メーデーの歴史

メーデーは、1886年5月1日、アメリカの労働組合が八時間労働制を要求してストライキ・デモ行進を行ったことが起源です。当時は12~14時間労働が当たり前でした。このため、アメリカの労働者は「第1の8時間は仕事のために、第2の8時間は休息のために、そして残りの8時間は、おれたちの好きなことのために」という「8時間労働の歌」を歌いながらたたかい、8時間労働制をかちとりました。

 しかし、運動の中心地だったシカゴでは5月4日、ヘイマーケット広場に集まったストライキ参加者を武装警官が襲い、多数の死傷者が出たのをきっかけに、資本家側は8時間労働の約束をほごにします。

 そこで、労働者側は、ふたたびゼネストでたたかうことを決め、世界に共同行動を呼びかけます。これにこたえて、労働組合・社会主義運動の国際組織だった第2インターナショナルは89年7月の創立大会で、この日を「法律で8時間労働日を決めるよう要求する国際デモンストレーションの日とする」と決定。翌90年に各国で第1回メーデーが実施されます。

 日本では、1920年5月2日(日曜日)、上野公園で5千人が参加したのが最初です。集会では「(ストライキ等を弾圧した)治安警察法17条撤廃、失業の防止、最低賃金制の確立」を決議。8時間労働制、東京市電争議支援、シベリア即時撤兵の動議を可決しています。

 その後、戦前のメーデーは1935年の第16回まで各地でとりくまれましたが、36年の2・26事件で戒厳令が敷かれたのを機に禁止されました。

 戦後は、46年の第17回メーデーから復活。東京では“人民広場”とよばれた皇居前広場に約50万人が集まり「民主人民政府の即時樹立」「食える賃金を」などを決議しました。

 皇居前広場のメーデー使用は、サンフランシスコ講和条約発効直後の52年の「血のメーデー」事件後、占領軍指示で使用禁止とされ、東京地裁は違法としますが、政府が控訴し、禁止に固執したため、会場はその後、明治神宮外苑に移されるなどの経緯があります。

 

(NHKアーカイブスより)

メーデー労働戦線団結の威力

 

放送年:1946年

《東京》労働者、農民、勤労者が団結の威力を示す日、メーデーが来ました。11年ぶりに復活した喜びの日。かつて軍国主義に塗りつぶされていた宮城前広場は、みるみる赤旗、のぼり、プラカード、そして潮のように押し寄せた50万の人民大衆の喜びの顔で埋まりました。各職場代表者の熱烈な演説ののち、社会党加藤勘十氏、共産党徳田球一氏は力強く労働戦線の統一を叫び、最後に宣言の朗読が行われました。「歴史的メーデーに際し、我々全日本の労働者は高らかに宣言する。このような正しい世界の完成の日まで、揺るぎなき団結と鉄の意志を持って、闘争を推し進めることを。1946年5月1日、第11回東京地方メーデー!」(拍手)かくて11時30分、4つの地区に分かれた世紀の大示威行進は折からの小雨をついて出発。胸を張り、腕を組み、足音高らかに、町へ、町へ。(「メーデー歌」を歌いながらの行進と、歓迎する町の人々の様子)四谷では、初めてメーデーに参加した教員組合の中に先生がいるのを見つけた子どもたちが、喚声を上げながら嬉々としてデモに参加しました。かくて幣原内閣打倒に大きな力となった働く者の団結の威力は、このメーデーを機に俄然躍進し、日本民主化の方向へ力強い前進を遂げたのであります。(「メーデー歌」を歌いながら人々が行進)《水戸》この日、全国各地でも盛大なメーデーが同時に行われ、参加総数、実に100万、水戸では農民の参加が特に際立ちました。(「メーデー歌」を歌いながら人々が行進)《高崎》群馬県高崎でも盛んな労働者の意気を示しました。《大阪》大阪のメーデーもまた、沸き返る勤労大衆が町を埋めました。かくて東京の各代表者たちは、官邸で幣原首相に決議文を突きつけ、反動内閣絶対反対、民主人民政府即時樹立を要求しました。「あなた方のおっしゃっていることは十分よくわかりましたからね。恐らく総理がいろいろまた考えられるでしょう。しかしね、その社会党内閣を阻止しようということをだな、総理に今ここで答えろということは、それは無理だ」「しかし、これは人民の声だということは認めますな」「責任が取れんのだな」「だから・・・」「声だっていうことを認めますかとお聞きしたんだ。声だ。あんた方が反映する声。声に対して、あんた方が何らの返事をしないということが重大なんだ」

 

 

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