(読者投稿です。説明のため「住みたい習志野」の記事を追記させていただきました)

今年の8月1日は習志野市制施行70周年。市長Newsでも取り上げたが…

 

8月1日は習志野市制施行70周年、ということで宮本市長が市長Newsでコメントしましたが、その内容、ちょっと残念でしたね。

 

源頼朝が鷺沼に兵を集結して鎌倉に向った。そしてその鷺沼で弟と劇的な再会、という史実を完全にスルーしてしまった宮本市長

 

市長は「源頼朝公が海から安房に上陸して千葉県側から東京を通って鎌倉側に回り込み、鎌倉幕府を開いたあたりから集落が拡大していき…」とだけ触れ、鷺沼の「サ」の字も言いませんでした。

 

実は鷺沼(旧市庁舎周辺)は頼朝が兵を集結させ、鎌倉に向った、そしてここで弟の阿野全成(あの・ぜんじょう)と劇的な再会を果たした、という重要な場所です。

市長がこの史実について無関心(無知?)でNHKにもアピールしなかったためか、「鎌倉殿の13人」でも「鷺沼」は完全にスルーされてしまいました。惜しいことをしましたね。

「武家の棟梁源氏はなぜ滅んだのか」(野口実)という本の中にも、下記の地図とともに

「頼朝は下総国府(市川市)まで進軍の後、しばらく鷺沼(習志野市鷺沼)に滞留し、ここで石橋山合戦敗走後、わかれわかれになっていた武士たちを集め、また弟の醍醐禅師全成らが来会した。」と記述されています。

 

 

 

 

 

なぜ船橋市に習志野が多いのか?

 

宮本市長は「なぜ船橋市に習志野が多いのか?」と言っていますが、これは「なぜ船橋市に習志野(という地名や駅名)が多いのか?」の言い間違えですね。まあ、これはご愛敬。

 

(なぜ船橋市に習志野が多いのか、についてご紹介します。)

 

事実、「習志野」「習志野台」「西習志野」はみんな船橋市だし、

新京成線の「習志野」駅、「北習志野」駅も船橋市です。

 

習志野市にあるのは「東習志野」、駅名として京葉線の「新習志野」駅、そして「習志野高校」ですね。

 

市のホームページの内容をなぞって、市長が以下のように説明

市長は市のホームページの内容をなぞって、以下のように説明しています。

 

昭和になり、既に市政を布いていた千葉市と船橋市に挟まれた習志野演習場を囲む7町村で合併して「大習志野市」をつくる構想が当時の町長により進められました。

しかしながら第二次世界大戦の勃発によって実現には至りませんでした。

 

終戦後、新たな町村合併の必要性が出て来た

初代白鳥義三郎市長は合併によって市になることを決めました。

初めに二宮町に打診したそうですが、二宮町は船橋市と合併することになった。

 

次に幕張町と犢橋村に打診し、昭和28年(1953)11月に合併協議会が開かれ、実はこの時新しい市の名前を「習志野市」、市役所は津田沼駅と幕張駅の中間に建設し、そこに「習志野駅」を作ることに決めた、と記されています。

この「習志野駅」、現在の「幕張本郷駅」あたりだと思われます。

しかし、当時の千葉市が「大千葉市構想」を掲げていたことから、千葉市に隣接していた幕張町と犢橋村では、どちらに合併するか紛糾し、合併協議会の決定が取り消された。

そして最終的には千葉県が仲裁に入り、昭和29年(1954)8月1日、まず「津田沼町」が「習志野町」に町名を変更し、その後千葉市となった幕張町の一部を習志野町に編入し、人口の条件を満たした状態で「習志野町」から「習志野市」に昇格する、という申請を同日内に行って、8月1日に「習志野市」が誕生しました。

(以上が市長の説明)

 

「不思議です」と市長は言うが…

宮本市長は「習志野と呼ばれる地域や駅は、実は船橋市内の方が多い。不思議です。なぜ船橋市に習志野が多いのか?」と言っていますが、むしろ津田沼町のような小さな町がなぜ「習志野」などと名乗ったのか、の方が「不思議」と言えます。

 

ここで市長が触れていない、いくつかの点について考えてみたいと思います。

「住みたい習志野」の、この記事が参考になります。

 

なぜ二宮町は津田沼町と手を切ったのか?

