アイヌ2

 

アイヌとシサム(和人)の戦い

●真歌公園 アイヌの英雄シャクシャイン像(右が旧像1970建立、左が新像2018建立。同じ場所で差し替えられた)

真歌公園はシャクシャインが軍事拠点を構えた戦跡でアイヌが要求や抗議の集会を開く場所。旧像は、有志が寄付を集め建立し、民族結束の象徴となってきた。強化プラスチック製で町が所有。老朽化を理由に町役場が撤去し、新デザインになったのは「今はアイヌと和人が共存する時代」という理由だが、最後までアイヌ団体は旧像維持を訴えていた。国連の「先住民族の権利に関する国連宣言」(2007)を受けて政府に新たなアイヌ新法を要求していたアイヌ団体にとって、「共存する時代」というピカピカのブロンズの新像は首肯しがたい欺瞞である。

●新旧像のアップ

新像の視線を落とし、腕を胸の前に下げている表情は悲しげだ。旧像が掲げているのは木のクワ。新像はアイヌの祈りと平和がテーマだが、腰には刀。kokiはシャクシャインの戦いを知って、新像に「アイヌは同化したのだから」と国連の勧告を受け入れない政府の「だまし討ち」と同じものを感じる。

英雄や人気のある政治家の像は、世界中どこにでもある。日本では戦争中に金属供出で接収されたからあまりみないが、レーニン像やフセイン像は時代にそぐわなくなると、シンボリックに引き倒されてしまうこともたびたびある。

倒されたフセイン像とレーニン像

古代ローマに最後まで抵抗したガリア人(ケルト人)の英雄、ウェルキンゲトリクス(BC82~AD40)は、ナポレオン3世が建立した当時から政治体制の変化に関わらず、ずっと同じ場所で同じようにある。

●BC1世紀 カエサル遠征時のガリアとウエルキンゲトリクス像

先住民族、移民が歴史を重ねてきたフランスで、今では「フランス最初の英雄」と呼ばれる。アイヌの聖地でシャクシャイン像をいじることの印象操作の小汚さ。先住民族が大事にしているものに手を付ける権利が現代人にはない。差し替える必要はない。旧像をみて現代の私たちが人の足を踏んだままでいることに気づくべきである。老朽化というなら、ブロンズにすればいいだけのハナシ。歴史は老朽化しない。

 

アイヌのくらし・文化(aynu urespa, puri)

●オオウバユリ採取 鹿狩り 丸木舟「チプ」

13世紀、本州では鎌倉時代です。アイヌの擦文時代(王様がいないので、土器の種類で時代区分する)が終わり、北海道に新しい文化が形づくられた。土器を使わなくなり、漆器や鉄器になり、住居は竪穴式から平地住居(チセ)になる。

チセ、食糧庫(復元)と内部見取り図 敷地内には便所(男女別建物)、祭壇、クマを飼育する檻、物干しなどもあった

アイヌは四季を通じ、山野や海川での狩猟、漁労で生活し、労働は男女役割分担。狩猟や漁労などの重労働は男性、山菜採りや機織りなどの軽労働は女性が担っていた。家、舟、生活道具や衣類靴などは樹木、草、鳥や小動物で作られ、狩猟や加工のための用具も自分たちで作り、自然のサイクルに沿ったライフスタイル。和人から伝わった粟やヒエ、キビなども栽培していた。

 

交易民族としてのアイヌ

北のシルクロード

蝦夷錦を着た役者

 中国製の絹織物。中国東北部で作られて、アムール川河口の民族を経由して、沈黙交易でアイヌが毛皮と交換で手に入れた。

 

アイヌは自給自足の自然経済を基本としながら、幅広く交易を行っていた。手に入らないガラス玉、絹織物、金属製品などは、サハリン(樺太)からアムール川を遡り、中国とつながる北のシルクロードをいうべきネットワークを樺太アイヌはもっていた。

 

●千島列島~カムチャッカ半島~アリューシャン列島の地図(福島原発事故の放射能拡散図)

千島アイヌは千島列島からカムチャッカ半島、そしてアリューシャン列島の周辺民族居住地にも出かけて「沈黙交易(サイレント・トレード」(接触しないで、交換したいものを浜辺や小屋に並べておいて、欲しいものだけ手に入れて交換物を置いて遠ざかる。スカンジナビアからアフリカまで異人種間で存在した習俗)を行っていた。伝染病予防や不平等貿易への対策手段としても有効だ。

