岩倉使節団が学んだもの

 

●岩倉使節団 女子を除く10代のメンバー(一部)。

留学生(各国の訪問先で留学予定)が多いが、一部は随行員。使節の2世(20~30代もあり)の場合は派遣元は政府。その他は県、私費留学生もあり。

 現在も、国会議員の2世、3世は、ほとんど留学経験あり。もちろん私費だが、その後は父親の公設秘書になり、議員公舎や公邸に住むこともある。

 

岩倉使節団が学んだもの

徳川幕府をつぶし、権力中枢に居座った薩長の人物たちには共通した「日本をこんな国にしよう」という確固たる国家ビジョンがあったわけではない。リーダーに相当する革命家もいなかった。

律令制の太政官政府のトップは公家の三条実美だったが、暫定のハリボテ。政府内はバラバラで、権力闘争と化かしあいで大局観がまるでなかったのは、廃藩置県に至る経緯でもわかる。謀略や暗殺で解決していたのよ。

そういうなか、新政府は対外的には強行的。ロシアがサハリン南部を占拠し、大久保利通は軍隊派遣論。木戸孝允は以前から朝鮮侵略ねらい。

武力クーデタで成立し、いつまでも場当たり的なのは、世界には通用しない。外国の文明国をみて「みんなでお勉強しなきゃね」で、岩崎使節団。

政府要人や官僚の7割が参加者した。共通する国家像は、「欧米列強にならう帝国主義国家」。明治初年の対外和親の布告は「大いに兵備を充実し、国威を海外万国に光輝しなければならない」。

このころの欧米各国は産業革命、市民革命、資本主義…と体制の変革期。これから、富国強兵で他国へ経済的、軍事的侵略をやろうと思ってる国の使節団は何を学んだのだろう? 

 

久米邦武(1839~1931)歴史学者 

久米邦武の使節団の公式記録

は、見聞が詳細に記されており、驚くほど正直でフェアなものだ。

久米邦武?何者?


佐賀藩士の家に生まれ、藩校で大隈重信と出会い、藩主に仕えていたが、25歳で江戸の昌平坂学問所で5年間学び、藩主の近侍を経てから、明治政府に出仕し、32歳で岩倉使節団で資料収集・記録係を務めた。帰国後は報告書をまとめる。使節団の1年9カ月は観察に専心し、杉浦弘藏 の通訳で聞き取り調査を行い、各地で統計書、地理歴史書などを蒐集した。

杉浦弘藏(留学中の変名・本名は畠山義成1842~1876)

帰国後は太政官(内閣府)で国史編纂に携わったのち、東京帝国大学、立教大学、大隈の招きで早稲田大学に招かれ、国史を講じた。現在、品川区大崎の久米美術館では、息子の久米桂一郎の洋画とともに邦武が残した史料が見られる。

日本人が西欧文化から受けた衝撃と生じた劣等感が、どうして富国強兵、侵略に向かっていくのか?

この使節団の記録と、明治政府のキーパーソンである木戸孝允も日記でこの大旅行を記録しているので、それも読んでみた。明治を今の民主主義の時代から批判するのは簡単だけど、当時のまちがいの原因を考えるのは、当時の人に身をおかなきゃならない。

 

岩倉使節団の団長・副長クラス  

左より 副使・木戸孝允(38)長州 / 副使・山口尚芳ますか(32)肥前→岩倉と交流の深い外務省次官 / 団長・岩倉具視(46)公家 / 副使・伊藤博文(30)長州 / 副使・大久保利通(41)薩摩 サンフランシスコで撮った。アメリカ人には岩倉の和装が「断然、カッコいい」と評判になった。

2071年12月21日(明治4年11月10日 冬至)、岩倉具視を全権大使として、政府の要人と中堅の官僚の46名と留学生43名、通訳などの随員18名による総勢108名がアメリカ、ヨーロッパを中心とした視察旅行に横浜港を出発した。船の名はアメリカ号、4554トンの外輪船(蒸気機関船)。

アメリカ号イメージ 

岩倉使節団のルート

幕末から明治初期に修好通商条約を結んだ各国への訪問で、世界一周の73年9月までの632日間の予定。公式記録をめちゃ簡単にkoki流解説します。

太字」は報告書のなかの久米の省察。銅版画は公式記録当時のもの。

 

アメリカ体験

サンフランシスコ

サンフランシスコ上陸・初めて見た外国

3週間で最初の訪問国であるアメリカのサンフランシスコに上陸。知事を初め、官民あげての熱烈な歓迎を受けた。公園や博物館、工場などの見学では、「人々が交流し、知識を得ることによって、科学が進歩し、産業を振興させて富を築く」とし、「日本では実学を好まず、家に閉じこもり抽象的な思弁を好む」という。2週間滞在。

 

大陸横断鉄道

シエラネバダ山岳鉄道の雪覆い

東海岸のワシントンまで鉄道で1か月。

アメリカの総人口は当時日本と同じくらいだが面積は数十倍。とにかく広い。器械での大規模農業の威力に驚いた反面、「日本の農夫は器械を利用せず、怠慢だ」という。開拓の歴史に興味を示し、背景にキリスト教や初等教育の影響を見出す。

 

天皇の委任状が必要だったのだ!

