女こども連合というif

●喜多川歌麿 美人画だけじゃなく母子画も多い

「内治」の変化

江戸時代、徳川政権は同じでも、初期と後期、幕末では、ずいぶん違う。女大学のことは以前紹介したが、

 

女性の役割は、「内を治め」、男は「外を治める」ことが強調されている。内?外?抽象的だが、儒教の男尊女卑が背景にあり、日本でも17世紀には男性家長の家制度が確立し、家をおさめ子を育てるのもみんな女のすることという性別役割分業が社会規範となった。一般社会で働くのは男。そして「収入を得て、家計を担う者(男)が優位に立つ」。今も厳然として日本社会の中に残っているよね(今は江戸時代よりも人を経済的価値で判断する傾向が強いので、より厳しい)。

この「内治」は、江戸時代初期には「若い妻は身だしなみを整えて夫の意に添うように努める」「夫は主人や親と思って仕えよ。姑は夫を愛していれば憎いはずがない」「客には柔らかな言葉づかい」「足音をしないのが奥ゆかしい」とか、人間関係への配慮が中心。とくに夫に対し、「機嫌良きようにふるまう」「悋気(嫉妬)を起こすな」「常に化粧をし、身だしなみを整える」と夫に見限られないために夫に従うことが強調されている。武家社会の規範だったのが、時代を経るに従って、庶民にまで浸透した。

 

●農水省HPこどもページ 「農業全書」米の乾燥・もみすり

農村の女性は昼間は男性と同じ作業をして、家に戻れば台所仕事。最後に風呂に入り、それから家計補助の夜なべ賃仕事が当たり前だった。なぜ、そんなに過重労働だったのか? それは「女」だったから。

女訓書(女大学)が、現代の女性にとって気持ち悪いのは、その徹底した男目線である。家のなかの内治という正体が見えてこない。家事、子育てやらない男性が抽象的に内治を語るからだ。身だしなみを整えていては家事ができないし、夫の機嫌だけで動けというのは、浮気もOKということ? 不義密通御法度はどうした? 江戸時代は家父長制に基づく家族制度であったから、家庭経営の責任者は男(夫)に帰せられており、妻は夫の管理のもとで家事に明け暮れる日々。どう転んでも、「内治」ではなく、「奴隷」ではないか?

近代になって、福沢諭吉は、女大学を「女性の隷従を強いる封建道徳そのもので、近代に克服すべきもっとも大きな弊習」と批判した。

 

●中村三近子 「書札調法記」

女大学は、その書筆の多くが「中村三近子:さんきんし」という男性であるという。女大学は男目線で男の文字で書かれた。男文字で書かれたものを女性が手習いすることは、大きな転換点になった。男性が書いた漢字の多い文章を女性たちが繰り返し読み、手本とすることによって、女性が女筆のかな文字を書き、情緒的役割を中心として生きてこられた「内治」の時代は、庶民階層の家の成立とあいまって、家の管理、経営や健康管理、それらの科学的な専門的知識やその習得へと変化していく。さらに、購買と消費の時代へと移行し、家具、食器などの道具も増え、家事は増加し多様化した。時代が変化すれば、女性の「内治」の役割も変化しなければならない。江戸後期のプレ近代化した時代においては、家の経営、管理も当事者として女性が参画すべきなのに、家を管理、支配するのは男性という男性優位は変わらず、女性がプレ近代的な内治支配にやる気を出しても、男性の知識との差異が明瞭になり、「女性は愚か」の新たな展開が始まる。18世紀以降は、外で働く女性も家事は女性の義務となり、婦徳化が浸透していった。その流れは、近代になっても良妻賢母教育により、300年も経った現在でもこのガラパゴス国では生き続けている。女性は近代教育により男性と同じ実力をつけて、戦後は男女平等の憲法もできたのに、いまだに「婦徳」を押し付けられ、社会進出を拒まれている。ジェンダー指数が低いままなのはそのせいだ。

Kokiは思う。明治で女性の抑圧が強まる前の自由な町民文化がある時代に、女性は女大学を否定し変わるべきだったのだ。江戸末期の変革期に「改訂女大学」を出してほしかったね、蔦屋重三郎。著者は山東京伝、挿絵は歌麿と写楽だよ。アバンギャルドだ。

 

●蔦屋重三郎 版元として発行した本に載せた肖像画 「江戸のメディア王」と呼ばれる。

蔦屋がプロデュースすれば、ベストセラーになるのはまちがいなし。日本はジェンダー先進国になったかもしれない、ifだけど…。歴史が面白いのは、ifの想像力があるからだ。