 

十三湊遺跡 岩木川河口の十三湖(しじみで有名)に形成された港。日本海に面する

津軽半島の十三湊;とさみなと(現在の五所川原市)はアイヌとの交易都市、支配していたのは津軽の豪族で鎌倉幕府の蝦夷管領の安東(安藤)氏で、渡島半島に小領主による12の館が築かれた。

 

道南十二館 和人領主の館

和人との交易は、アイヌはほとんど漁労や狩猟による収穫物で昆布、サケ、ニシン、熊、鹿、狐、ラッコなどの毛皮、鷹狩りの鷹(生体)など。それと交換するのは鉄製の道具を除いては、高級衣類や食器、酒などほとんど嗜好品で、それもアイヌ勘定による不等価交換であり、私は一方的な和人との交易はアイヌにとって必要ではなかったのではないかとも思う。サケが塩漬けで取引されるようになると、塩は北海道ではとれないので、和人から入手するようになったが、高く売りつけられていたのかもしれない。

源頼朝による奥羽征伐で、平泉の藤原氏残党が集団で北海道(蝦夷島)に逃げてきたとか、鎌倉幕府が蝦夷島に流刑の罪人を放逐した(「吾妻鏡」)ことにより、和人の北海道移住が始まる。

 

蒙古襲来の戦い方、アイヌと日本

北条時宗(鎌倉幕府8代執権・1251~84)と樺太アイヌ

そのころ、中国を征服したモンゴル帝国(元:げん)は日本も従えようとして、2度も九州に襲来した(蒙古襲来、元寇)が、同時期に北からも日本を狙い、サハリン(樺太)にも侵攻した。サハリン南部に住んでいたアイヌは、何度も元の軍隊と戦った。アイヌは大陸侵攻するほど強かったが、世界帝国には勝てず降伏する。それ以後中国に毎年毛皮を献上することで、アイヌの交易は世界デビュー。14世紀に元が滅ぼされ明になってからは、アイヌは明に貢物を送って交易を拡大した。

鎌倉幕府(北条時宗)は、クビライ・カン(フビライ・ハン)からの友好関係(不戦)を呼びかける国書を3度も無視し、使者にも会おうとせずに「文永の役」、5人の使者を斬首して「弘安の役」。やがて蒙古は撤退した。「時宗は野蛮人から国を救った」、日本は「神風が吹く国」というレッテルがこの国に貼られたが、この2つの戦いで鎌倉幕府は衰亡へと向かう。

武士の国はダメだね。使者を無視するのはありえない。商人の国モンゴル帝国とどういう関係にするかなんてちっとも考えない。交渉でたとえ蒙古襲来になろうともそれで鎌倉幕府は一皮むけ世界史デビューできたのに。アイヌは戦いに敗れたが、さすが交易民族。モンゴル帝国だって交易相手国にしてしまう。

 

和人との戦い

一般に、先住民族と侵略国家の歴史は、5つの段階を踏むことが多いといわれる。

①侵入者の入植 ②(多くは侵略者との戦闘過程を経てから)先住民族の独立圏形成 ③侵入勢力への同化 ④先住民族の自己決定 ⑤国が先住民族と認める。

アイヌの場合はどうか?王朝国家であるシャモ(和人:sisam-utar「和人の隣人」の略)がやってきて発見(領土として)したのではない。縄文時代からの交易相手。侵略を強めたのは7~8世紀の桓武天皇時代。入植にあたるのが秀吉の朱印状、家康の黒印状?それに対し、15世紀から18世紀まで、民族的抵抗からアイヌは和人(シサム)と戦った。そのなかの3大闘争を簡単に紹介する。

 

マオリの旗。初代マオリ王と現代7代マオリ王

ニュージーランドのマオリ族なら、イギリスの領有宣言(ワイタンギ条約)を拒否し、50もの部族が一丸となり8年にわたるマオリ戦争をやったのは、すでに不完全ながら独立圏を確立していた後。マオリは国王を創設し、首都、国旗、議会、新聞まであり、土地の所有権を主張した。同化を拒否し自立を確立するための戦いで④の段階。アイヌの3つの戦いのうち、マオリのように先住民族としての主張で戦ったのは「シャクシャインの戦い」だけだった。アイヌの人たちが旧シャクシャイン像を大事にしたのは、わけがある。シャクシャインから「先住民族」としてのアイヌのたたかいの新しい歴史が始まったのだ(kokiの意見)。

