(東京新聞の記事より)

<100年の残響 昭和のうた物語>
1968(昭和43)年「イムジン河」 
南北の架け橋願った「幻の曲」

 

68年にザ・フォーク・クルセダーズ(フォークル)によってレコーディングされた「イムジン河」、在日本朝鮮人総連合会(朝鮮総連)のクレームから発売中止となっていた。この曲もまた、分断と架け橋の間で揺れ動いてきた。

 その歴史は、松山さんが京都市内の中学3年生だったときに始まる。在日朝鮮人の生徒とけんかが絶えず、松山さんは朝鮮中高級学校にサッカーの試合を申し込みに行く。けんかよりいいと思ったからだ。その時、学校の廊下で耳にしたのが「イムジン河」だった。

 美しくももの悲しいメロディーに感じ入った松山さんは、後に知り合った朝鮮中学の生徒「文(ムン)くん」から曲名を教えられ、歌詞を書いたメモと朝鮮語小辞典を手渡された。「松山くんもこれで歌詞、訳せるやろ」

 レコードとして売り出す話は、松山さんが作詞したフォークルの「帰って来たヨッパライ」が大ヒットした後、持ち上がった。フォークルのリーダー加藤和彦さんに次の曲として「イムジン河」を推す。受け入れられたものの、1番しか訳していない。そこで書き加えたのが2、3番の詞だ。

 完成しステージで披露すると好評だったが、リリース間際にストップがかかった。発端となった朝鮮総連のクレームについて、総連傘下の在日本朝鮮文学芸術家同盟で音楽部長を務めていた李喆雨(リチョルウ)さんはこう明かす。「作詞、作曲者名と、この曲が朝鮮民主主義人民共和国で生まれたことを明記するよう求めました」

 原曲は朴世永(パクセヨン)さん作詞、高宗煥(コウジョンファン)さん作曲だった。松山さんたちはそれを知らず、詠み人知らずの朝鮮民謡と思い込んでいた。

 「作詞、作曲者名の明記を検討してくれるかと思っていたのですが、発売中止が決まり、こちらもすごく残念な思いでした」

 李さんの「残念」の奥底には松山さんの詞への感謝もある。「差別され、のけ者にされていた私たち在日朝鮮人への優しさを感じました。朝鮮半島に虹がかかれば、と日本人が歌ってくれたのがうれしかった」

 朝鮮半島は今も分断されたままだ。そればかりか世界各地で分断と対立が深まる。架け橋としての「イムジン河」が放つメッセージはより普遍性を帯びているが、松山さんはこう願う。

 「この歌が必要とされない世界を待ち望んでいます」

フォーク・クルセダーズの「イムジン河」

元歌の「림진강」(リムジンガン)

臨津江、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)では「リムジンガン」と発音しますが、大韓民国(韓国)では「イムジンガン」と発音します。

 

日本語で聞いても、朝鮮語で聞いても、いい曲ですね。

 

この新聞記事に書かれているエピソードを元に作られた映画がこちら。

 

映画「パッチギ!」

 

パッチギ(패치기:頭突き)をくらわせた朝鮮高校番長の妹役をエリカ様(沢尻エリカ)が好演していましたね。

パッチギというと、かなり年配の方の中には、プロレスラーの大木金太郎さん(韓国名:金一キムイル)を思い出す方もいるでしょうね。

 

 

 

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