ついに日本でも公開された映画「オッペンハイマー」

「日本では公開されないのではないか」とも言われた映画「オッペンハイマー」が、ついに日本でも公開されました。

「原爆の悲惨さが描かれていない」などの批判もある一方、「原爆投下は正しかった、というこれまでの大半のアメリカ人の『原爆礼賛』を変えるかも知れない。こうした映画が作られるようになったことにアメリカの変化を感じる」など積極的に評価する人たちも多いようです。

原爆を作った「功労者」を、「赤狩り(レッドパージ)」で「共産主義者」のレッテルを貼って抹殺する、という、「戦争中毒国家」アメリカの恐ろしさを感じさせる映画にもなっています。自殺に追い込まれた恋人「ジーン」を演じたフローレンス・ピューの演技、素敵でした。

 

 

 

この映画から「オッペンハイマー」の人生を振り返る

 

1920年代

ケンブリッジ大学で物理学を学ぶオッペンハイマーは、ホームシックでかなり精神的にも不安定。気の迷いで、リンゴに毒を注射して、担任の教授を毒殺しようとする蛮行に及んでしまう。

ニュートンが万有引力の法則を発見したきっかけとなったリンゴが、まだ青く熟していなかったのは、オッペンハイマーがまだ科学の青二才であることを示しているのかも。理論物理学者ボーア博士(ケネス・ブラナー)がリンゴを食べかけるのを慌てて阻止するが、その後オッペンハイマーが原爆開発に邁進することを考えると、非常に示唆的なオープニングといえる。

ボーアはゲオルク・アウグスト大学ゲッティンゲンで物理学を学ぶことを勧め、オッペンハイマーはそこで博士号を取得する。

1929年〜1941年

アメリカに戻ったオッペンハイマーは、カリフォルニア大学バークレー校とカリフォルニア工科大学で物理学の教鞭を取るようになる。パーティでアメリカ共産党のメンバーのジーン(フローレンス・ピュー)と出会い、交際に発展するが長続きせず、生物学者で元共産党員のキティ(エミリー・ブラント)と結婚。ドイツでプルトニウムの核分裂に成功したというニュースが飛び込んでくる。

オッペンハイマーが初めてジーンと夜を明かすシーンで、「いま、私は世界の破壊者である死となった」というヒンドゥー教の聖典「バガヴァッド・ギーター」の一節を朗読するが(しかもサンスクリット語で)、トリニティ実験でも同じ言葉を引用している。自らの運命を予知しているかのようだ。

1942年〜1944年

アメリカ陸軍のグローヴス大佐(マット・デイモン)から、オッペンハイマーはマンハッタン計画に任命される。ラビ(デヴィッド・クラムホルツ)、ハンス(グスタフ・スカルスガルド)、テラー(ベニー・サフディ)ら優秀な学者をリクルーティングしてチームを結成し、ニューメキシコ州北部のロスアラモスに研究所を建設。原子爆弾開発のプロジェクトに専念する。このリクルーティングのシークエンスは、まるで『七人の侍』(1954年)で侍をひとりひとりスカウトするシーンを彷彿とさせて、面白い。

テラーは、原子の爆発は大気を引火させる連鎖反応(チェーン・リアクション)を引き起こす可能性があることを示唆。オッペンハイマーはアインシュタイン(トム・コンティ)とも相談し、その可能性は限りなくゼロであると結論づける。「ゼロ」ではなく「限りなくゼロ」であるにも関わらず、マンハッタン計画を進めてしまったことに対して、彼は終生苦しめられることになる。

共産党員の友人シュヴァリエ(ジェファーソン・ホール)から、「仲介者を通じてソ連に情報を提供することが可能」と諭されるが、反逆罪にあたるとしてこれを拒否。後日、情報将校のパッシュ(ケイシー・アフレック)からこの件について詰問されるが、何とか切り抜ける。

妻に隠れて密会を続けていたジーンが自殺。妻に不貞を告白するオッペンハイマーの姿が、あまりにも無惨だ。

1945年

ドイツが降伏。ロスアラモスの科学者の中には、原爆の製造を続けることを疑問視する者もいたが、オッペンハイマーは「原爆によって太平洋戦争を終結できる」としてプロジェクトを継続。トリニティ実験を成功に導き、トルーマン大統領(ゲイリー・オールドマン)の命令によって広島と長崎に原爆が投下される。一躍オッペンハイマーは英雄として賞賛されるが、大量殺戮に手を貸した罪悪感に苛まれるようになり、悪夢を見るようになる。