 

父親は子育て責任者

武家は、子どもの養育について責任を負ったのは、家長としての男性(父親)であった。女性(母親)は男性に導かれて養育に携わる従属的な立場に位置付けられ、主体的に判断を下す関わりを求められていなかった。

 

●中村弘毅「父子訓」

漢学者の中村弘毅の「父子訓」では、母親を子どもにとって大事な存在としながらも、母親は道理に暗く、情愛に溺れがちで、父親の教える慈しみを妨げ、子どもに害を与えるという。女性は理性の働く存在ではないとハナから劣等視している。

しかし、子女の養育も直接携わっていたのは劣等とされた女性である。母親、乳母、女中、年少の子守り。乳母や下女を雇うゆとりのない下級武士では父親も育児をやっていたが、子どもの養育は大事なことと考えられていたので、子育てが軽視されることはない。

 

●紙芝居「頼山陽の母」

江戸の教育ママ、頼山陽の母の頼静子(梅颸:ばいし)は、58年間も身辺日記を書いた。夫の弥太郎(春水)も35年分の日記を残している。不良少年の頼山陽をいかに育てたかに関心が集まるが、家計や育児、家事全般についての管理は、夫で家長の弥太郎がやっていた。下男、下女がいたが、その監督も夫が妻に委譲したという位置づけ。7度の単身赴任を務めていても、微細なことまで書置きにして家に残しておいた(弥太郎の日記)。一部を紹介しよう。

 

弥太郎(以下、家長)は、食事は毎日、献立を第一に考えることを指示し、献立を決めるのは静子(以下、奥)、調理は下女。

下男は、菜園の世話、漬物、味噌の仕込み。

下女は洗濯、ただし季節の代わり目は洗濯女を雇う。

掃除は全員で。各人がやる場所は家長が決める。掃除の日付は毎日4と9の日と、1日・15日・めでたい日の前日。

下女と下男で手分けして買い物。そのたびに「通い」に記入。

衣類の新調は、書状で家長に相談。

藩から支給される扶持米(給料)の経理は知人が請け負う。

奥がやっていたのは、着物や布団生地の機織りと仕立て。

育児は乳母と下女と奥で。

 

不在の弥太郎の代わりに静子が行うのは「位牌の拝礼」と「久児(頼山陽)保護」、親戚づきあいなどの交際である。男の子は7歳まで静子が教育し(静子は儒家の生まれ)、以後は近所の儒学者の私塾。9歳からは学問所。女の子は静子がやっていた機織や裁縫の手ほどき、手習い指導。

 

●頼春水(1746~1816)儒学者。 

頼山陽の実父だが、山陽が藩を出奔したため、山陽を勘当して、甥を養子にし、甥が死去すると山陽の子を嗣子とした。静子は藩の法により離縁する。

(静子と江戸時代の離婚については、こちらに書きました)

 

 

静子は、「表」に生きる男性の「再生産」の労働に従事していた。江戸時代はこのような労働は「女のたしなみ」、近代では「主婦のつとめ」、現在では「シャドーワーク」、「アンペイドワーク」と庶民には認識されているが、今の政府の意識は近代か江戸時代のまんま。

 

子殺し習俗について

江戸時代の教育とジェンダーについて考える前に、子育て、その前の子殺し(特に間引き)について進めていきます。

江戸時代(それ以前から)に、間引きという子(新生児)殺しの風習があり、犠牲になったのは圧倒的に女子だった。江戸時代を通して女性の数が男性より1割前後少ない。女性が出産で命を落とすこともあるが、間引きも一原因かもしれない。女子はこの世で生きることも許されなかった? 

ルイス・フロイスは「日本では堕胎がごく普通に行われ、なかには20回も子どもを堕ろした女性もいる。日本の女性は育てられないと思うと、嬰児の首に足を乗せ、すべて殺してしまう」。間引きは、さほどの良心の呵責もなく行われ、悪習として定着していたことは、数の多さだけでなく、その理由にも表れている。

 

●茨城・徳満寺 間引き絵馬

 柳田國男は子どもの頃、この絵馬をみて「鉢巻をしめた産褥の女が生んだばかりの嬰児を抑えつけている。障子にその女の影絵が映り、それに角が生えている。傍らに地蔵様が立っている(この画像では地蔵の上部は剥げて見えない)」とショックを受けた。 