ワシントン

合衆国国会議事堂

ワシントンでは、駐米公使の森有礼(ありのり)が出迎えた。

 

森有礼(1847~1889)

父は薩摩藩士。イギリスに密航し、留学する。アメリカ公使を経て、初代文部大臣。大日本帝国憲法発布の日に国粋主義者に刺されて死去した。

 

使節団は、人々の歓待ぶりに気をよくし、幕末の不平等条約改正の予備交渉を始めたが、交渉に必要な天皇の委任状(信任状)を持参してこなかったため、大久保と伊藤博文の2人を委任状を取りに帰国させることになり、滞在は7カ月延びた。国際法上、条約が成立したら天皇の委任状が必要ということも知らないほど、国際感覚が欠如していた。

岩倉は、「他国を差し置いて米と単独に交渉しても有利な改正に結びつかい」と彼らが戻ってくる前に交渉を打ち切った。交渉打ち切りの本当の理由は、物珍しさに歓迎されても、意見交換のレベルになると、相手にはしてもらえないということを思い知ったからだと言われている。

2人が戻ってくる間、久米らの一行は郵便局や特許庁、海軍兵学校などを見学し、そのシステムを学んでいる。

 

グラント大統領と会見する使節団一行

移民についても考察している。黒人と白人の違いは「皮膚の色は知性と関係ない。移民後十年もたてば、黒人から傑物が輩出し、白人でも学のないものは使役される側にまわる」。アイヌを迫害する北海道の開拓庁におしえてやれよ。

女性に対しても、「男は婦人に先を譲る。夫は妻に仕える」とレディファーストを不思議がり、「アメリカでは共和制で男女同権が行き渡っており、婦人に参政権が公認されている州もある」と記すが、このことについては深く学ばなかったようだ。

日本では男女の任(役割分担)が決まっており、女性が外にでていくことは任ではない」だと。

アメリカ政府は、使節団の無聊の日々に同情したのか、東海岸各地に招待する。ニューヨーク、ナイヤガラ、サラトガ(リゾート地)、ボストン。

活気のある人々に自由を希求する精神と自主の精神を見出したが、大久保の秘書的な存在である久米はそういうアメリカの自由を思想として取り入れることには否定的で、「アメリカは自由の弊多し、大人の自由を全くし、一視同仁(人を差別せず平等に視て、仁愛を施す)の規模を開けるには、羨むに足るが如くなれども、貧寒小民の自由は放縦ににして忌憚する所なし」。庶民に自由を与えても放縦になり、国としての結束が乱れるというのである。明治10年ころよりの自由民権運動への弾圧の言いわけと同じである。

 

明治の宗教をどうするか?

ニューヨークの記述で力をいれているのは、教育に果たした宗教の功罪である。

YMCAや聖書協会を見学した後、中国語訳の新旧約聖書を通読した。

聖書は西洋の経典で人々の品行の基礎となるものである。欧米の人々に深く浸透しているというのは東洋の儒教や仏教の比ではない」。

神を敬う心はたとえていえば酸素のようなもので、姿は見えないが、品行を正しくし、治安を保つ原動力になり、国を富ませる」。

評価するのは、宗教の社会有用性である。

 

一方、聖書の荒唐無稽とする面は野蛮な心性として否定する。

異端の説を唱えて磔刑になった者を天帝の子とし、泣き叫びながら伏し崇めているが、その涙の理由が何なのか理解できない」。

久米が現実主義者、近代的合理主義者であることがわかる。

 

明治の開国で、キリスト教解禁の問題は、外交交渉上、重要課題となっていた。久米は、宗教について、迷信や非合理性を抜き取り、道徳的なものだけを抽出させた、欧米の「モラルフィロソフィ」(道徳哲学)の採用を提案したりする。

森有礼や福沢諭吉など啓蒙知識人も同じような意見をもっていた。明治からの宗教と道徳については、ジェンダー問題から検討する予定です。

 

イギリス体験

ロンドンビスケット工場 世界最大級。

●ハントリー&パーマーのビスケットは今は手作りで作っているという噂がある。

画像は当時の缶(アンティーク)

 

イギリスは、アメリカと違って、面積や人口は日本に近い。経済力や生産力は世界一、島国で海洋国家。世界中に植民地をもつ。立憲君主制でもあり、女王にも謁見した。

 

