明治時代からのアイヌ
●旧土人法を廃して、新しいアイヌ新法を求めるデモ(1997)
このアイヌのシリーズは、いわば日本女性史の明治時代の前のプロローグ。岸田政権が改憲で戻そうとしている明治時代とはどんな時代だったのか? アイヌというマイノリティの歴史通史からの視点から書いてみようという試みです。文明開化、富国強兵、王政復古、祭政一致、男尊女卑…、明治って四字熟語ばっかり。こんなスローガンが岸田の令和憲法改正で復活するのかな?
女性もアイヌと同じ、ジェンダーのマイノリティ。日本は国連の女子差別撤廃条約、先住民族権利宣言を採択しながらも、国連の勧告に応じない国。
アイヌの権利について歴史を通して考えることは、これからの四字熟語の世界を読み解く予行演習になるのではないか? kokiはなにがなんでも「明治化」を食い止めたいのです。
アイヌも3回目なので、ちょっとおさらい。アイヌは国家をもたない狩猟採集民で、本州のことを「サモロモシリ(そばにある国)」といい、日本人のことを「シサム(良きお隣の人)」と呼んで交易をし、和人の文化を取り入れつつアイヌ文化をみがいていた。一方、日本は身分社会で、天皇や武家が日本民族の代表で、北はエミシ(夷)が住む野蛮な世界として、北海道は「蝦夷島」として犯罪人を流刑する島、軍事的支配の対象で、交易のために北海道に和人地を形成していった。追いつめられたアイヌの決起は失敗に終わった(前回参照)。アイヌの大闘争時代は、1789年のクナシリ・メナシの戦いで終わった。これが前回まで。
幕府が衝撃を受けたのは、アイヌの蜂起ではなく、アイヌがロシアとつながりをもち、ロシアがヤウンモシリ(アイヌ語で陸にある国=北海道)への進出を狙っているということだった。1799年から松前藩を段階的に直轄領とし、アイヌも和人と同じ民族であることを示すための同化政策を図ったが、ロシアの南下の勢いが衰えてくると、1821年、直轄をやめて、松前藩の管轄に戻した。江戸幕府はもはや数十年の寿命だった。
明治時代のアイヌ
●開拓使(1863~83札幌)の建物と初代長官黒田清隆(1840~1900)
1869年、明治維新にともない、アイヌの土地を天皇を戴く日本の領土に組み入れ「北海道」と改称し、植民地として、アイヌの戸籍をつくり、和人化を図る。アイヌの生活形態や文化は否定され、アイヌが使用してきた土地は居住地であっても、無主の地として取り上げた。
アイヌに土地の私有を認めないのは、「アイヌは土地財産の管理能力がない」という蔑視感。
狩猟権も漁業権も一方的に奪ったので、アイヌの生活は根こそぎ奪われた。
「開拓使」という役所をおき、土地は和人の資本家や商人に払い下げた。明治政府は琉球や台湾、朝鮮などの民族も日本の国民に組み込んだ。
日本は「他民族国家」となったが、明治の帝国主義国家は、人種主義のドグマ。人々は、天皇が神を祖先とする万世一系の最高血筋であるというドグマに染まっていき、アイヌへの蛮行に手を染める。アイヌは「滅びゆく民族」とみなされるようになり、自らに誇りをもつことができなくなっていった。
1880年代は北海道の広い地域で食料不足から餓死者や栄養失調による病死が続出した。開拓使はアイヌに農業指導をし、そのなかには樺太・千島交換条約で半ば強制的に移住させた樺太アイヌの人々がいた
●江別に移住した樺太アイヌ
江別では漁業に従事したが、不漁で赤字が続き、奨励された農業も石狩川の氾濫で投資額の半分の収入しかなかった。移住事業は破綻し、そんななか、コレラと天然痘で358人が死亡。樺太アイヌ移民のなかには樺太に帰る者もいた。
