幕末の世直しエネルギー

河鍋暁斎「ええじゃないかの図」

現在、憲法改定に向かう日本で、改憲保守派が目標とするのは、日本の伝統回帰と称する明治時代への復帰である。

これまで、新石器時代から古代、中世、近世と、それぞれの時代に生きた女性や見えなくされてきた人々について非力ながら50回近く書いてきて、いよいよ御一新の明治時代! 

「暗い封建時代から、進歩した近代への明治へ」と教科書で教えられ、無条件に信じて半世紀のkokiでしたが、今では、べらんめえ! アホぬかせ(バカ言うな)!という気分。

こんなに女性にとって生きづらい時代をつくったのは、明治維新がはじまり。

世界史的な視点では人類にとってたぐいまれな特性をもつ「江戸システム」は、現在評価されつつある。江戸時代はダメというのは、天皇を担ぎ出し、明治維新をやった一部のテロリスト(尊王志士)のプロパガンダ。

時代というのは、必ずしも時の経過で発展進歩するものではない。冷戦時代が終わり、新しい時代が来るかと思ったが、人類は滅亡に向かって進行中。

気候変動による飢餓、移民(棄民)の増加。核戦争リスクにパンデミック、環境汚染による生態系崩壊。人間はそれらに向き合わず、目に見えない合成生物学、人工知能、ナノテクノロジー…の方向に突き進んでいるとしか思えない。

政治もうまくいっている例はほとんどなく、世界中、失敗だらけ。今はとりあえず時流に乗ってるのを立ち止まって、検証、方向転換すべき時代だと思う。

 

近代と現代

明治維新から現代まで。時代区分としては、明治、大正、昭和、平成、令和。これは天皇の在位区分によるもので、天皇が代わっても、政治体制は変わらないから区分する意味はないので、このkoki版での区分は、太平洋戦争を区切りとして、明治から戦前までを「近代」とし、戦後からは令和までを「現代」ということにしました。

「近代」は「国民国家」の時代。女性も都合のいい時だけ「国民(臣民)」と認められて、支配された。戦後は、天皇はそのまま存続したけど、憲法は新しくなり、私たちは、「国民」ではなく「個人」となったのにね。さあ、近代。ふりかえって幕末から。kokiのアイロニー・ワールド全開、ぶっ飛ばすよ。

 

農民一揆、打ちこわし

江戸時代 百姓一揆と打ちこわし

江戸時代、武士が支配し、新しい発展や改革を許さなかった時代だったけど、農民、町人は武士のいいなりではなく、そのおかげで経済や産業は飛躍的に発達した。

貨幣経済になり、陸上交通や海上交通、飛脚などの通信手段。問屋制家内工業の発達。農業も、農具の発明、水利(灌漑)の整備、肥料の改良などにより、米の収穫量が爆発的に増え、麦と米の二毛作。

農民は藍,桑、茶、麻、漆などの手工業製品の原材料を生産、加工し、市場に売るようにもなった。

人口が増加し、一人当たりの生産力(GDP)は鎖国していてもなんと世界一。

18世紀で、日本154億ドル、英国107億ドル、オランダ40億ドル、アメリカ5億ドル(OECD The World Economy Historical Statistics)。

経済成長にも関わらず、幕府の財政は幕末には行き詰まり、大奥の経費が国家予算の三分の一。

米本位経済から抜け出せず、商人から税金を取る事も思いつかず、農民を領地にしばりつけ、年貢や税金などの過大な搾取が行われていた。

日本国中、農民の不満や反抗はふくれあがっていた。

大原幽学や二宮尊徳などの農家の指導者は、社会体制の非合理なカラクリにまでアタマが回らぬ「思想家」で、江戸城や日光の華麗な美景は、搾取の結果で農民の貧困の原因なのに、「天下泰平」はありがたいと説く。

また自然は限りなく恵み深く豊かだから、努力すれば五穀豊穣というが、勤勉、倹約、孝行などの道徳を説けば説くほど、農民はその受容し実践している道徳律をタテに支配階級に対してきびしい批判を向ける。

米以外に税をかけようとすると必ず反発した。

江戸時代後期の百姓一揆や都市での打ちこわしで、藩や商業資本に対して、その「私欲」を攻撃するようになるのは必然だ。江戸時代の農民一揆の指導者たちは、道徳の自己規律を鍛え、計画性、組織力、説得力をもって、根気よく日常的なオルグ活動をおこなった。

一揆は武力ではなく、仁政を求めての大人数での団体交渉のようなものであった。反乱する民衆は「飢え死にするくらいなら…」という絶望からではなく、「仁政は武家のつとめ、年貢は百姓のつとめ」という権利意識をもっていた。

さらに幕末近くになると憤懣を内部にため込んだ大衆が突発的に結集し、もはや幕藩体制を自明の理とせず、「国中に大名も国王もなし、一国は皆一ヶ国の総人数の物」というような、階級対立からもつきぬけた、ユートピアが描かれることが、各地の農民一揆の記録にはある。

