(文春オンラインより)

〈“戦後史最大のミステリー”として、いまなお多くの謎につつまれる占領期最大の未解決事件「下山事件」〉。今年3月に「NHKスペシャル」で取り上げられ、あらためて話題を呼んだ。「あの事件をやったのはね、もしかしたら、兄さんかもしれない」。祖父についての親族の証言を契機に「下山事件」に新しい光を当てた作家・柴田哲孝氏の著書「下山事件 最後の証言 完全版」(祥伝社文庫)より一部を抜粋して紹介する。

 

 

「おまえのおじいさん、下山事件に関係してたんだよ」

 事の発端は事件からちょうど50年が経過した平成11年(1999)の夏、「週刊朝日」8月20日・27日合併号に掲載された「下山事件(国鉄総裁怪死)謀殺説に新事実」と題する6ページに及ぶ記事である。この記事の中でフリージャーナリストの森達也は「彼」と称する人物の証言を元に、「彼」の祖父とある組織の代表者「Y氏」が事件の実行犯であるとほのめかしながら、同様の記事を計5回にわたり同誌に連載した。

 連載の第1回目の3ページ目に、次のような記述がある。

〈それは事件から三十七年たった一九八六年のことだった。

「彼」の祖父の十七回忌が済んだ夜、親類縁者のだれもが思い出話にふけるなか、酔いが回ったのか、祖父の妹に当たる大叔母がふいに「彼」に向かって口を開いた。

「そういえば、おまえのおじいさん、下山事件に関係してたんだよ」〉

謎を残したまま「週刊朝日」の連載は終了

 さらに2ページ後に、「彼」が大叔母の証言を確かめるために「Y氏」を訪ねる様子として次のように続く。

〈Y氏は十畳ほどある和室の中央に正座していた。がっしりとした体躯で背は高く、眼光は鋭い。傍らには日本刀が置かれていた。その鋭い眼差(まなざ)しにやや臆しながらも、「彼」は向き合って腰をおろした。

「お前は何者だ」

「以前お世話になった者の孫です」

「証明するものはあるか」

「彼」は自動車免許証を取り出して、見せた〉

 そもそも「Y氏」とは何者なのか。週刊朝日の記事は、回を追うごとにその正体を明らかにしていく。「Y氏」が代表を務める組織の名は、「亜細亜(アジア)産業」。その本拠地は下山総裁が行方を絶った三越本店の近くにあり、別名「Y機関」とも呼ばれた。「鹿地(かじ)事件」(左翼作家として知られる鹿地亘[わたる]が拉致監禁された事件)の実行犯として有名なGHQの「キャノン機関」のキャノン中佐と深い関わりを持ち、その下請け機関として数々の非合法工作に関与していた――。

 だが記事は結局、確証を得ることなく謎を残したまま連載を終えている。

3年後、再び「Y氏」なる人物がマスコミに登場

 これまでにも半世紀にわたる一連の下山報道の中で、実行犯とされる人物、もしくは組織の名は数多く浮上している。事件当初の労組左派説に始まり、朝鮮人説、GHQ説、CIA(米中央情報局)説に至るまで、ありとあらゆる手法で実行犯の特定が試みられ、時代の流れの中に消えていった。だが週刊朝日の「実行犯→Y氏説」は、過去の数多くの報道とは異なり、一過性のものでは終わらなかった。

 次に「Y氏」なる人物がマスコミに登場したのは、3年後だった。2002年12月、週刊朝日の連載に取材協力した社員記者の諸永裕司(もろながゆうじ)が単行本『葬られた夏 追跡下山事件』(朝日新聞社)を発表。ここでもやはり「彼」の証言を元に、亜細亜産業の「Y氏」を軸にキャノン機関の元工作員をアメリカにまで追跡し、事件の真相に迫ることを試みている。

「彼」とは、誰なのか

 さらに2004年2月、週刊朝日に連載した森達也が単行本『下山事件(シモヤマ・ケース)』(新潮社)を出版した。この本はその内容のほとんどが前出の『葬られた夏』に重複するもので、特に目新しさはない。だが森達也は、この本の中で唯一、「Y氏」なる人物の実名が「矢板玄(やいた・くろし)」であることを暴露している。

 個々の内容の相違はともかくとして、週刊朝日→『葬られた夏』→『下山事件』と続く一連の報道には、明らかな共通点がある。すべてが「彼」なる人物の大叔母の証言を発端に、「彼」の証言を軸にして、「Y氏」を実行犯とする仮説に基づいて全体が構成されているということだ。確かに2冊の単行本に関してはかなりの追加取材が行なわれ、肉付けがなされてはいるが、そのほとんどに「仮説に誘導する」という意図が見え隠れしている。つまり、「彼」と呼ばれる人物の取材と証言なくしては、一連の報道はいずれも「存在し得なかった」ということになる。

 ところがすべての文中に登場する「彼」の証言の部分を読んでみると、理論を展開する上で根幹をなす重要な部分であるにもかかわらず、きわめて不自然な記述が多い。まず、「彼」の正体のみならずその実在すらも明らかになっていない。さらにその証言に関しては明らかに虚実が入りまじっている、と断ぜざるを得ない。

 なぜそう断言できるのか。もちろん、確固たる理由がある。なぜなら一連の報道の中の「彼」こそは、実は「私」なのである。つまり「彼」の証言はもとより、「彼」の大叔母の証言、「彼」の母の証言、さらに「Y氏」のインタビューの内容を正確に知る者は、「私」しか存在しないのだ。

