(毎日新聞の動画より)

関東大震災の朝鮮人虐殺テーマに美術展 千葉の在日朝鮮人ら企画

101年前の関東大震災時に「朝鮮人暴動」のデマが広がり、市民や官憲が朝鮮人を虐殺した事件をテーマにした美術展が27日、千葉市美術館「市民ギャラリー」(千葉市中央区)で始まった。9月1日まで。

 

関東大震災と朝鮮人虐殺。そして習志野で起こったこと

 

こちらは、昨年の韓国KBSの番組です。

「朝鮮人を殺せ! 虐殺、その後100年 関東大震災」( 韓国 KBS 「追跡60分」)2023年9月1日放送

「あったことをなかったことにし」て、都知事就任の2年目から朝鮮人虐殺犠牲者慰霊債への追悼文送付をやめた小池知事について、「右翼の主張どおり、朝鮮人虐殺そのものを否定するのではないかという批判が出ている」と説明されています。

 

虐殺は、(在郷軍人や住民による)自警団でだけではなく、習志野騎兵連隊が直接手をくだしたり、一旦収容した朝鮮人たちを自警団に「払下げ」したことなどが語られています。

 

(編集部注:この番組の中で、慰霊碑のある八千代市観音寺のご住職が「習志野市に今も自衛隊の基地があり、そこに収容された」と話していますが、「今の自衛隊の基地」があるのは、船橋市(と八千代市)。震災時朝鮮人が収容されたのは、習志野市東習志野「ドイツ兵俘虜収容所」跡につくられた「陸軍習志野支鮮人収容所」ですので、ご住職の勘違いだと思われます)

 

習志野で実際に起こったこと

この番組にも登場する平形さんが掘り起こした地域の歴史について、最近出版された「地震と虐殺」(安田浩一著、中央公論新社)には、こんな風に書かれています。

 

自警団から朝鮮人を守った地元住人

(船橋市)丸山地区にも北総鉄道の建設工事に従事する朝鮮人労働者が二人、粗末な飯場に住んでいた。

震災後のある日、近隣の村から40人ほどの自警団が押し寄せ、二人の朝鮮人を引き渡せと迫った。丸山の人々はこれを拒んだ。引き渡せば殺されてしまうことを悟ったのだ。

「こちらに渡せ」。そう迫る自警団に対し、住民たちは「おめえらにやるわけにはいかない」「朝鮮人を殺すなら、俺ごと殺せ」と体を張って抵抗した。互いに鎌などの武器を手にして威嚇するなど、一触即発の状態だった。自警団は根負けしてその場は引き下がったが、まだ安心はできない。その晩、住民たちは朝鮮人飯場を徹夜で見張り、自警団の襲撃に備えた。翌朝、警察に朝鮮人の保護を訴え、どうにか二人の命を助けることができた。

しばらくして朝鮮人が丸山に戻った。彼らは家々を回り、助けてくれたことへの礼を伝えたという。そのとき、ひとりの住民が、「めでてえから、なにか朝鮮の踊りでもしてくれねえか」と頼むと、ふたりの朝鮮人は民謡「アリラン」を歌いながら踊ってくれたという。

 

これとは逆の話も書かれています。

軍によって払い下げられた朝鮮人

子どもや女性たちがいない時に、(自警団に)捕らえられていた3人の朝鮮人は日本刀で斬り殺された。

<一刀のもとにずばっとやったなら苦労させないで死んだかもしれないけど、下手な刀で下手にやったから死ねないで苦労したという話は聞いた>

無抵抗の朝鮮人を、要は処刑したのだ。

何と、殺された朝鮮人は軍によって「払い下げられた」人々だった。村人は朝鮮人殺害を軍に頼まれたというのだ。

<(軍の人間から)大和田新田に、三人の朝鮮人がくるからもらいに来いという触れがまわったのよ。この辺は全部三人。朝鮮人をこの辺に配給してよこしたわけよ。ここは大和田新田、大和田、萱田、どこもかしこもみんな三人ずつ、多いところで4にんくらいいったかしら。もらいにいった場所はことによると習志野原までいったか>

そう、軍による生身の人間の「配給」である。ちなみに「習志野原」と言うのは、陸軍習志野演習場のある地域のことだ。そこに習志野俘虜収容所が置かれていた。

収容所は日露戦争時には1万人を超えるロシア兵捕虜を、第一次世界大戦時には、ドイツ兵捕虜約1000人を収容していたことで知られる。ドイツ兵の一部はここでオーケストラを組織し、その活動は「恩讐を超えた」美談としていまも地元では語られることが多い。

だが、震災直後の収容所には、ベートーベンの旋律には程遠い、物騒な空気が流れていた。

収容所は「陸軍習志野支鮮人収容所」と名付けられ、保護の目的で連れてこられた中国人、朝鮮人が収容された。その数は3000人を軽く超えていたという。

この収容所が、いわゆる「配給」元であった。

 

習志野騎兵連隊の出動

地元の村々に収容した朝鮮人を「配給」「払い下げ」しただけではない。同地の騎兵連隊は震災直後、朝鮮人鎮圧のために各地へ派遣され、自らの手を血で染め上げている。虐殺の下手人として暴れまわっているのだ。

 

朝鮮人が登場しない「軍郷」の物語

震災当時に騎兵連隊の書記を務めていた会沢氏は聞き取りメンバーの調査にこう答えている。

「おかしい」と思われる朝鮮人を選び出し、「ひっぱり出した」。会沢の連隊では16人の朝鮮人を営倉に入れたという。

<そしておかしいようなのを…ホラ、よくいうでしょう…切っちゃったんです>

斬られた者のなかには「日本人か朝鮮人かわからないのも居た」という。

震災の混乱にあって、収容所内には少数ではあったが日本人の避難民も混じっていた。

「朝鮮人がどれで日本人がどれかわからない」ので、「朝鮮人みたいな顔してるのはみんな、日本人でもやられちゃった」という。

”処刑場”となったのは連隊から少しばかり離れた場所だった。そこは現在、習志野市の施設「プラッツ習志野」のある場所だ。

「プラッツ習志野」は、かつて連隊本部が置かれていた八幡公園からは直線距離で約1.5キロ。歩いて15分ほどを要した。

おそらくは朝鮮人虐殺の理不尽さにまったく無自覚であったわけではなく、殺害の意味を知っていたからこそ、自らのテリトリーから離れた場所を、その現場としたのだろう。

(聞き取りに当たった)平形さんは「軍は、万が一責任を追及された場合、民間の自警団にその責任を転嫁する考えがあったのでは」と推測する。

 

「あったことをなかったことにすれば」同じあやまちをくり返す

 

大事なのは、小池知事のようにヘイトスピーチグループに乗っかって「あったことをなかったことに」して誤魔化すことではありません。「裏金問題」も「統一教会問題」もそうですが、「あったことをなかったことに」すれば、また同じあやまちをくり返すことになる。関東大震災の時や戦争の時のように、デマ宣伝にあおられて、またとんでもないことをしてしまう。

後世に「事実をきちんと伝え」、「二度と同じあやまちをくり返さない」。「あらゆる国の人々と、対等で未来志向の信頼関係を築く」ことが大事なのではないでしょうか?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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