工業化と貧富の差

イギリスの富強の源泉が鉄と石炭による工業力であり、蒸気機関、汽船、鉄道を発明し、綿や羊毛、麻など原材料を輸入して製品化しMADE IN UKとして輸出する世界相手の貿易に、日本でも?と活路を見出した。植民地との交易で莫大な利益を得ているのは、「小さな土地に蟻のように密集していても、大きな畑を植民地に持っている」というわけだ。

 

1909年当時のイギリス帝国の貿易国

イギリスが豊かなのは、人々が勤勉で質実なことをあげ、その働きの成果は富裕層が独り占めして貧困層には及ばず、通りには裸足の浮浪児がたむろし、ごろつきやスリがうろつき、ロンドンには10万人を越す娼婦がいるという。

貧困ゆえに、アメリカ、イギリス、カナダ、オーストラリアに移住する者がどんどん増加する一方、初めて労働組合が法的に承認されて政治的発言力が増していった時期。

 

議会、軍隊、教育、博物館の役割

●ヴィクトリア女王(1837~1901) 

在位は63年7カ月。使節団は4カ月間、会見を待ったが、何度か空振りのあと、5分ほど謁見。女王は、「着物の美しさ」が印象深かったそうだ。

 

スコットランドで避暑中の女王の帰京を待ちながら、一行はロンドン市内の視察を行い、バッキンガム宮殿や国会議事堂では、イギリスの政治制度を学んだ。久米は立法の二院制度や保守と革新の2大政党が競い合うことでバランスの取れた議会運営がされていることに感銘する。

 

西欧各国政府が使節団の見学先とし一番先に選んだのは、軍備に関する施設であった。殺し合いをするのは、野蛮や未開だと思っていた久米は、イギリスが10万人もの壮健な男子が常備兵として殺戮訓練を受けていることに驚く。

そして、考察の結果、「武力によって民衆を威圧服従させるのは文明国ではない。国全体の財産を守る目的のために、文明国では軍備が必要だ」と納得するのである。

幕末から維新にかけての日本の内部抗争や、鎖国が解けてこれから直面するであろう外国の介入から守る自国防衛に思いを巡らせたのかも知れない。

 

小学校の訪問においては、幼き者にも「考えさせる」双方向の教育が行われていることに感銘し、「男児でも女児でも一定の年齢になれば、学びたい、知りたいという心が自然に湧いてくる。父母たる者は、この機会を失して教育を疎かにすれば、高尚な人間に育つべきところを愚昧の徒に至らしめてしまう。西欧では近代に入り幼児教育に力をいれていることを学ぶべきである。」

 

博物館では、「進歩とは古いものを捨てて新しいものを目指すことではない。文明はいきなり起こることはない。必ず順序を踏んでいる。先に知識を得た者がそれを後の者に伝え、先に目覚めた者が後の者を目覚めさせることにより文明が進むのであって、これを進歩というのである」。

そして例えとして、「欧州人は一度、家を建てれば、代々保守の手を加えてますます美しくものとしていき、清国人は建てる時は手間暇かけるが、その後は維持の労を怠り、廃墟のようになっても壊さず、我が日本はどうかと言うと、いずれとも異なり、急いで手を抜いて建てた後、出来上がったと思うと、すぐに壊して新たに建て直すのであり、進歩改良が少ない。この違いは国民性の差によるものであろうか、それとも教育が不十分であるためであろうか」。

 

文化ホール、公民館、図書館に手をつけるわが市の市長、宮本たいすけに聞かせてやりたい。タワマンより郷土資料館や博物館をつくれ!

 

イギリス各地の都市●リバプール風景

使節団一行は特別列車でイギリス政府の招待で地方各地を訪問した。

イギリスは日本と同じ海洋国家で貿易立国である。イギリス第2の都市リバプールでは、商品取引所、造船、クレーンなどの港湾設備、倉庫から梱包、船員養成学校から流通のあり方まで、3泊4日の日程。

使節団に政府の商業や貿易担当官庁の官僚はいたのだろうか? いなかったとしたら、もったいなさすぎるプログラム。

 

スコットランドの観光

エディンバラ、山岳湖水地方 使節団も全く同じ風景をみた

現在でも風光明媚の景勝地で、ヨーロッパ有数の観光地。久米も公的な立場を忘れて、日本を思ってホームシックになった。

都会生活を送る者が山中田園では人生の快楽を満喫すると、新しいアイデアがでて都会での発明が生まれる」という。

久米は明治初期の岩倉使節団の旅の途中で田園都市を思いついた。産業革命先進国のイギリスではロンドンなどはスモッグの公害で、そこから田園都市構想が生まれる。日本では大正時代に渋沢栄一が導入し、田園調布などの郊外住宅を開発した。

 