 

なお、トルーマンが「泣き虫を二度とここに連れてくるな」と言い放つセリフがあるが、これは実際に国務長官に宛てたメモの中で、オッペンハイマーを形容するのに使った言葉と言われている。

1947年〜1949年

ストローズの要請で、オッペンハイマーはアメリカ原子力委員会の顧問として迎えられる。これは1946年に設立された、原子力技術の研究と利用を目的とする独立行政機関。このときオッペンハイマーとアインシュタインが庭で交わした内容が、「自分を中傷したものではないか」とストローズから疑念を向けられてしまう(実際にはストローズについては話をしておらず、核軍拡競争という連鎖反応に加担してしまったことに対する悔恨だった)。

ソ連が原爆実験に成功すると、ストローズは水爆の開発を強硬に主張するが、オッペンハイマーはそれに反対。二人の対立は決定的なものとなる。

1954年

ストローズは、オッペンハイマーの社会的地位を抹殺しようと画策。安全保障に関する公聴会を開き、彼が共産主義者と繋がりがあったことをつまびらかにして、公職から追放することに成功する。

1954年は、反共時代の真っ只中。彼は国家安全保障を脅かす存在として非難されたのだ。

1959年

ストローズが商務長官に任命されるための指名公聴会で、物理学者のヒル博士(ラミ・マレック)が、オッペンハイマーの失脚を画策したのはストローズ本人であることを暴露。指名は否決される。

ちなみにクリストファー・ノーランは、1000ページにも及ぶ公聴会の記録をしらみつぶしに調べて、ヒル博士の証言を知ったのだという。

1963年

ジョンソン大統領からエンリコ・フェルミ賞を贈られるオッペンハイマー。夫に対して敵対する立場をとった者に対し、あからさまに侮蔑の表情をみせるキティ=エミリー・ブラントの顔面芝居が凄まじい。

オッペンハイマーは、「自分たちが、核軍拡競争という連鎖反応(チェーン・リアクション)を始めてしまった」という悔恨を表明する。

 

「原爆投下」という戦争犯罪を覆い隠し、アメリカ人を「原爆肯定派」に変えてしまったトルーマン大統領のラジオ演説

トルーマン演説に追加された一言が「原爆投下が戦争を終結させた」という物語を作った
このビデオをご覧ください。

 

このビデオの中で次のような事実が明らかにされています。
〇原爆開発責任者グローブス准将の主導で原爆計画が暴走した
〇ルーズベルト急死により、あとを継いだトルーマンは、原爆計画を何も知らずに大統領になった
〇グローブスは京都に1発目を落とし、全部で19発を次々に落とす予定だった
〇日本の敗北は時間の問題だったので、戦争が終わらないうちに、22億ドルもの予算をつぎこんだ原爆の効果を証明しなければ議会で追及されることを恐れ、原爆投下を急いだ。
〇「一般市民を大量虐殺し、ヒトラーより残虐」という汚名を着せられないため、長崎への原爆投下後のトルーマンのラジオ演説に「多くのアメリカ人の命を救うため原爆を投下した」という文言を急きょ追加し、「原爆投下は正しい決断だった」という物語を生み出した。
〇その結果、原爆の残虐な実態は世界に知らされず、アメリカは核開発の道を突き進んだ

など、重要な事実が明らかにされています。

 

 

 

日本でも敗戦から8年間、原爆の真実は隠されていた。学生の「原爆展」がなければ、今も原爆の真実が隠され続けていたかも知れない

 

 

アメリカでは国内向けに Duck and Cover(身をかがめて両手で頭を覆い隠す)という宣伝動画をテレビで流し、原爆は大した爆弾ではない、ちょっと身を隠せば大丈夫、というでたらめなキャンペーンを行っていた。そうして自らの戦争犯罪を隠そうとしていた。

ところが、朝日新聞に鳩山一郎のインタビュー記事が載り、その中で鳩山が「原子爆弾や無辜(むこ)の国民殺傷は国際法違反の戦争犯罪」と語ったためGHQ(アメリカ占領軍)は激怒し、朝日新聞を2日間発行停止にした。

以後、厳しい「事前検閲」とPress Code(報道統制)が行なわれるようになる。

1948年事前検閲は廃止になるが、Press Code(報道統制)は続き、メディアは「発行停止処分」を恐れ、「自主検閲」により、自分で自分の首をしめるようになった。

 

(原爆に関連した過去の投稿は、こちらでご覧になれます)

 

 

 

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