開拓使が帰郷を許したのは、日露戦争で樺太アイヌを利用することが有利との判断があったとも言われている。樺太に残ったアイヌはロシアによる迫害を受けていたから、日本の味方をした。
近代ニッポンの世界戦略
アイヌの犠牲を顧みなかった近代日本はどのような方向を目指していたのだろう。
●日露戦争の流れと結果
日露戦争に勝利し、黄色人種が白色人種に勝つのに気をよくした日本は、1919年のパリ会議で人種差別撤廃事項を提案するが、米英の反対で人種の平等は実現しなかった。
●第一次大戦のヨーロッパ
日本はイギリスと日英同盟、ロシアとは日露協約の関係で、連合国側。ドイツのアジア拠点である中国山東省を占領。
第一次世界大戦後にヨーロッパは帝国主義は崩壊し、民族自決、国民国家のナショナリズムが台頭してくるが、民族自決が適用されるのはヨーロッパだけ。
アジアは、国際連盟のもと、旧植民地の統治権をイギリス、フランスなどの戦勝国に委任する(委任統治)というシステムが温存される。日本はドイツ権益を継承し、赤道以北の旧ドイツ領南洋諸島の委任統治権をえた。日本の支配下になった中国は「五・四運動」、朝鮮では「三・一独立運動」が起きる。インドではガンジーによる抵抗。アジアでは民族運動が高まる。
世界平和への模索をぶっ壊したのは帝国主義日本
●満州開拓団募集
日本が中国を侵略する前に中国人(漢人、満州人、モンゴル人、チベット人、ウイグル人など)が暮らしていたのは、北海道にアイヌが暮らしていたのと同じ構図。
第一次世界大戦で、ヨーロッパは壊滅状態。1928年には、国際紛争の解決として戦争の手段をとらないというパリ不戦条約で、日本を含む15カ国が調印して世界平和がスタートした矢先、日本は自衛と称し中国に戦争をしかける(満州事変)。第二次世界大戦の引き金となったのは日本だった。
遅れた帝国主義の日本は、さらに「アジア解放のための」戦争を始めるが、それならば、自ら率先して満州、台湾、朝鮮半島を本来の持ち主に返すべきであるが、列強と領土拡大を張り合っただけ。すさまじい数のアジアの一般市民を殺し、日本国内では非戦闘員を巻き込んだ総力戦になり、ついにアメリカ軍の空襲や空爆などで自国の一般市民が犠牲になった。(第二次世界大戦)
日本の近代化?また横道にそれている?と思っている?
近代化を日本人は歓迎し、軍事政権の四字熟語の世界を信じて、命まで捧げてきた。そういう日本人からアイヌの存在を考えてみたい。
アイヌの「日本国民と対等にしてくれ」という要求は、和人との混合教育もあり、こんな世界相手の総力戦で、アイヌ民族も侵略戦争に加担していく。アイヌは戸籍から徴集令状が届いて出征し、女性たちは銃後の守り。殺されれば靖国神社に祀られた。アイヌの「和人と対等に生きたい」という願いが戦争により他民族の侵略につながるという悲劇。
戦後、GHQの北海道を統括する少将が、アイヌに「日本から独立する意思があるか?」を何度も聞きとりをしているが、和人とアイヌの間に混乱がおきないように「独立しないんだろうな?」程度の念押しだったらしい。戦後もアイヌに対する支配と差別は温存された。
アイヌへの同化政策
アイヌがすごいのは、権力や日本人の差別と抑圧に抗してたたかい、アイヌ文化を継承しながら、自治権は破壊されても、アイヌの集団は維持してきたこと。
どれだけ踏みにじられようと、アイヌは滅びなかった。