ペリー来航がなければ、このような近代市民社会的な意識をもった民衆がやがて幕府を倒したかもしれない。

一揆という直接行動によって、代官や藩主などは、ただちに年貢や税の減免、中間搾取を取りやめた。一揆が収まると、田地に縛られることを放棄する農民が相次いだ。身に付いた技術さえあれば稼ぐこともできる時代になっていた。今でいえば耕作放棄地だらけの荒れ果てた村が拡大していく。

 

東京国立博物館 「幕末江戸市中騒動記・打ちこわしの図」

豪農商に対する打ちこわしも西欧の食糧暴動と同じ、近代市民的な経済活動に対するモラル・エコノミーの意識がみられる。

米屋の打ちこわしの前に値上げ前の価格への安売りを要求したのは、打ちこわしが単なる暴動ではなく、食料で不当な利益を得ることは、モラル上あってはならぬこと、人間世界から、疑問の余地なく除去されなければならない絶対悪であるということから、打ちこわしは「鬼打ち」ともよばれた。

豪農商は、打ちこわし勢に対し、武力抗戦せず、裃(かみしも)・羽織袴姿で迎え、「一揆様」、「お百姓様」、「非人様」と呼び、饗応し、米蔵を開放したことも多くの史料に書かれている。

 

幕府は、米価を統制できなくなっており、民衆から見放されていた。明治新政府が軍事化するのは、西欧列強対策だけではなく、日本国内の民衆鎮圧の視座も当然あっただろう。

 

国立公文書図書館 地租改正農民一揆

明治以降の新政に対しても農民一揆は続く。明治元年~2年の地租改正反対の一揆では国家権力そのものを問う農民闘争となり、菊の御紋の御旗を焼いたりした。

「封建復古」「徳川家恢復」というスローガンに、明治の帝国主義化に対する江戸時代の農民が夢見たユートピアを感じることができる。国家と資本主義によって隷属され搾取されることからの解放願望は、現在の農業従事者にも脈々とある。農業を応援したい。

 

農民、町民による復興

幕末の民衆の生活を脅かしたのは、米の値上げだけでなかった。ペリー来航の年には小田原地震。米英露と和親条約を結んだ翌1854年には、伊賀上野、東海地震、南海大地震。津波被害は房総から土佐まで。その次の年は江戸が安政大地震。安政の大獄が行われたときには、コレラが江戸を襲った。3万人の死者をだし、小塚原の火葬場は順番待ちの棺桶が10日以上も山積みになった。

国立公文書館「項痢(コロリ)流行記」荼毘室(やきば)混雑の図

ペリー来航以来の天変地異と流行病は、開国・開港による「天罰」だと流布されたが、幕府は災害被害に対してはほとんど無力。

地震のあとは、大店が備蓄していた木場の材木を使い、大工、鳶、左官などの手間賃を増やして人員確保し、家や商店の普請に着手、長屋や仕事を失った貧窮民には町会所や富裕商人が出費して炊き出しを行った。

今日、今年の元日におきた能登地震は半年たっても倒壊家屋は手つかず、水道も止まったままで、人々は避難所の段ボールの囲いのなかに見捨てられている。ボランティアセンターも閉鎖してしまった。江戸時代ではありえない。

 

ナマズ退治の図 家に貼っておいた。

地震はナマズの仕業と考えられて、恐怖や悲しみを「鯰絵」で洒落のめすことで、みんなで励ましあった。人々は世直しの強い願望から支配者を滑稽化し、天変地異も疫病も庶民の心意気とエネルギーで乗り越えていった。

 

●「持丸たからの出船」 ナマズが「貧乏人をいじめるから苦しい目にあうのだ」と言いながら、持丸(金持ち)から小判を吐き出させている。

当時は、重い病は疫病神のしわざと信じられていた。幕末にはコレラは異国の狐わざと考えて、「アメリカ狐」とも呼ばれた。

 

東京都公文書館「虎列刺(コレラ)退治」 虎の頭部、オオカミの胴体、狸の巨大な睾丸を持つ。梅酢が特効薬。

 

「お蔭まいり」が「ええじゃないか」に様変わり

江戸時代、農閑期に「お蔭まいり」という伊勢神宮に参拝する風習があった。これは庶民の素朴な信仰を利用し、神宮側が全国を行脚して地域単位の伊勢講に組織し、合法的な旅手形を発行した団体旅行。

旅行費用が高額なことから村役人、豪農、商家の旦那衆がほとんどで、一般庶民は積立金で生涯一度でも参拝できればいいほう。みんなで積み立ててくじ引きし代表が参拝する村もあった。1850年一年間の伊勢参詣者は428万人(総人口3228万人の13%)。女性にとっては夢のまた夢。