「私」の職業はジャーナリストである。その「私」が、なぜいままで下山事件について語らなかったのか。その理由は「私」をはじめ「私」の祖父、大叔母、母親などの血族が、ある意味で下山事件の当事者であったからに他ならない。

 だが、いま、「私」は語るべき時が訪れたことを知り、心を固めた。以下に書くことは、「私」が知り得る限りの、我が血族と下山事件に関する真実である。

 

祖父・柴田宏 私の英雄「ジイ君」

 私と遊ぶ時の祖父は、まるで少年のようだった。近所の遊び仲間が集まって野球が始まると、よく祖父が飛び入りで参加した。祖父は、必ずピッチャーをやらされた。その剛速球とカーブは有名で、少年たちを相手に三振の山を築いた。空地の先の家のガラスを割るほどの大きなホームランを打ったこともある。祖父は、近所の少年たちの間でも英雄だった。

 柴田宏。それが私の祖父の名だ。宏と書いて、ユタカと読む。私や弟、近所の少年たちは、その祖父を「ジイ君」と呼んでいた。

 祖父は長身だった。痩軀(そうく)だが肩幅が広く、大きな背中をしていた。私はその背中が好きだった。いま振り返ると、私は常に祖父の背中を見つめ、その後ろ姿を追うことによって成長してきたのではないかと思うことがある。もし私が祖父の存在に対して違和感を覚えることがあるとすれば、やがては祖父にも“死”という絶対的な瞬間が訪れるという現実だけだった。

祖父の頑固さが最後には命取りとなった

 だが、その時は意外に早くやってきた。ある日、たまたま私と中野の街を歩いている時に、突然祖父が腹痛を訴え、その場に崩れるように倒れた。近くの病院に担ぎ込まれ、手術を受けた。患部を開いてみると、手の施しようがないほどの末期の癌であることがわかった。

 祖父は自分の体のことを知っていたのではないかと思う。虫歯を自分で抜いてしまうほどの医者嫌いの人だった。おそらく、倒れる何ヵ月も以前から耐え難いほどの苦痛があったはずだ。家族に心配をかけまいとしたのか。それとも自分の体力を過信していたのか。私は少年時代、よく祖父の戦時中の武勇伝を聞かされて育った。祖父が戦地で度重なる窮地を生きながらえたのも精神力であるとするならば、その頑固さが最後には命取りとなった。

 昭和45年(1970)7月1日、1年以上もの闘病生活の末に祖父は息を引き取った。享年69。特に祖父が最後の数ヵ月に見せた凄まじいほどの生に対する執念は、私に対して「男とはいかに戦うべきか」を無言のうちに教えようとしていたかのようだった。

 まだ14歳になる直前の多感な年頃だった私にとって、祖父の死は単なる肉親の死という枠では語りつくせない意味を含んでいた。私は生涯、祖父の死の瞬間を忘れないだろう。それは壮絶なまでの価値観の消滅であり、同時に私が“少年”という輝かしくも平穏な時代に訣別した瞬間でもあった。

「もしかしたら、兄さんかもしれない……」

 以来、毎年夏になると、我が家では祖父の法要が恒例となった。祖父は柴田家の9代目の当主であり、7人兄弟の長兄でもあった。節目の回忌の折には横浜の菩提寺に親類縁者が数十人集まったこともある。

 平成3年(1991年)7月、その年には祖父の23回忌にあたる法要があった。この時は私の家族の他に祖父の末の妹の飯島夫妻などが参加しただけのごく身内の法要で、その後、中華街に出て馴染みの店でささやかな食事会が行なわれた。

 その席で、祖父の思い出話が進むうちに、酒の勢いも手伝ってか突然、大叔母の飯島寿恵子(すえこ)が奇妙なことを口走り始めた。

「宏兄さんは、優しい人だったよね。私には、父親みたいな人だったし……。でもね、時々私、思うことがあるのよ。本当は兄さんほど恐ろしい人は、いないんじゃないかって……」

 私は箸を持つ手を止めた。大叔母が何を言わんとしているのか、最初は見当もつかなかった。周囲では私と寿恵子の様子に気付かずに、話がはずんでいる。

「いったい、どうしたのさ。急に……」

 私はあえて軽口をたたくように訊いた。だがその時の寿恵子は、尋常な様子ではなかった。目には涙が溜まり、手がかすかに震えていた。

「あんた、下山事件て聞いたことあるだろう。あれは自殺だとかなんとかいろいろ言われてるけどね。本当は、殺されたんだよ……」

 

だが当時の私は、「下山事件」に関してほとんど知識を持っていなかった。昭和24年夏に初代国鉄総裁下山定則が三越本店で行方を絶ち、翌未明に五反野の線路上で轢死体で発見されたこと。自他殺両方の説があるが、事件は事実上迷宮入りしていること。私の下山事件の知識はその程度のものでしかなかった。

「まあ、一応は知ってるよ。それがどうかしたの?」

 私は平静を装っていた。だが、次に寿恵子が何を言おうとしているのか、漠然と予想していたような気もする。

「あの事件をやったのはね、もしかしたら、兄さんかもしれない……」

 その一言がすべての発端だった。

 

 

 

 

 

 

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