●萱野茂:かやのしげる(1926~2006)アイヌ文化研究家。
参院議員。アイヌ語しか話せない祖母のもと、アイヌ語を母語として育つ。北海道二風谷(にぶだに)に収集した民具や資料などによる「萱野茂二風谷アイヌ資料館」がある。冬場は休館。
「アイヌは、日本に北海道を売った覚えも貸した覚えもない」(萱野茂)。
もともと北海道はアイヌのもの。当たり前の先住権の考え方だ。
アラスカは1867年、ロシアからアメリカが720万ドルで買ったが、その土地はアレウト、イヌイット、イヤック、トリンギットなどが先住民で、アラスカの先住民たちがその売買に抗議(土地返せ運動)を続けたため、100年もたってから、アラスカ先住民権益措置法ができ(1971年)、先住民は侵略の賠償を得て広い地域への立ち入りが認められ、石油で生計をたてられるようになった。それと見返りに先住民たちは祖先の土地について権利を主張するのを止めた。
●アイヌの時代区分、日本の江戸時代までは「アイヌ文化の時代」、明治時代になれば「明治時代」と日本の時代区分と同じになる。
明治政府は北海道に着目した
植民地体制を内地で創出する試金石が北海道だった。明治政府はアイヌ文化はすべて否定、日本への同化政策は徹底していた。アイヌ民族にやったことは、後に朝鮮、台湾、沖縄など異なる文化、宗教、思想をもつ地域にも行われた。
民族差別だけでなく、同じ日本人なのに被差別部落に対する差別。江戸時代に身分制度より下の身分に置かれ、人の嫌がる仕事をやったというだけで、いまだに差別がある。日本人の染みついてしまった、自分より身分の低い、あるいは不幸な人間との比較。上を見て比較するのではなく、下を見て、苦しくとももっとつらくて不幸な人がいると我慢し、同情や施し、あるいは差別で自己保全するのだ。天皇制を維持しているのはそのような考え方。
2016年の内閣府の「国民のアイヌに対する理解度の世論調査」では、アイヌへの差別や偏見が「あると思う」は18%、「ないと思う」は51%。学びもしないで「ないと思う」と答える人が多い。
明治以降、アイヌだけでなく、琉球(沖縄)や、在日朝鮮人、在日中国人、そのほか在日外国人に行われてきた同化政策は、今も、同調圧力やヘイトによって肯定され、沖縄のように植民地化に等しい扱いを受けていても、人々は関心をもとうとしない。それが「差別はないと思う」。差別はないと思いたいだけだ。自分勝手な差別の放置は加担と同じであることをアイヌの同化政策の歴史から学んでほしい。
アイヌ語禁止、日本語の使用強制
明治政府は、1871年、アイヌに風俗禁止令を出して同化政策をとった。同化政策はまず、文化の否定から始まった。江戸時代は、アイヌの労働力は搾取したけれど、生活そのものにはくちばしを入れなかった。明治時代は、そもそも日本人の生活、風俗習慣を西欧化することから始めた。日本の「開化」ぶりを外国に示そうとやっきで、庶民層にも風俗「改良」運動、国字改良運動(国語のローマ字化)、さらには外国人との結婚による「人種改良論」まであった。日本はこんな極端な西欧人への同化政策で、日本の伝統文化を否定し、当時では国宝級の絵画、書、陶器、工芸品などは二束三文で売られ、その多くが海外に流れた。
直前の江戸文化すら全否定の輩が、他民族の文化の素晴らしさなんてとうてい理解不能。アイヌの文化を「アイヌの後進性」と決めつけ、おごり高ぶる多数者が少数者に自分たちの真似をさせた。