間引きの理由は、
①はしか時の妊娠 
②42歳の厄年生まれ 
③丙午年生まれ 
④異常出産(双子、三つ子、奇形児)
⑤経済的困窮
⑥贅沢な暮らしの維持 
⑦淫行の結果 
⑧対面の保持(「四十八の恥かき子」など世間体を気にする(村山貞雄)。


まるで大根の葉っぱの部分を捨てるように堕胎が日常化していた。間引きの方法も、夫婦で赤子の口に藁や糠を押し込んで呼吸を止め、肛門を塞ぎ、膝で圧迫したり、薦(こも)や筵(むしろ)に包んで、臼(うす)などの重いもので潰したり、生きたまま土中に埋めたり…、むごいものであった。

一方で、殺されずにすんだ子どもは、「子は宝」として大事に育てられたのだろうか? 気になるところだ。フランスの中世のように、7歳以上の子どもは「小さな大人」として扱われていた(フリップ・アリエス「子どもの誕生」)というような実態があったのだろうか?

 

●<子供>の誕生―アンシャン・レジーム期の子供と家族生活 1980 

著者のアリエスは大学に属さず、熱帯植物の研究機関で働く「日曜歴史家」だった。

現在も、日本で7人に1人の子供が貧困状態にあるのは、子どもは大事にされていないということだ。育てている親だけが問題ではない、だから、江戸時代の教育の前に間引きの傾向と対策。

 

間引きと丙午(ひのえうま)対策

江戸時代、間引きが常態化していることに対しては、教訓書などで多くの批判があった。

 

●関口豊種(とよたね)「養育教諭」 民間で発行し無料で配られた。

豊種は間引きを「胸がふさがり、涙があふれ落ちて、浅ましくも口惜しくも、これほど忍びがたいことはない」と思いを語り、「子を戻すことは、いかなる事情があるにせよ、決して行ってはならない。なぜなら出産を人間の仕業とばかり考えるのは間違いで、神道では産霊(むすびのかみ)がなし給うとし、儒道では天より与え給うとし、仏道では諸仏の力で出生すると説くからだ。だから間引きはあらゆる教えや神仏に背く行為である」と批判し、心得を説く。「貧しくないのに育てないのは言語道断」「分相応の生活を恥と思うな」「多産や高齢出産などを気にしない」「どうしても育てられないというなら村長やお上に申し出よ」、「間引きは地域の恥、地域の恥は村長や役人の恥であり、ひいては君上の恥となる」と訴えた。

丙午(ひのえうま)の干支の年(60年に一度)に生まれた子どもは、男は女房を喰らい、女は夫を喰うという迷信。

もとは、中国の陰陽五行思想由来「丙年も午年も火の干支でダブルの組み合わせで火災が多い」。それが、丙午生まれの(?)八百屋お七の放火事件と結びつき、「丙午生まれの女性は気が強く、結婚できない」と、男の丙午は抜け落ち社会に浸透した。丙午には出産率が低下し、生まれた女の子を間引いたりした。丙午の迷信を否定し、間引きから子どもを救おうと、啓蒙書を出し無料配布した人も多くいたが、効果はなかった。

 

●作者不明「丙午さとしばなし」1786 

役所に許可を得て配布したり、神社に貼りだしたら、全国から参詣にきた村役人が持ち帰り、広めたりした。

 

●渓斎英泉 「丙午明弁」 

戯作者で絵師。在原業平や足利尊氏も丙午生まれでめでたい年で、強運がつくと説いた。

さて、現代ニッポン、2年後の2026年は丙午。前回1966年はガクンと出生率が減った。21世紀になっても江戸時代からの迷信はまだ残っているのだろうか? これ以上出生率が減れば、確実に1人を割り込むね。

 

●合計特殊出生率の推移

江戸時代、代官、諸藩や幕府も、間引き防止策を講じた。藩によって異なるが、養育費を支給したり、教化のために教諭所を設けたりした。農民の人口を増やすことは、それだけ年貢が増えるということ。日本の人口は3000万人前後でストップ、上昇しなくなっていた。税金が町人、商人、武士にはかからないのに、農民にだけ重税というのはおかしいよね。農村から都市への流出で荒れた土地も増え、人手不足もひどかった。