シャクシャインで敗れ、松前藩直轄、明治の同化で先住民族として屈服化したように思えた「先住民族」の意識は、大正デモクラシーで甦り、現在に至る。

 

1456コシャマインの蜂起

箱館近くのシノリ(志海苔)という村で、一人のアイヌの青年が小刀(靡刀:まきり)の出来具合をめぐって、シサムの鍛冶屋と言い争いになり、刺殺されるという事件がおきた。この事件をきっかけに渡島半島のアイヌが一斉に立ち上がった。凄まじい民族的正面衝突でコシャマインをリーダーとするアイヌ軍は十二館のうち10の館を滅ぼしたが、花沢の館にいた武田信弘によってコシャマインが討たれ、アイヌ軍は鎮圧された。武田信弘は、後に土豪の蠣崎氏の養子になり、豊臣秀吉から朱印状を与えられて直臣大名となり、さらに徳川家康から黒印状(蝦夷地における交易の独占権)を受け、松前藩の藩祖となった。

17世紀の北海道は、アイヌの有力な指導者が、狩猟や漁労の問題、交易、和人との関係について、それぞれの地を率いていた(身分制はない)。いくつかの勢力に分かれ、対立や連合を繰り返し、統一的なアイヌ民族としてのまとまりはなかった。

しかし、アイヌが住んでいたヤウンシモリ※(北海道)の土地はすべてアイヌの土地であり、交易に来るのならともかく、同意もなく、 侵略者が「和人地」と「蝦夷地」に分けて、和人地に松前藩を開き、城や港を築き、米(寒冷で栽培不可能)の代わりにアイヌの土地を分割してその一部を家臣が独占的に交易する権利を与えた。

※明治政府に「北海道」と命名される前、蝦夷地はアイヌによって「ヤウンモシリ(陸の静かな大地)」「アイヌモシリ(アイヌ(=人間)の静かな大地」などと呼ばれていた。

 

最初はその知行主がその場所に出かけて交易をし、松前藩城下で商人に売って金を稼いだが、後には商人が知行主に上納金(運上金)を納めて交易を請け負う(商場知行制)。

江戸時代の本州の近江、伊勢、大坂などの商人は全国規模。ヤウンモシリにどんどん進出してくる。松前藩は商人に商売をする権利を与え、利益の一部を受け取る(場所請負制)。

現代の私たちからすれば、「何、勝手なことをやっとるんじゃあ!」だよね。えげつないよ。

こうして、アイヌは自由な交易が禁じられ、産物を安く買いたたかれるようになった。大量の産物を約束させられ、アイヌが取引に応じない、あるいは出せないときには子どもを人質にとられた。

1604年に松前藩がアイヌとの交易を独占してから、その交易条件はアイヌにとってどんどん不利なものになっていく。サケの交易条件は、最初はサケ100本↔米1俵(60kg)だったのが、17世紀半ばには、サケ100本↔米8升(12kg)と5分の1まで低下した。それでもやってくる和人は、横暴な奴らばかり。藩の請負商人はアイヌを人間ではなく牛馬扱いし、やがて商人がアイヌの生殺与奪を握るようになる。商人以外にも砂金堀り(黄金ラッシュ)、鷹獲り(武士の鷹狩りに使う)が生活地域に侵入、アイヌの大事な神である自然や動物たちを奪取する精神的暴虐を行った。アイヌは本来の生活が成立しなくなり、商人が指定した遠い場所で妻子と別れ強制的に労働させられた。食べるものも満足にないという状況で、アイヌの人口は激減した。

北前船のルート

千石船で1航海するだけで千両の儲けがあったという北前船は、商人のアイヌへの搾取なくしては成立しなかった。交易品はサケだけではない。狩猟品にしても、その乾燥や加工で交易品となるためには手間がかかる。歴史教科書の「北前船」は、背景にあるアイヌへの収奪や土地の植民地化ぬきで、物流や大坂や今日の繁栄ばかりが強調されている。

 