アイヌはアイヌ語を使うことができなくなり、日本語を学ぶことを強制される。アイヌ語は、日本語の方言ではない、言語系統不明。日本語と隣り合って話されてきた言葉だが、全く別の言葉。書き言葉(文字)はない。アイヌには統一国家の歴史もなく、書く必要がなかったからで、記憶して口伝えでコミュニケーションや記録をした。そして、すぐれた口承文学が存在する。日本人が、文字がないから知的水準が低いと蔑視するのは間違いだ。すべて頭の中に記憶されて、それに頼るしかないというのは、物覚えがいいし、物事を記憶にしようと真剣に取り組む。現代人はメモとって、その文字をどこに書いたか忘れてしまうという人も多いが、アイヌの長老は「書くと忘れる」という。
それに文字は、その民族が発明したものではない。
日本語は中国の漢字から、カタカナやひらかなはその漢字を借りてアレンジしたものだし、いわば借り物。文字をもっていない民族をバカにする根拠はない。
狩猟採集社会は無国家社会、文字がないことが多い。次の王朝社会になると支配層だけが文字を使用。文字が存在していても支配されてたら意味がないよ。
現在、アイヌ語の表記はカタカナかローマ字。日本人に馴染みのある言葉もいっぱいあるよ。トナカイ、ラッコ、シシャモ…。
北海道の地名は、アイヌ語に由来するのが数多くある。別・内・幌・尻がつくのはアイヌ語がもとになっている
●アイヌ語がもとになった地名
禁じられたアイヌの風習、儀式
●女性の入れ墨(シヌイェ)
入れ墨(刺青)は肌が柔らかい少女時代から入れ始め、嫁入りのころに完成。成人の証。前腕から手の甲にも入れた。江戸時代には入れ墨はブームで、来日したジョージ5世(英国)やニコライ2世(ロシア)は、入れ墨を入れて土産とした。
●男性のピアス(ニンカリ)
男性のピアスは現在は違和感を覚える人はあまりない。
●イオマンテ(飼熊の霊送り儀礼)
●蝦夷生計図説 チセのつくり方
森でチセ(家)づくりに必要な木を伐採することを禁じたので、家をたてることもできなくなった
衣類の材料である樹皮をとることも禁止。
●樹皮を剥ぐ 完成品のアットゥシ(樹皮衣)
生業を奪う
●エゾシカ狩り
●サケ漁
1875年シカ猟の禁止
シカ猟は年に600名の免許鑑札制とし、毒矢を禁止。鉄砲を認めたため、和人が殺到した。シカはアイヌには貴重な食料。
1879年サケ漁の禁止 これによりアイヌは餓死者がでるようになり、小樽、釧路、旭川などにつくった和人の町にアイヌを強制移住させた。
1876年には、アイヌの風習を行った場合は、厳重に処分すると通達した。
現在、「それは法律による禁止ではない。先住権の侵害には及ばない」という詭弁をする学者がいるが、当時は憲法(法律)がない。
綱吉の「生類憐みの令」みたいな単なる行政命令だけど、逮捕されて叩かれたり、どれくらい守っているか調査されたり…。それは法律並みの強要だ。
生活基盤である土地を奪い取り、ことばを奪い、生活習慣、文化、信仰…アイヌがアイヌであることの全てを収奪し、日本の言葉、生活様式を全部覚えろという民族抹殺。それを「和人と同じにするように教化しているが、絶滅させようと思っていない」(グソーの函館記)。
日本の政治のこんなところが絶対嫌だ。裁判所も政治や行政に甘く、被害者に瑕疵を求める単細胞のバカっぷりがいやだ。今まで続く自民党政治、安倍以降はこんな詭弁ばっかり。ジェンダー問題はほとんど「女性は差別されていない」という詭弁で終わらせる。
●スーパー「ベルク」の多様化
日本の異質を許さない文化は、こんな多様化から変えられる?