お上は間引きという闇の部分を「赤子の一命を助けるのは広大な福」「天下より重き人命を助ける隠徳」などという「子宝思想」で説いて、養育料だの、3人目の子どもから、三歳まで米1俵だの、困窮者の子は5歳まで「御救お手当金」と言う育児手当を出したりしている。現在の自治体子育て支援策そっくり。いや、岸田政権のほうがもっとめちゃくちゃ。

岸田首相は何かというと財源問題は「賃上げ」で補うというが、賃上げ政策は全く期待できない? このままでは、子どもも子育て世代の若者たちもつぶされてしまう。

 

●増税メガネの子育て支援制度の問題点

江戸幕府は得意のお触書、「出生の子取扱の儀お触書」。間引き防止のために村役人以下の相互監視を強化。藩レベルでは「妊娠管理」。村役人の「懐妊調べ」で出産立ち会い。そんな監視型「産めよ殖やせよ」は、子殺しが必ずしも貧困理由ではないこともあって、間引きは減らず? 逆に飢饉などで人口は減っている。そのあとずっと、丙午伝説だけは今も生き残っている。

 

子殺しから子育てへ

 

今回は、かなり混乱気味だけど、散りゆく桜の下で、夢想状態。Kokiは公園を書斎代わりに利用する。毎度じゃないが、ワインとかテキーラをクーラーボックスに入れてね。最高だよ。いつもは本をもってくるけど、今回はパソコンを持ってきた。WiFiないから、電子辞書と電卓。

これで最後まで書いてみます。人はあまり来ない。たまに犬と人間がペアで通り過ぎるので、犬のほうに挨拶をする。

江戸時代(近世)という時代は、現在と非常に近い。ちょんまげ、着物、電気もガスもなく…不自由この上ないと思っていたら、それは偏見か誤解だ。「動力」の問題だけで、現在あるものはなんでもある。動力なんて大きな問題じゃない。明治の国民国家とちがい、身分はいいかげんで、資本主義に近い市場経済。朝廷はあってなきが如くは同じ。現在の2世議員ばかりの政府はオットセイ将軍の欲望と変わらない。江戸幕府が「お触れ」で済むと思い込んでいるのは、口当たりのいいキシダのウソばかりよりマシかもよ。冤罪、裏金、利権、コネで動くのは変わらない。ニッポン国、税金とられる理由がわからない。これだけ腐りきったら、税金取られない非課税を目指して好きなことで生きていく。日本は湿った地面に向かって散りゆく桜、どんどん沈んでいる船。

●タイタニック号の沈没数時間後、わずかな生存者を乗せた救助ボート

 

女こども連合というif

そこで、子どもです。江戸時代の子どもは楽しそうに生きていた気がする。間引きを軽い気持ちでやる大人が、どうして生まれた子どもをかわいがるのか? 可愛がることができるのか?

そこから出発して、江戸の教育について考えたい。女性は子どもの世話をしていたので、子どものありのままをよく分かっていたと信じるからです。

 

10か月もお腹のなかで育ててきた赤ん坊を生まれたその場で殺す。産んで育てた娘は、幼くして売られる。年貢が払えなくて、家という家族を救うために売られた娘は、借金がいつまでも返せず、過酷な労働の末、捨てられる。家制度のなかの男尊女卑はなんと残酷なものか。

18世紀後半から、商品を生産する手工業がおこり、女性は稼げるようになった。封建制度の家から出ることが可能になった。

これは、女性と子どもの服従を「女こども」と軽蔑するクサレ男と決別できるチャンスだった。女の子の間引きをせず、売り飛ばさず、家父長に不服従の闘士として育てる。封建的家制度を打ち破るのは女しかできない。諸事情を考えるとありえないけど、kokiの江戸後期のifです。

 

歴史のifを追って行ったら、現在の解決方法がみつかり、未来が見えてくる。

明治は、武士の一部と、商人ならぬ資本家と、にわかカルトみたいな天皇制になったが、封建的家制度は生き続け、女性への搾取はむしろひどくなった。少女は遊廓ではなく軍需工場に売られ、外国への侵略のために農民は兵士にされた。江戸は兵農分離だったのに。

現在をタモリが「新しい戦前」と言ったのは2年前? いつ戦争になるか、まるで「開戦前夜」のような情勢である。政治、経済、社会、メディア、宗教まで、全体主義的な風潮が強くなっている。まるで民主主義を装ったファシズム(丸山真男)。

次回は、江戸の教育に入ります。(koki)

 

これまでの投稿は、以下でご覧になれます。

(Narashino gender1~41)

(Narashino gender42~)


 

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