1669シャクシャインの戦い

シャクシャインの戦いは、アイヌ民族とシサム(和人)との最大の戦いだが、その発端となったのは、砂金が採れたシブチャリ(静内地方)のパエのアイヌとシプチャリ(日高町静内)のアイヌとのイウォル(深山、奥山、狩場)の争いだ。

シャクシャインの戦い前後のアイヌ地域集団

1640年代、パエの首長はオニピシ、一方シプチャリの長はカモクタインで副首長はシャクシャイン。シャクシャインがオニビシの部下を殺し、5年後にはパエのアイヌが報復でカモクタインを殺してしまう。何度も松前藩が間に入ったが、とうとう1668年にオニビシが殺され、パエは松前藩に武器供与の救援依頼に行くが、断られ、その使者数人は毒殺されてしまう。アイヌの松前藩の介入に対する不信は最高に高まった。

シャクシャインは、「このままでは、松前藩によってアイヌが皆殺しにされる。アイヌ同志の争いはやめて、和人に対して戦おう」と、各地のアイヌたちを「反シサム」「反松前藩」として一本化する。サハリンやラッコ島のアイヌにも呼び掛けた。勝利の目標を①交易場所を松前城下に一本化する(アイヌシモリに立ち入らせない)②松前藩を攻め滅ぼす③自由交易を取り戻す で団結した。

和人が襲われたところ

1669年、シャクシャインをリーダーとする全アイヌは、それぞれの地で日本商船を焼き払い、砂金堀り、鷹匠を攻撃した。そして松前めがけ遠征を開始する。

一方江戸幕府は、松前藩だけでなく、津軽藩など東北地方の藩に出兵命令を出す。アイヌの武器は毒矢であるのに対し、藩は火縄銃。武器の差は歴然で、戦い3か月ほどでアイヌ軍は松前藩の和睦を受け入れる。

シャクシャインは、松前藩の和睦の宴会に招かれ、酒に酔ったところをだまし討ちにあい、殺害される。翌日には戦いに加わったアイヌの首長たちは、松前に連行され処刑された。

この戦いにより、各アイヌは藩と独自交渉を行ったが、だまし討ちには十分に警戒し、鉄砲を入手し、松前に交渉に出向くときは200名もの鉄砲部隊を引き連れていったという。砂金堀りや鷹匠は、アイヌシモリには入ってこなくなった。米とサケの交換比率は改善されたが、それはこれまでのアイヌの伝統である干サケ(燻製)ではなく、和人の好みである生サケ(塩漬け・塩は和人から購入)に変っており、製造コストは高くついた。ニッポン人のどこまでも自分本位でずるがしこいのにはあきれる。だまし討ち、詐欺やごまかしなどはアイヌと日本の歴史的な関わりにおいて現在まで日本側の常とう手段であり、神と礼儀を重んじるアイヌには耐えられないことであろう。あぁ、アイヌの人たち、権力者に良心の呵責というのはないんだよ。

シャクシャイン記念館(真歌公園内にある)

 

1789クナシリ・メナシの戦い

クナシリ島やメナシ(根室)地方の千島アイヌは、北千島やカムチャッカ半島でラッコを追い、毛皮を交易品としていた。この地方は、秀吉の朱印状、家康の黒印状という日本が認めた自由交易地帯。中国の清王朝は漢人が先住民族の土地に入ることを禁止したため、次の進出を狙ったのがロシアであった。ロシア使節ラクスマンが貿易を求めて根室に来航したが、幕府は拒否し、エトロフ島が襲撃される。

18世紀中頃には場所請負人の商人たちは、アイヌを対等な商品交換者ではなく、労働者として支配するようになっていた。飛騨屋は、下呂出身の木材問屋であるが、財政悪化の松前藩に貸した金を返してもらえず、アイヌの地で漁場経営をやろうと進出してきた。

クナシリ・アイヌは自分たちより東のアイヌはロシアの配下、西のアイヌは松前藩の場所を受け入れている。そこで、首長のツキノエは、ロシアに接近して松前藩に日ロ交易の橋渡しをしようとするが、失敗。しかたなく飛騨屋支配を受け入れる。

飛騨屋は、アイヌを漁場労働に駆り出すために「アイヌを全滅させる」「アイヌは釜に入れて絞め殺す」と脅し、アイヌの女性を凌辱し子どもを産ませ妾にしたりした。働きが悪いと、薪で撲殺されたり、毒の入った酒で毒殺された者もいた。