公務員にもやってほしいな。ここの従業員はなんか接客がやわらかいので買い物が楽しくなる。
北海道旧土人法
明治政府は「北海道旧土人法」を制定して、アイヌで農業に従事する者に土地をあたえることにした。
●入植当時の開拓民
成功した開拓民は「アイヌの人たちは、手取り足取り、生きる術をおしえてくださった」と語っている。
本州から北海道に開拓民として入った和人には、北海道の平らで広い土地をもらえて開墾すれば無償で自分のものとなった。開拓民は、道路や住宅もなく、厳しい寒さの北海道にいわば着の身着のままで本州から移住してきた。その開拓民を最初に親切に迎え、北海道で生きていくための知恵の全てを惜しみなく教えてくれたのがアイヌだった。アイヌにとっては「シサム」の隣人だからね。
その時の開拓民は、アイヌが毛深いとか人相が違う、生活習慣がちがうなんてことで差別しなかった。開拓民にとってアイヌはいわば「地獄に仏」みたいなもので、いい関係だったのだと思う。
しかし、20年、30年たって開拓民がだんだん成功してくると、開拓民は貧しいままのアイヌに対し、アイヌをバカにし、差別するようになる。アイヌが薪のために木を切ると「盗伐」、魚を捕ると「密漁」で、儀式は野蛮な行為と理解されず、アイヌはもはや、開拓民をシサム(良き隣人という尊称)とは呼ばなくなり、シャモ(和人)と言い表すようになる。
明治政府の「北海道旧土人保護法」の「土人」は劣位の未開民族を侮辱する日本のレイシズム感が良く表れている。
明治からの戸籍には身分(皇族、華族、士族、平民)が登録されたが、アイヌは和風に改名させられ、身分は平民ではなく、「旧土人」と表記された。「無知蒙昧な人種アイヌはこのまま放置すれば全滅し、国際的に批判を受けることになる。この民族を天皇の皇民として保護していかなければならない」と国会で土人法立法の主旨が述べられている。「劣っているから保護し日本人にする」は民族差別。国際的には植民地法で違反になる。
●北海道旧土人保護法が制定された頃のアイヌ(正装)
「旧土人法」でやったことは、アイヌには荒地を供与し(無主の土地だとアイヌからタダで取り上げた土地のうち、和人の開拓民には平地を一戸当たり10万坪を認め、アイヌは畑も起こせない山林地を1戸当たり最大1.5万坪)、それをアイヌの保護のために給付したといい、開墾できないと「怠け者」という。アイヌの共有財産(土地、教育資金、漁場や海産物の保管、干し場などの施設、入会権など)は北海道庁が管理の名目で没収し、アイヌに使わせないようにした。子ども向けの同化促進のために「特設アイヌ学校(のちに旧土人学校)」を設置した。
明治時代は今でも、政治に私欲がなく清廉な印象があり、また、明治維新は薩長志士英雄伝から、政党なんか「維新」とつけるほどの人気だが、アイヌにとっては刺客を差し向けられたようなとんでもない時代。
シャモが「賢い」、アイヌは「バカ」というのは、一種のポピュリズム。kokiは日本人を「賢い」とは、ほとんど思ったことがない。「賢い」ではなく、「ずる賢い」とは思うけど。
大正時代
時代区分、大正時代です。1910~1920年は、大正デモクラシー(民主主義)の風潮が高まり、労働者たちが団結して生活の改善を求めるようになった。これまで差別に苦しんでいた人たちは差別からの解放運動をおこす。
1922年、「水平社宣言」。被差別部落への差別撤廃を、人間を尊敬することと団結に求めた日本初の人権宣言。最後に「人の世に熱あれ、人間に光あれ」という熱い言葉で結ばれる。2022年で100年経った。
●水平社宣言と創立者たち
大正時代は、北海道各地でも、アイヌ民族の復権を求める動きが高まった。1930年に「北海道アイヌ協会」が設立し、旧土人法の改正と、生活改善を訴えた。1937年に旧土人法が改正され、「土人学校」と呼ばれる特設アイヌ学校が廃止されて、和人との共学が実現したが、かえって差別やいじめにさらされるようになった。アイヌの人々も日本国民として兵にとられ、戦死した。軍隊でも露骨な民族差別があった。
