(共同通信の記事より)

<あのころ>6代目三遊亭円生が死去 45年前の9月3日

1979(昭和54)年9月3日、6代目三遊亭円生が79歳の誕生日に心筋梗塞のため死去した。千葉県習志野市での高座を降りた直後に倒れた。落語協会の会長を務めたが、真打ち乱造に反対して脱会し、落語三遊協会を結成。「牡丹灯籠」「子別れ」「三十石」などを十八番に芸域の広さを誇った。写真は東京・青山での葬儀。

 

 

習志野市文化ホールで高座中にたおれ、帰らぬ人となった圓生さん、その碑が文化ホールの入り口の前に建てられています

 

 

 習志野文化ホールが生まれた昭和53年(1978)、落語界では大騒動が起きていました。落語協会の真打昇進をめぐり、大量に若手の昇進を認めようとする柳家小さん会長と、未熟な者の昇進など絶対に認められないと主張する円生が対立。怒った円生は一門を率いて落語協会を脱退、落語三遊協会を結成しますが、寄席の席亭らはこれを認めず、円生一門は寄席には出演できなくなってしまいます。そこで各地のファンが落語会を催し、一門はこれに活動の場を求めます。

 当時の吉野孝市長も、こうした「ごひいき」の一人でした。円生79歳の誕生日に当る9月3日、文化ホールのあるサンペデックの宴会場(現モリシアホール)に円生を招き、後援会を催します。高座に上った円生は、殿様物の枕として使われる「桜鯛」という小噺を始めますが、本題には入らずサゲ(落ち)としました。既に異変を感じていたのでしょう。高座を降りた直後に倒れ、習志野第一病院に搬送されましたが同日夜に死去。心筋梗塞でした。
 文化ホール入口前の植え込みに、円生の「根無し草 語る浮世を 円く生き」という句碑が残されているのは、そういう次第なのです。

名人六代目三遊亭圓生終焉の地「根無し草 語る浮世を(まる)くき」の句碑

<吉野元市長の回想>
圓生が高座をおり、舞台裏に入ろうとした瞬間あの長身痩躯がグラリと傾き一門の人々に抱えられたが、このことは誰一人気がつかなかったようだ。そして控室に退る途中余りのことに席から飛び出したわたしは、“師匠大丈夫か!”と声をかけるや、苦痛に耐えながら……一世一代の醜態をお見せして終いました。どうぞお許しください……と深々と頭をさげ立去る姿に、一瞬もしやという不安と戦慄が背筋を冷たく走ったが、やはりこれが悲しい忘れ得ぬ名人最後のことばとなって終った。この事態の急変により、直ちに市内の病院へ移送し、そして千葉医大より稲垣教授が駆けつけ、四人の医師の懸命の治療も空しく、夜九時三十五分、はな夫人、圓楽師匠をはじめ多数の一門に見守られながら帰らぬ人となった。まさに“巨星墜つ”病院の一室で関係者と共に余りのことに滂沱の涙をとどめうべくもなかった。容態急変のなかで師匠ののこした「一世一代の醜態」とは、はなしの半ばで心筋梗塞の息苦しさからくる声のふるえであり、これを死の直前まで嘆き、皆さんに申訳ないと訴えていた情景は、名人の芸に生きるすさまじいまでの根性に、今更ながら肺腑をえぐられる思いである。

 

文化ホールの巨大フレスコ画、圓生の碑、舟越さんの彫刻、ドイツ大使館から送られたモリシア前の菩提樹

JR津田沼南口開発で、これら習志野市の貴重な文化財はどうなる?市民には何も知らされない

 

 

「町おこし」に関心がない今の習志野市役所

習志野市の新たな「聖地」となるかも知れない、この圓生句碑。でも今の習志野市には、そんな「町おこし」のセンスもやる気もないようです。今までも何度も「町おこし」のチャンスを逃がしてしまっています。

 

 

「市民にも費用を応援してもらう」ではなく「再設置の可否を決める」クラウドファンディング!?

「音楽のまち習志野」のはずなのに、「パイプオルガン再設置の可否を問う」クラウドファンディング(市は一銭も金を出さないし、募金が集まらなければ再設置しない)などといってパイプオルガンを「邪魔者」扱いする宮本市長の姿勢には疑問の声があがっています。

圓生さんの句碑の保存についても、町おこしをやる気がないことについても、姿勢を改めて欲しいですね。文化財や歴史遺産をつぶしてタワマンだらけになった習志野市、あまり想像したくありません。

 

 

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