水平社の思想と歴史の連載を前回から始めました。今回は、江戸時代末期から…。まず、水平社の思想的源流となった江戸時代の一揆や倒幕運動参加について書きます。

 

幕末にもあった解放闘争(渋染一揆と倒幕運動)

1856年渋染一揆 嘆願書(「禁服訟艱難訴記」原本)

江戸時代末期には、被差別民の解放運動は、全国各地でみられるようになった。幕末の岡山藩は財政難で、倹約令を出し、穢多身分の人々に対しては「別段御触書」で「柄のない渋染か藍染以外の着物の着用禁止」を出した。

 

この差別政策に対し、被差別53村では「惣寄合(そうよりあい)」を結成して藩に嘆願書を提出したが、突き返され、責任者12名は投獄される。それでも、さらに赦免を求めて、1500名による強訴(ごうそ)の組織的闘争を続け、お触書は撤回に至る。抵抗だけでなく、自ら解放を目指す運動の側面があり、それにより、権力や一般民衆の差別強化を招いたともいわれる。

 

柿渋染め まだ青い渋柿を発酵・熟成させた汁で染める。染めたものは、太陽光で色がだんだん濃くなる。今なら天然素材とヴィンテージ感で作務衣なら7万円もする。

 

幕末、江戸幕府と新政府軍との戦争(戊辰戦争)で、幕府は長州藩を屈服させるために、近くの外様大名である薩摩藩に出兵命令を出したが、薩長同盟を結んでいたため、政府軍は圧倒的兵力不足。穢多を利用しようと、弾左衛門に500人の穢多を人夫として西日本に動員するように要請し、弾左衛門は大阪に東日本の穢多を送り出した。

 

一方、長州藩は、身分に関係ない「諸隊」を武士以外にも動員し、前線部隊で戦わせた。高杉晋作が「穢多の女房をもらいたい」と言っているというデマから、「奇兵隊」に入隊を希望する部落民もいたが、入隊は拒絶された。吉田松陰は弱者、被差別者には深い理解があったが、松下村塾の弟子の高杉晋作や木戸孝允に継承されておらず、のちの「奇兵隊で穢多が活躍した」というのは誤り。

 

しかし、穢多は、身分の上昇を期待して、部落民だけの「一新団」「維新団」などを結成する。「維新団」は志願者のなかから強壮、勇気がある、足が速い、才智がある者を選考し、藩主は帯刀と胴腹着用を許可したので、軍服を着用し、藩の遊撃軍に参加した。命がけの部落民の戦いは、部落解放を求めるエネルギーと一体化し、目覚ましい働きで、長州藩の勝利の要因となった。

 

しかしながら、穢多の身分や処遇が長州藩や明治幕府により改善することはなく、報酬は米数俵、死んだ者も招魂墓に葬られることはなかった。

 

ただ、戦争時には差別的言動を弄した下級武士たちが、勝利のあとには言葉をつくし「穢多部隊がなければ敗北していた」と正直に穢多部隊をほめたたえた。

長州藩に利用されたのであったが、戦った若者たちにとってはそれが「解放」そのものであった。この戦争に参加した若者たちの思想が水平社につながる地下水脈として続いていく。

 

1866第2次長州戦争・四境戦争(芸州口の戦い)関係図 


 

●上が政府軍 下は幕府軍

 

●穢多軍への功労賞の賞状

第2次長州戦争は、長州だけでは近代兵器も足りず、勝海舟が参戦して、幕府軍とも引き分けに終わった。

 

賤民廃止令(解放令)

賤民廃止令(太政官令) 国や政府の公式文書ではなく、藩(県)、地域(村)レベルの覚書みたいなものでしか残存していない。まだ、お触書の周知スタイルだったのか…。

発布されたのは1871年(明治4)。明治に元号が代わっても、まだ戊辰戦争やって、明治4年もまだ新政府は太政官制で三条実美がトップ。

 

王政復古、五箇条の誓文、東京遷都、版籍奉還、平民に名字、岩倉具視使節団…。そんな新政府体制に法令名はなく、太政官布告○○〇号でこの「賤民廃止令」も正式な呼称ではない。

 

身分制廃止の革命的なことを、維新政府はわずか1日でやった(西欧諸国では身分制廃止には100年もかけた)。なぜそんなに急いだのか? 