昭和時代
戦後、1955年、「部落解放同盟」ができ、部落解放同盟は1988年に世界に呼びかけ「反差別国際運動(IMADR)」というNGOを創立、国連との協議で、差別撤廃への提言活動も行っている。
終戦後に現在の憲法が制定され、種族、及び民族の補償条項により、アイヌは初めて日本国から人権の保障をえた。戦後もアイヌの人々に対する差別や偏見は減らなかった。
1946年、戦前の北海道アイヌ協会とは別組織である「北海道アイヌ協会」が設立されたが、政府も道庁も戦後復興で精いっぱいで、アイヌには耳を貸す余裕がなかった。
1961年に「北海道ウタリ(仲間)協会」となったのは、「アイヌ」と言う言葉でさんざん差別や侮蔑を受けてきたからだと言う。陳情先の官僚には「もう、アイヌもシャモもないよ。戦後でみんな丸裸になったんだから、これから成功するかどうかはアイヌの方々の努力次第。特別なアイヌ対策をやることはありません」と言われたという。
1974年から北海道庁では、「北海道ウタリ福祉対策7か年計画」を実施。福祉対策や保護救済が目的。困っていると文句を言ってくるから、適当に「なんぼかやれ」で、言い訳に過ぎないから抜本的な対策はない。
教育格差、生活保護受給率は、いつまでたってもアイヌ以外の人と同じにならない。アイヌが「教育がない」、「貧乏だ」と差別を受けるのは、民族問題だという認識がない。
旧い「土人」だというバイアスで保護救済をやっても、なぜアイヌだけがという反発で、逆に差別が深まったリする。アイヌは同化しているにも関わらず、アイヌと名乗る人間は「利権」を得ているとの非難を受ける。
そもそも本来的な国民とは誰なのか? それは和人であるというのは明らかな誤り。明治国家の臣民の「平等」はアイヌを旧い「土人」としながらの平等。アイヌであるということは今までずっと、「近代的でない=土人」ということを意味し、大衆の常識となる。
現在の「多文化共生」は、多数派にとっての心地よい範囲に民族的差異が認められているにすぎない。アイヌを植民地化してきたという歴史ときちんと向き合うことが大事だ。その上で植民地化につらなる現状の対策はきちんとやるべきである。たとえば、kokiは北海道議会や国会に一定のアイヌ枠を設けるべきだと考える。先住民がいる外国では民族政党が定数枠である。
令和まで
1984年ウタリ協会は、「旧土人法」の廃止と新しい法律を制定することを要求し、自分たちで「アイヌ新法」案を提出した。
1994年、萱野茂さんが参議院議員になる。
1997年 「アイヌ文化振興法」が公布され、旧土人保護法が廃止。「アイヌの人々の民族としての誇りが尊重される社会を実現するために」、国と地方自治体はアイヌ文化の継承者の育成、調査・研究を行う」と定められたが、まだアイヌを先住民族と認めたわけではなかった。
●1997年アイヌ新法を求めるデモ
2007年 国連が「先住民族の権利に関する国際連合宣言」を採択。世界3億7千万の先住民の権利を守り、差別をなくし、暮らしを改善することを宣言したもので、日本も賛同した。
2008年 ついに国会で、アイヌが日本列島北部周辺、とくに北海道に先住していた人々であり、独自の言語や宗教、文化をもつ「先住民族」だと認められる
2009年「ウタリ協会」は「北海道アイヌ協会」と名前を変えた。
2020年 北海道白老町にアイヌ文化の復興等を目的とするナショナルセンター、「ウポポイ 民族共生象徴空間」開設。旅行会社の北海道ツアーの定番になりつつある?
●国立博物館ウポポイ (アイヌ語で歌うこと)
全景
イベント、展示品
次回はアイヌの最終章。アイヌのジェンダーと文化について。毎回、長文でごめんなさい。(koki)
これまでの投稿は、以下でご覧になれます。
(Narashino gender1~41)
(Narashino gender42~)
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