(共同通信の記事より)

「血と骨」作家の梁石日さん死去 在日文学に新たな地平切り開く

 「血と骨」「夜を賭けて」などの小説で在日文学に新たな地平を切り開いた作家の梁石日(ヤン・ソギル、本名梁正雄=ヤン・ジョンウ)さんが29日午前、東京都の病院で死去した。87歳。大阪市出身。葬儀は親族で行う。

  経営する印刷会社が破産し、20代で多額の借金を背負った。30代前半から約10年間、タクシー運転手として働いた経験を基に書いた小説「タクシー狂躁曲」が、崔洋一監督によって映画「月はどっちに出ている」となりヒットした。

 

 

  韓国南部・済州島出身の父をモデルに、暴力と不信、孤独に支配され欲望のままに生きる主人公を描いた「血と骨」は、知性に反逆する圧倒的な身体性を見せつけてベストセラーとなり、山本周五郎賞も受賞。崔監督、ビートたけしさん主演で映画化された同作は、数々の映画賞を受けた。

 

 

鉄くず窃盗団アパッチ族を題材にした「夜を賭けて」も山本太郎さん主演で映画化された。

 

 

 在日朝鮮人2世として生まれ1990年代に韓国籍に。在日韓国・朝鮮人としてのアイデンティティーを問いながら、人間の業や社会の不条理を見つめた。

 

(おまけ情報)

梁石日さん、柳美里さん原作の映画「家族シネマ」では、何と!俳優デビューしています。

 

 

大阪市猪飼野で生まれる。両親は済州島から大阪市に移住してきた。戦後、一家は蒲鉾製造で成功したが、父はほどなく愛人を作り、妻子を棄てて家を出た。

 

大阪府立高津高等学校定時制在学中に、内灘闘争に参加。詩人の金時鐘から詩の手ほどきを受ける。朝鮮総連系の同人誌「ヂンダレ」に詩を投稿した。その後、靴屋や鉄屑屋、洋服店勤めなどの後、実父から300万円を借り印刷会社を経営するも事業に失敗し、仙台に逃げ、喫茶店の雇われマスターになったが更に借金は増え、やがて上京し新宿に寮のあるタクシー運転手の職に就いた。そんな中、病床にあった実父から家業を継ぐ事を求められたが断り、実父はほどなく全財産を寄付して北朝鮮に渡り現地で病死した。

 

新宿のスナックで酒を飲みながら、タクシー客とのやりとりを面白おかしく語っていたところ、たまたま聞いていた出版編集者に執筆を勧められて書いた『狂躁曲』(単行本出版時の題名は『タクシー狂躁曲』)でデビュー。同作は1993年に崔洋一監督により『月はどっちに出ている』として映画化され、大ヒットする。タクシードライバー時代に2度事故を起こし大怪我を負い退職。物品販売業をしながら執筆を行う。

 

梁石日さんに詩の手ほどきをした金時鐘(キム・シジョン)さんの波乱の人生

 

金時鐘さんは、済州島四・三事件(済州島事件)の蜂起(1948)に参加。

 

李承晩(りしょうばん/イスンマン)政権によって島民の3分の1が虐殺されるなか49年(昭和24)、密航船に乗り込み神戸に上陸。その後、大阪・猪飼野(いがいの)(現中川)のろうそく工場で働く。50年4月日本共産党に入党。関西大学で朝鮮文化研究会を組織し、この頃から詩作を始める。

 

 53年2月大阪の朝鮮詩人集団「ヂンダレ」(「朝鮮ツツジ」の意)を発足させる。同人誌『ヂンダレ』には梁石日(ヤンソギル)らも加わるが、56年頃から金時鐘は自分が関西地区青年文化書記長も務めていた朝鮮総連(在日本朝鮮人総連合会)に対し公然と批判を始めたため、同人が40~50人いた『ヂンダレ』が解散した後発足させた同人誌『カリオン』の同人は3人だった。

金達寿(キムタルス)の薦めで、連作詩「猪飼野詩集」を季刊『三千里』に書き下ろすが、そのなかで金日成(きんにっせい/キムイルソン)から金正日(きんしょうにち/キムジョンイル)への政権世襲を慨嘆する風刺詩「十三月がやってくる」が、朝鮮総連との関係が悪くなれば続刊が難しくなるとの編集部の危惧より掲載拒否となり、『三千里』との関係は途絶。長篇詩集『新潟』(1970)、東京新聞出版局より出た『猪飼野詩集』(1978)、詩集『光州詩片』(1983)の三つをまとめた詩集『原野の詩』(1991)で小熊秀雄賞を受賞する。73年、兵庫県立湊川高校教員となる。金時鐘の着任により日本の教育史上初めて朝鮮語が公立高校で正課にとりあげられ、初めての日本の公立高校の朝鮮人教師になる。その経緯については『「在日」のはざまで』(1986)に詳しい。本書で毎日出版文化賞受賞。88年湊川高校を退職。89年(平成1)、11年間出講の神戸大学を辞任。大阪文学学校で創作の講師を務める。

 

 四・三事件に直接関わりながら50年以上も沈黙をまもってきた金時鐘が初めて公の場で事件について語ったのは2000年の「済州島四・三事件52周年記念講演会」における講演である。

 

(朝日新聞デジタルの記事より)

ぼくの文学的青春は君とともに 急逝した梁石日さん、名付け親の思い

 2人の出会いは1954年の春先のこと。高校生だった梁さんが猪飼野の診療所に入院していた同級生を見舞いに訪れると、相部屋にいたのが金さんだった。同級生が「この方は在日の詩人やぞ」と紹介。梁さんの願いに応じ、金さんは主宰する「大阪朝鮮詩人集団」の詩誌「ヂンダレ」への参加を歓迎した。文学青年で「べらぼうな読書家」(金さん)だった梁さんとの長いつきあいの始まりだった。

 故郷・済州島(チェジュド)での民衆蜂起「済州4・3事件」(48年)に加わって軍警に追われ、生き延びるため49年に猪飼野へと逃れた金さんは、同胞のための組織活動に身を投じ、民族学校の再建や同胞青年が寄り合える文化サークルづくりに奔走していた。

 しかし、ヂンダレは在日本朝鮮人総連合会(朝鮮総連)から日本語での詩作活動を批判され、金さんは激しく攻撃された。気力が落ち込んでいた頃、梁さんは毎日のように焼酎を手に金さんのもとを訪ねて来たという。後に「おっさん、自殺するんちゃうかって心配やったんや」と明かした。「彼のおかげで、ほんまに助かった」と金さんは振り返る。

 

 

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