この非道なふるまいに、アイヌの若者たち130名が決起し、和人71名を殺害。松前藩からの260名の鎮圧隊が来る前にアイヌの長老たちが若者を説得。松前藩と話し合いをしようとしたが、すぐさま37名の首謀者は処刑された。アイヌ最後の戦いとなる。

●蠣崎波響 「夷酋列像」 アイヌの指導者12名の肖像画。マウタラケ チョウサマ ツキノエ ションコ イトコイ シモチ イニンカリ イチクサ ポロヤ イコリカヤニ ニシコマケ チキリアシカイ 最後のチキリアシカイは女性首長。

長老たちは、クナシリ・アイヌの戦いのあと、場所請負人(商人)の非道さを知ってもらえばわかってもらえると松前に来たが、連れてきた(蜂起した)若者たちはその場で殺された。そのあと、松前藩は、長老たちにきらびやかな衣装を着せ、肖像画を書かせた。誇張やデフォルメで本人とは全く別人に描かれているし、絵にあるが来なかった長老も何人かいたので、想像図もある。

藩は当初、長老たちを、決起した若者たちを説得した「御味方蝦夷」として、アイヌに「勧懲」を示そうというねらいだったが、肖像画は江戸幕府関係者や京都の光格天皇にも見せた。この絵は、このキンキラキンでマッチョな野蛮人も「忠国」に働かせているという松前藩アピール。描かれた長老たちの無念はいかばかりであっただろう。

 

幕府直接支配のアイヌ

商人の独占に危機を感じた江戸幕府は、ヤウンモシリ(北海道)は松前のような小藩にまかせるのではなく、幕府直轄地とした。アイヌ政策は慰撫(支援、育成)政策が取られた。これまで「蝦夷人」としてきた呼称は「土人」としたが、「土着の人」の意味で、こんにちのような軽侮の意はない。幕府の支配はうまくいかず、これまでの商人に頼るアイヌには和人と同じ服装や髪型を強要し、名前も和人風に創氏改名。

樺太アイヌはロシアがロシア正教を強制し、千島アイヌは色丹島に強制移住。和人との接触が増えたアイヌの人たちには、これまでなかった天然痘などの病気が流行し、人口は激減した。19世紀始めに2万人以上いた北海道のアイヌ民族の人口は50年後には1万数千人に減った。幕末の蝦夷地は、和人が増え、8万5000人いた。

1854年、ロシアと江戸幕府で、日露和親条約が締結され、エトロフから南は日本、ウルップ島から北はロシアと決める。1875年に樺太千島交換条約で、樺太はロシア、千島全域は日本になる。もともとはすべてアイヌの土地。松前藩は警備、物資調達、道路や橋の建設などの労務にアイヌを使い、わずかの米や食物を与えて酷使した。

そういう扱いを受けても、アイヌには自然がもたらしてくれる恵みに囲まれた生活があり、信仰とか生活習慣が確立していたから、痛めつけられても自分のコタン(村)に帰ると仲間がたくさんいる(野村義一※)。

※「野村義一」さんは北海道ウタリ協会理事。2008年に亡くなりました。

 

土人と呼ばれたり、伝統的風習を「悪風」と言われようが「大きなお世話」。末期の封建国家がアイヌモシリ全域支配なんか無理。ナポレオン戦争などで、ロシアが北東アジアに注力できなくなると、江戸幕府は直轄地をやめ、松前藩を東北地方に移した。アイヌモシリを日本の一部にする本格的な同化政策が行われるのは近代国家の明治になってからである。

 

明治以降のアイヌの歴史、ジェンダーの問題、日本におけるレイシズム(人種、民族、出自により優劣があるという神話)については次回に。

日本は植民地支配されないように生き残りをかけて、明治維新を行う。日本が列強の後を追い、国家を拡張していった歴史は、レイシズムの歴史とピタッと重なる。そのことをアイヌを通じて知ってほしい。

私たちの社会が何をしてきたのか?差別を受けてきた人々がどう声をあげて行動したか?歴史から学ぶことは多いし、現在の状況に対する気づきを得られる。(koki)

 

これまでの投稿は、以下でご覧になれます。

(Narashino gender1~41)

(Narashino gender42~)


 

コメントをお寄せください。(記事の下の中央「コメント」ボタンを押してください)