裕福な貴族に驚く

久米が驚いたのは、イギリス貴族の裕福さである。幕末の朝廷は、領地も幕府の代官が収めていて、幕府から与えられたのは天皇家、宮家、五摂関家など公家全体で10万石。下級公家は下級武士より生活は苦しく、お粥が常食だった。和歌や書道の家元になったり、内職や自家菜園でかろうじて生きていた。家はボロ家、着るものは擦り切れて、下級公家の岩倉具視は訪問客には必ず金をせびっていたともいわれていた。

久米はこう語る。イギリスでは地方の小貴族でも耕作地は、小作農民に貸し付け、その地代が年に100万(今の100億円以上)になり、豪壮な邸宅(城)に暮らしていた。今の国王も財産家である。

日本では、大名でも近代化の過程で藩主の座を終われ、急速に没落したが、久米が会った貴族たちは、近代化されても特権を維持したまま悠々と暮らしていた。領地に工場を建てて、産業を興して資本家になった貴族も多かった。戦争と税金で没落する貴族があらわれるのは、第1次大戦後である。

スコットランドのニューカッスル、ブラッドフォード、シェフィールドでは、輸入した羊毛(オーストラリアから)、綿(アメリカから)、亜麻(ロシアから)を加工する織物工場、炭鉱などを見学した。久米は、「東洋人は原材料を産出できるのに、進取の精神に乏しく、加工技術を得ることに無関心の怠け者だから、近代化から取り残される」「西洋人は、事物の理をぬきだし、究める精神があり、物理、化学、工学の分野を切り開き、産業に応用して、富を築く」。

 

福祉社会モデル

ユネスコ世界遺産ソルテア村 2001年、村全体が登録。

●上から、繊維工場・居住区・学校と福祉施設

イギリス北部、ウエスト・ヨークシャー州の毛織物工場があるソルテア村では、資本家が地域全体に注目し、工場と学校、病院、教会、福祉施設までも建てたまちづくりに言及している。

イギリス人は、労働者を保護し、貧民救済に力を尽くすことを名誉のひとつとしている。半日、工場で働いたあと、村の学校で半日授業をうけて、知識と実地を交互にすすめ、給料をもらう。学校の前には養老院があり、老衰した職工をいれて面倒を見る。村の病院は、治療を受けられて、薬を出す」。

村人たちは工場経営者「ソルト」を村名にした。これは、「揺り籠から墓場まで」の福祉社会に引き継がれ、渋沢栄一も目指すべき実業社会のモデルとした。

 

フランス体験

パリ●パリの凱旋門 

 

欧州文明の本質

「フランスは欧州の最も開けた部分の中央にあって様々な産物が行き交う文明進展の中枢である」。使節団はイギリスから英仏海峡を渡り、フランス兵士の捧げ銃の礼によって迎えられた。英仏が言葉や食事を始め、人々の雰囲気、街のたたずまいなど、英仏の文化の違いが興味深く書かれている。

わずかな海峡で隔てられて、両国が昔から互いに侵略しあい、行き来しながら幾千年。それぞれの生まれつきを守っているのだ」。

日本と朝鮮も同様なのに、日本は理解しようとせず、いつもマウントをとろうというスタンスでいることを不思議に思わなかったのか?

 

米英と違ってローマ・カトリックの国なので、パリ市中には壮麗な教会や塔、城や宮殿が屹立し、手入れされた公園が70もある。しかし、公式記録には、文化や芸術の記述がほとんどなく、使節団の目的が外交交渉、近代的社会制度、実用技術の視察…なので、美術館、博物館、コンサートは、印象が強くても無視しているのか?

 

しかし、伝統文化の重みに触れ、「文物の重みは、今から取り戻そうとしてもかなわないものが多い」「図書館や博物館には、東洋の我が国の文物にも大枚を惜しまず、手間を厭わず収集採録されていることに驚き、その解説を聞いて、我が日本を一層理解して帰国した」。

西洋が日進月歩の進歩を遂げている根本は過去を大切にする気持ちによるものだ」。「数百年、数千年の知識を積み上げることによって文明の輝きは生まれる」。

イギリス同様、工場の近くで、労働者向けの住宅政策や社会福祉が行われているのも目のあたりにした。2年近く前にパリ・コミューン、共和制を経験したばかり。視察で、祖国ニッポンの庶民が新政反対ののろしをあげていることに思いをはせることはなかったのだろうか? 新政フランスは憲法も審議中で、国家建て直し中のティエール大統領にも謁見した。

フランスはパリだけ。このあと、欧州のベルギー、オランダをへて、プロイセン(ドイツ)に。使節団は、ビスマルクのプロイセンに最も多く影響を受けたので、次回に詳しく。

文章も画像もこれまで最高の分量になってしまった。(koki)

 

これまでの投稿は、以下でご覧になれます。

(Narashino gender1~41)

(Narashino gender42~)

 

 

 

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