”ヒコーキ野郎”の半生を伝える

(NHK首都圏ネットワークより)

先月プラッツ習志野で行われた「伊藤音次郎」の講演会の模様が、6月11日NHKの首都圏ネットワークで放送されました。

 

「日本ヒコーキ野郎」という幻の映画。ゴジラなどで知られる円谷英二監督がかつて企画したものです。

主人公のモデルとなったのは民間の飛行機の草分け的存在だった「伊藤音次郎」という人物です。

先月、千葉県習志野市で開かれた講演会。テーマは「伊藤音次郎」

かつてこの地域で草創期の飛行機開発の歴史に名を刻んだ人物です。

10~20分しか飛べない時代に、往復65キロ55分間高度500メートルで東京へ行って帰って来た。

 

講演した長谷川隆さんは小学校の教師を退職した後、伊藤の功績について調査し、広める活動を続けています。

明治24年生まれの伊藤音次郎、17歳の時、世界で初めて有人飛行に成功したライト兄弟の映像を見て飛行機の開発を志しました。

伊藤が自らの研究所を立ち上げた場所は現在の千葉市内。今は住宅街に囲まれた公園の一角ですが、かつて一帯は砂浜でした。

 

12年にわたって調査を続けてきた長谷川さん、伊藤が晩年まで60年にわたって書き続けてきた日記やメモをすべて読み込みました。

伊藤が一気に名をあげたのは、24歳で独立した翌年。手作り飛行機で千葉と東京の往復飛行を初めて成功させました。

一時間近くの飛行はほとんど成功例がない時代。その快挙は新聞でも大きく報じられました。

ところが試練に見舞われます。台風による高潮で研究所の建物が自宅とともに全壊。

 

それでも伊藤はあきらめず、翌年、現在の習志野市に建物を再建。国産機で初めて連続宙返りを成功させた、と言われる機体も開発しました。

しかしその後待っていたのは厳しい開発競争でした。軍からの仕事を積極的に請け負った中島飛行機などが事業を拡大する中、経営難が続くことになります。

あくまで民間事業にこだわった、とされる伊藤。戦後GHQによって飛行機の開発が禁止されるまで技術者の一人として開発に関わり続けました。

伊藤の足跡を追ってきた長谷川さんは、信念を曲げずに夢を追い続けた人生に強く魅かれたと言います。

先月の講演会、会場には伊藤の実の娘も訪れました。12年前日記などの資料を提供し、調査のきっかけを作りました。

もう100年くらい前に飛行機開発をやっていた人間がいたことを知っていただくといいと思います。

長谷川さんは去年、研究の成果を1冊の本にまとめました。

夢を諦めずに持ち続けて挑戦し続ける心。伊藤の生きざまは移り変わりの激しい現代社会に伝えていくべきだ、と考えています。(長谷川さん)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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