 

検討がはじまったのは明治2年。民部省改正掛の渋沢栄一から大蔵掛の大隈重信に戸籍制度の草案が提出されたことに始まる。改正掛のメンバーは、元幕臣から明治政府に士官した者が多く、人権や四民平等の考えをもち、対外的にも身分制度のままでは開国が難しいと判断した。

 

穢多・非人を平民身分に繰りいれることには天皇制への否定だと反対が多く、先送りにしたまま、まず戸籍法を制定した。その後、身分制度撤廃派の板垣退助や江藤新平が政変で退却すると、大久保利通長官の大蔵省から、地租徴収目的で、穢多・非人を平民とする賤民廃止令を発布し、諸外国に近代化をアピールした。

 

(「近代XIII 四民平等と文明開化」をご参照ください)

 

●明治の「四民平等」の三角ピラミッド。華族という新しい身分はもともと公家でない人も含まれる。

●明治 身分別人口の割合

 

「解放令」は部落からの税金収入が目的だった

穢多は解放令で平民身分になったが、生活保障や産業保護策は、まったくなかった。藩から給料をもらっていた武士は廃藩置県の全員リストラで失業したが、身分は士族になり、翌年徴兵令が出るまで廃藩置県からの1年間は、藩のサラリーよりは少ないが、「秩禄」が明治政府からでた。転職までの手当は充足している。

軍人として能力のある者は政府が国家公務員として軍事の公職に採用した。

さらに徴兵令で「秩禄」が廃止になっても、政府からの公債(借金証書)を5年~14年支給。公債支給がなくなると、「金禄公債」という退職金が払われる。どこまでも手厚い。人口の7%しかない武士の退職金に国家歳出の3倍もの金を使った。それでも上級職との格差に下級武士は不満で、幕府相手に農民や穢多をまきこんで戦争をし、薩摩・長州・土佐・備前のクーデター政府が中央集権型支配をしたのが明治維新。

 

(「近代XI 台湾出兵」をご参照ください)

 

徳川時代は、身分外であった穢多部落は、幕府や藩に決まった管轄官庁はなく、村役人のような「穢多村年寄」は身分統制監視だけの役割。村内はほぼ自治状態で皮革(主に牛革)生産を独占でき、下駄などの履物も製造、販売、修理なども独占で、雪駄など新業態にまで手を広げ、部落民は生活に困ることはなかった。成功した者は部落のなかでの有力者になり、部落内格差が拡大し、村外の権力者と結びついていった。

明治からは革靴、特に軍靴の生産は近代の殖産産業で、兵部省が口を出すようになり、新興財閥がほぼ独占した。穢多身分廃止で、弾左衛門は失職に備え、皮革製造会社を計画した。ケガレによる排除から、革靴や肉食はモダンとされ、穢多の人たちは、「差別される」ということがどういうものかはっきり知ったにちがいないと思う。差別とは自己に付随している何かに原因があるのではなく、他者が「そうだ」と思い込むことだけで、差別のターゲットになってしまい、それが末代まで引き継がれていく。

 

江戸時代の履物

 

●城下町姫路の革製品の店

江戸時代の部落は、土地所有は認められなかったので地租は免除されていて、所得税や法人税もなく無税身分。被差別部落の多くは農村にあって、農業などの兼業も認められていた。

 

この状態で「平民」と同じ身分!になり、一般と同じになると、穢多の人たちは、解放令に沸いた。

しかし、為政者にとっての「賤民」の「平民」化。解放令の目的は地租改正(耕作者の農民は税を年貢でなく、地権者が土地の広さに応じた地券で払う制度)で穢多を地権者にし、税金を地券で払わせ、土地を商品化する。

部落という特定の土地だけ無税のままにはできないから、部落はいっそうなくしてしまおうと政府指導者たちは考えた。実業家西村勝三はフランスの職工を雇って靴の生産にのりだし、西南戦争で大当てし、弾左衛門は製靴工場を複数所有する近代経営者になって明治22(1989)に病没する。

 

●西村勝三(1837~1907)実業家。リーガルコーポレーション創業者。軍靴はフランスから輸入し「日本で初めて西洋靴をつくった男」「明治の工場の父」と呼ばれる。東京駅の赤レンガ、ビール瓶なども、開発から製造まで、工場生産。

解放令で湧いていた部落では、地租負担だけでなく、自分たちの生業である皮革や履物産業の専有も解かれて、平民が次々参入して、自由競争にさらされた。

資金力で近代化された設備の工場が建ち、穢多たちは、下請け化や廃業に追い込まれた。生産拠点や居住地まで失い、家族とともに、たちまちホームレス化する。

江戸などの都市部落では地租改正で農村からの流入者が被差別部落の近くに住んだり、スラムが形成されて、一般人と部落民が混然化し、不潔な一帯ということで、差別はますます強くなる。

 

戸籍と地名総鑑による差別

 