「なぜ」というなら、なぜ二宮町は津田沼町と手を切ったのか、でしょうが、そこは「二宮町は船橋市と合併することになったことから」と逃げてしまっています。元々、菊田神社-菊田川-二宮神社という強い歴史的つながりを持っていた二宮町がなぜ、鼻をつまんでしまったのか。国からの空襲の補償金をめぐる紛糾という話が本当なのかどうか。謎のままです。

 

 二宮町が船橋市に鞍替えした理由がよくわかりませんが、太平洋戦争中に起きた滝台(たきだい)空襲(二宮町役場付近が爆撃された)による国の補償金配分を巡って津田沼町と二宮町の対立などがあった(Wikipedia「習志野」の項の内「由来」)、とされています。

 

津田沼・幕張・犢橋の3町村で「習志野市」とするはずだったが、「二宮町」が船橋市へ、「犢橋村」は千葉市へ、「幕張町」は千葉市へ行く部分と習志野市へ行く部分に二分割、と次々に習志野市を見限る(?)⇒「大習志野市」構想は消え、「小習志野市」になった

 当時、合併後の町域を市に昇格させるには人口3万人が要件とされていました。そこで、津田沼町は、従前から続いている幕張町との合併交渉に、二宮町がいなくなった代りとして犢橋(こてはし)村を加えることにします(なおそれまでに、大和田町から幕張町に、東習志野の一部の編入があったことは先ほど述べました)。津田沼・幕張・犢橋の3町村で合併協議会が発足し、この年12月の協議会では合併後の新市名を「習志野市」とすることが決定されました。しかしそれが発表されると、犢橋村ではむしろ千葉市(大正10年(1921)市制)との合併を望む声が噴出してしまいます。二宮町が「寄らば大樹の蔭」ということならば、こちらもむしろ県都・千葉市に編入してもらおう。年が改まった翌昭和29年(1953)1月、犢橋村は合併協議から降り、その後、7月1日に千葉市に編入されるのです。

 こうなると、いったんは津田沼町との合併を受け入れていた幕張町でも、むしろ千葉市との合併を望む意見が強くなってきます。5月13日の幕張町議会では、千葉市との合併を議決します。幕張町には5つの旧村(実籾、長作、天戸、武石、馬加)がありましたが、ここに至って幕張町は、津田沼町との合併を望む意見が強い北部と、千葉市との合併を望む意見が強い南部とに分裂してしまいます。津田沼派の筆頭は実籾村、千葉市派の旗頭は武石村でした。津田沼派が県庁前でハンガー・ストライキを行ったとか、夜の路上で“血を見る騒ぎ”があったなどといった話が今に伝わっています。

県庁前でのハンガーストライキ:市役所HPより

 幕張町内の対立は激化し、県や地元選出県議会議員、さらに国会議員まで斡旋に乗り出し、最終的に幕張町を2つに分けることとなります。旧実籾村は全域、旧馬加村は屋敷台とその周辺を津田沼町に合併させ、武石・長作・天戸と旧馬加村の残りの地域は千葉市に合併させるというのです。そして、それだけでは合併後の津田沼町が市に昇格できないため、一時的に長作と天戸を貸してやる。市に昇格する要件を充たしたら、長作と天戸は千葉市に返せ、という「ウルトラC」が発案されたのでした。
(「ウルトラC」とは、「離れ技」のこと。1964年東京オリンピック体操で、難度Cよりもっとすごい技、「ウルトラC」という新語が生まれました。ウルトラマンとは関係ありません(笑))

 

時系列で説明すると、こうなります。

 

1954. 7. 6:千葉郡幕張町全域が千葉市へ編入
1954. 8. 1:旧幕張町のうち実籾・長作・天戸および馬加(まくわり)の一部が千葉郡津田沼町と合体し,習志野市に
1954. 8.28:習志野市のうち長作・天戸が千葉市へ再編入

(3万人の人口がないと津田沼町が「市」に昇格できないため、「長作と天戸を千葉市から借りて」8月1日に「習志野市」を発足させ、その月の28日には、「長作と天戸を千葉市に返した」という訳ですね。昔の人はすごいことをやったものです。)

 

津田沼駅と幕張駅の間に習志野駅が建設されていたかもしれない

 

総じて、宮本市長は「習志野は俺だ、船橋側が習志野を名乗るとは不思議だ」という話なのでしょうが、夜郎自大というものでしょう。

 

 

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