商家では伊勢神宮に守られている天照大神は商売繁盛の守り神でもあったから、奉公人が伊勢参りをしたいといえば、止められなかったし、許可なしで参拝しても証拠のお札やお守りを持ちかえれば、おとがめなし。

 

豊饒御蔭参之図(ほうねんおかげまいりのず)

江戸最後期、人々を悩ませた物価高や日照り、流行病もひとまず収まり、安寧で豊かな生活が戻ってきた頃、「お蔭まいり」は様変わりする。

伊勢神宮のお札が突然空から降ってきた。近年の研究では、東は上野国、越前、西は博多まで波及した。神様は望むところに宮居を定めるから、わが村にお札が降って神が鎮座したら、さあ大変だ。お祭りだ。高揚した人々は無礼講で「ええじゃないか」の音頭で踊り始めた。やがて農民は耕作を放り出して名主の許可なく村を飛び出し、奉公人は主人に断りなく「ええじゃないか」の伊勢参りの列に加わった。

 

「ええじゃないか」をどうとらえるか? 

200年も現実のしくみを変えることができない閉塞状況で噴き出した一時的な解放感による集団発狂? 

時空を超えた幻想的な「世直し願望」? 

「長州さんの御登り、ええじゃないか。長と薩とええじゃないか」というのは、討幕派が国内を混乱させるための陽動作戦というのもある。

 

女性のええじゃないか

女性はどのように「ええじゃないか」に加わったのか? 

ええじゃないかは、宿帳の記録などから、男性より女性の数のほうが断然多く、子ども連れもかなりいた。

かつては女性が家を離れて伊勢に参拝するのは稀で、供をつれた豪農商の隠居した奥方くらいしかいなかったが、「お蔭まいり」では、女性たちは家の縛りを振りほどいて、自ら伊勢を目指した。大坂の医師が「御蔭耳目」というレポートを書いているなかから、参加した女性の事情を紹介しよう。

「近所の心易き女同士で内(家)を抜け出し…」、「服喪中だからという夫を押し切って飛び出す…」、「26歳より40歳くらいの女はほとんど子連れ。幼き子を懐にし、三歳くらいは背に、7歳は帯に紐づけている」。女に与えられた家庭内の役割を放棄した女たちは「オヤジ(夫)の面をみるもうるさく、小倅(こせがれ)も捨てたくなる」と公言し、日常から解放され、お蔭まいりで他国の異性と知り合った娘は、「男女邪淫の行い限りなし」でフリーセックス状態。

親を捨て、相手の国で所帯をもつケースも多かった。途中で子どもが病気になり死ぬケースも。妊婦が流産したり、自分の生命を賭しても伊勢をめざす女性たち。

今のハロウィンみたいに、男女の区別なく異装をして、老若男女の区別なく踊り狂う。興奮して越境する男と女の差なんていうのは、もともと根拠のあるものではない。男は陽で女は陰、女性は男性に劣るが、信心によって成仏できる(変成男子)という仏教の教えは、コスプレで男女を入れ替えて「ええじゃないか」と踊り狂えば、吹き飛ぶようなものなのだ。

江戸時代には、女性の男装は「人倫を乱す」と「重叩き」や島流しの処罰を受けた。ところが、男女の衣装の振り替わりは、ええじゃないかで広汎に行われた。

 

カワサキハロウィーンパレード 24年続けられ2020年に打ち切り

沼津宿の70~80人もの食売女(めしうりおんな:「飯盛女(もしもりおんな)」とも呼ばれた下級の売春婦)たちは髪を断髪にし、裸にビロードの腹掛け一枚で浴衣をはおり、街道を「ええじゃないか」と練り歩き、三嶋神社に参拝したという。

これは、女性のジェンダーに対する「世直し」。性差の根拠がないことを、性搾取を受けている女たちが、性の越境を試る。この世直しエネルギー、ほんとにすごいなぁ。風俗を乱すと処罰を受けたらしい(詳細不明)が、幕府や藩は「ええじゃないか」のエネルギーを鎮圧できる力はなく、西からは、薩長が外国の力を借りて、武力で政権奪取しようとしていた時代。

 

朝井まかて「ぬけまいる」講談社文庫 お蔭まいりは「抜けまいり」とも呼ばれた。家族に黙って伊勢参りをする三十路前の女子三人組の珍道中。

次回は、いよいよ開国。日本は「近代国家」となるのですが、日本が手本とした西欧の各国はどんな時代だったのかというところから始めたいと思います。

 

近代化で、女性は、あらたなジェンダー秩序が「文明」の名で再編される。女性にとって維新と呼べるものではないことを丁寧に書いていきたいと思っています。(koki)

 

これまでの投稿は、以下でご覧になれます。

(Narashino gender1~41)

(Narashino gender42~)

 

 

 

コメントをお寄せください。(記事の下の中央「コメント」ボタンを押してください)