●1872壬申戸籍

明治政府は、身分ごとの人別帳に代わり、居住地単位の戸籍を作成。差別支配のためだ。戸主単位にしたのは家制度のため。現在の世帯主単位戸籍の原型。解放令をだしたのに、穢多部落だけ、「職業欄」をもうけ、「新平民」「元穢多」と記述のある戸籍もあった。壬申戸籍では28万人、穢多が確認できた。1886年に壬申戸籍は廃止されたが、1968(昭和43)まで閲覧可能。

 

メルカリに出品された部落地名総(復刻版)

壬申戸籍後、政府は、融和事業の基礎資料として、「部地名総」が作られ、コピーでは全国版で整備し、書籍化したのは、1970~1975年。

極秘販売されていたのが、発覚して大きな問題となり、政府が回収した。実態は上場企業など200社以上が購入し、採用選考で部落出身者を排除する目的で身元調査に利用していた。

 

現在でも根強い結婚、就職差別が残り、今でも身元調査会社では所持?販売されており、2005年には「第10地名総」が発覚。書籍ではなく、フロッピー、CD、電子版などで情報端末は進化してきた。ヤフオクに出品されたりもしたが、現在ヤフオクでは禁止。もちろん。

2009年Google Earthでの東京・大阪の古地図に部落地名が表示されていたこともある。

 

戸籍は必要か?

日本の戸籍制度は世界的に特殊なもので、戦後家制度が廃止されても、戸籍は夫婦と子を単位として存続した。

 

詳しくは戦後のテーマに譲るが、日本では、戸籍だけが、日本国民であることを証明する唯一の制度で、出生、婚姻、離婚、死亡などの個人の歴史の全てを家族単位で記載されており、行政手続きの基盤になっている。

 

廃止すると膨大な手続きや関連制度の運用が成立しなくなるから廃止は検討されたことがない。

 

世界では「家」から「個」と価値観が移るなかで、戸籍は廃止して、個人の識別のための国民番号を採用した。国民管理に戸籍制度を採用する国は、台湾だけ。韓国も2008年に廃止。家族制度が最も大事という思想のまま、マイナンバーでデジタル化し、戸籍は法務省、住民票は総務庁、マイナンバーはデジタル庁の縦割り行政。ツケは国民にまわっている。

 

戸籍管理はIT化していないので、「私は日本人だ」ということを外国で証明するのに、戸籍本人と筆頭者の関係が記された戸籍謄本、西暦ではなく、年号表記…。女性は結婚により名前まで変化している。夫婦別姓の選択もできない。

 

世帯主の戸籍に入るとか、姓が結婚により変化するという制度が他の国では理解できない。外国の係官に戸籍で日本人と証明するのはどれだけ大変か? 資格証明なども姓が変わってはITは戸籍から読み取ってくれない。

 

青野慶久 「選択的」夫婦別姓 ポプラ新書

時代遅れもいいところ。世界の趨勢に合わせなければならないのがITの世界、マイナンバー導入の前に戸籍廃止の議論が先だった? 父親や夫の戸籍でしか証明されない女性、夫婦別姓を認めない国は日本だけ。そんなことは外国ではありえないから、個人認証はITにはじかれて、ビジネスがストップする。

経団連などは、夫婦別姓選択制を急ぐように求めているが、それでも、この国会でも先送りで、来年の通常国会で応急処置の別姓の法的処置だと。夫婦別姓選択制よりどれだけ時間がかかるか? 

夫婦別姓を認めない戸籍法はIT会社から違憲という訴えは合憲とされ、日本はアタマは家制度。

家制度は法的には廃止されているが、戸籍では「伝統的」に基本とされ、国連からは夫婦別姓は差別的と何度も勧告を受けている。一説には、メガバンクなどのたびたびのシステムエラー、個人認証(戸籍制度)に起因するトラブルが元になっているのではないかという。

 

物価高騰対策の個人あての給付金や子どもへの給付金も世帯主にしか振り込まれない。世帯主経由でしか国民と認めないのだ。どこまで家制度なのか? マイナンバー、紐づけも危ないので、kokiはマイナンバーをつくらない。マイナンバーでしか自己証明できない方向なので不安だ。

 

部落改善運動と融和主義

賤民が「平民」になっても、人々は「ケガレ」観だけで差別したわけではない。解放令が出た頃には、川で身を清めたり、竈の火を交換すれば、ケガレは取り除けるとしたため、ケガレ観という排除の理由は人々の間では成立しづらくなっていった。

 

部落民が経済的に貧しくなり、対応できない部落の一部の衛生状態が悪くなると、「ケガレ」ではなく、「不潔」「病気の温床」という目で見られるようになり、1880年代からは、村ごとに規約をつくり、罰則を伴った相互監視による「部落改善運動」が行われるようになった。精神主義的で成果があがらず、やがて被差別民は「人種がちがう」とされ、政府はスラムとちがう「特殊部落」と言い換え、貧民部落と区別した。

大正時代は、自由主義、民本主義、アナキズム、マルクス主義、青鞜、米騒動など、大正デモクラシーが花開いた時代。全国水平社の成立とその時代に影響を与えた運動や個人について書く。

 

佐野学(1892~1953)社会学者。マルキストだったが後に転向。

(佐野学の論文)

被差別部落は、古代国家に征服された奴隷が職業分化して「穢多族」という階級を形成し、平安末期には職能団体となる。

江戸時代は差別政策として、農民や町民階層に蔑視の感情を植え付けるために、穢多を悲惨なものにしたという近世政治起源説。

「しかし、差別を植え付けて武士階級を支えた存在はもう消滅している。武士は平安末期には賤民といわれたが、社会的地位を認識し、武家社会となり、幕藩政治で主流になった。部落差別も将来解消する可能性がある」。

 

留岡幸助(1864~1934)岡山県生まれ。10代で受洗し、牧師となり、北海道で農作業をしながら少年を感化する事業を行った児童福祉運動家

留岡は、内務省の嘱託で、1903年に被差別部落の全国連絡組織で「大日本同胞融和会」という部落改善運動を組織した。差別問題を被差別民自身の「自粛」と「努力」におき、その上で一般からの「同情」と「融和」を獲得するという「融和主義」をとった。

それに対し、被差別部落の成功者で精肉店経営者、松井庄五郎は、「大日本同志会」を立ち上げた。「必要なのは部落の矯風改善ではなく、実業の育成であり、外部の反省である」といい、水平社の準備となった運動であった。

 

kokiの部落体験

1880年代には、穢多の人々は、人間として扱われないという差別を受け、資本主義の発展のなかで伝統的な皮革理業は、政府の勧業局から資金援助を受けた大企業に奪われ、差別で転職もままならず、日雇いがあればまだいい、不安定な仕事と失業。

 

働きに行けないことも怠け者と差別の対象になり、近代教育制度が始まっても、部落民の子どもは粗末な「部落学校」にしか行けず、それも一つの部落に一つしかない井戸で子どもが水汲み要員になり、家事手伝いで通うことが難しかった。失業、不登校、窓も屋根もない家。これは戦後になっても続く。

 

kokiは小学生のとき、学校に来ない部落の同級生が何人もいた。両親に近づかないようにと言われてたが、放課後行って見ると、晴れていてもぬかるんでいる地区の路地に子どもがいっぱいいる。小さな家(2.7m以上の家づくりを禁じた)は杉の皮みたいなので葺いてあり、穴があいていた。

 

女たちは家の外で煮炊きをし、男たちは花札をやっていて、子どもがやたら多い。男性は裸かランニング姿、同級生の女の子はシュミーズだった。同級生の水汲みを手伝ってバケツを彼女のおかあちゃんに渡すと、険しい顔をして、小さな声で「はよう帰りや」と言われた。私はささやくように「来たらあかんの?」と言うだけで精一杯だった。

 

同じ年に、北九州からの多くの転校生があった。新しくできた団地に閉山した炭鉱から関西に引っ越してきた子どもたちで、にぎやかな北九州弁が新鮮で、仲良くなった。住んでいるコンクリートの失業対策団地で遊んで、銭湯にも行った。私の親は銭湯に行ったというと、「やめなさい。家のお風呂にはいりなさい」というので、精一杯の反抗で、「その子たちも部落だよ」と返した。

 

穢多の身分が解消されたあと、穢多だけでなく、差別がきつく、平民も穢多の人たちとどう付き合っていいかわからなかったと思う。部落の友だちに、○○ちゃんでなくて、「部落」と教えたのは大人たちだった。今も、被差別部落のひとたちは、出生地を他人だけでなく、自分の子どもにも語らない。

 

●丸岡忠雄(1929~1985) 光市生まれの詩人。被差別部落に生きた。長男が誕生した日に書いた代表作「ふるさと」

 

岡林信康「手紙」

 

 

1971年、kokiが高校生の頃、岡林信康という関西のフォークシンガーの「チューリップのアップリケ」という歌を本人の生で、関西のライブハウスで聞いた。これは、部落の少女が恋愛をし、結婚を約束した相手の家族の反対で結婚できないことを知り、遺書を書き自殺した事実による。岡林が手記が書かれた本を読んで曲にした。

 

岡林信康「私たちの望むものは」

 

 

 

 

もう1曲、「わたしたちの望むものは」という同時代の歌も。これは部落ではなく、解放を望む立場から書かれている。フォークゲリラと言われていた理由がよくわかる。私の知り合いは、職場でもやもやした日にひとりカラオケで歌います。(koki)

 

 

 

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