(戦前の外交官、織田寅之助さんのお孫さん、伏木宏奈さんの特別寄稿です。)

 

習志野といえば、第一次世界大戦当時に、ドイツ人俘虜収容所において日本で初めてドイツ式ソーセージの製造法が伝えられたエピソードが有名である。

こんな身近にドイツと日本の関係を感じさせる土地があったことも驚いたが、30歳を超えてから、私の親族(といっても祖父であるが)にもドイツと関りがあることが分かったことも大変驚いた。

 

私の祖父は織田寅之助といい、外交官であった。第二次世界大戦中はドイツにいた。

東プロイセンのケーニヒスベルクという、今ではもう失われた歴史の深い都市にいた。

ユダヤ人たちにビザを発行した杉原千畝も、ほんの少しの期間であるが、ケーニヒスベルクに赴任していた。祖父はその後任者だったのだ。

 私は祖父のことを調べ始め、杉原千畝研究会にお世話になった。

以下は杉原千畝研究会が発行した「せんぽ」に掲載された文章である。

興味がある方は、読んでもらえたら嬉しい。

 

激戦下のケーニヒスベルク 伏木宏奈

出典:伏木宏奈「激戦下のケーニヒスベルク」『せんぽ』杉原千畝研究会、2017年

 

 

 きっかけは、2015年冬公開の「杉原千畝」の映画だった。

 家でテレビを見ていたら予告で「ケーニヒスベルク」という地名が出てきて「あれっ」と思った。その昔、私の祖父、織田寅之助が外交官としてヨーロッパ各地に赴任し、ポーランド、スイス、ケーニヒスベルクに在勤していたということを、寅之助の娘である母から聞かされていたからだった。

 早速、母と父を誘って映画館に足を運んだ。映画を観ながら、ナチスの脅威と杉原千畝の偉大さ、そして知識では知っていても平和な時代に生まれた私には、到底共感できそうもない強烈な戦争の残虐性などを垣間見せられた思いがした。しかし、映画に圧倒されながらも、杉原千畝を取り巻く人びとの中に祖父がいるような気がしてならなかった。

 祖父は外交官であったが、同時に画家でもあった。各地を廻ってはその土地の絵を描いていたらしく、家には祖父の絵が多く残されている。私は家にある絵を普段から眺めていたので、画家としての祖父の印象が強く、外交官としての祖父のことはあまり知らなかった。そのため確証はなかったが、映画を観ながら杉原千畝と同時代を生きたのではないかと思った。

 その後、「あなたの祖父は自分の手記を投稿したのよ」と母から1冊の雑誌を渡された。昭和31年発行の『文藝春秋』だった。

 1941年3月、杉原はドイツとソ連の動向を探る目的で、ケーニヒスベルクに日本総領事館を開設した。祖父が残した手帳によると、南米ペルーのリマに赴任していた祖父は、杉原の後任としてケーニヒスベルク勤務を命じられたため、95日間の長旅を経て、同年12月1日に当地に到着。早速、杉原千畝と他2名とホテルで夕食をとりながら打ち合わせをしたとある。しかし3週間後には杉原はブカレストへ。他の2名も転属となり、祖父は寂しい思いをしたようである。

 その後、当地において独ソの戦況が激化したため、祖父は1944年秋にいったんはベルリンに避難したものの、同僚の要請によって翌年1月、再度ケーニヒスベルクに戻ったという。

 『文藝春秋』に投稿した「ケーニヒスベルク籠城記」と題した手記には、当時の状況が、次のように書き残されている。

 「ケーニヒスベルクの市中は、予想以上に切迫していて、東プロシアの各方面から後退してきたドイツ軍や、戦車、軍用車、機関銃などが街々に溢れ、その間を市民が右往左往している。全くの混乱状態であった。翌朝になると情勢は急転直下悪化して、ソ連軍はもう30キロに迫り、戦車は更に進撃して、飛行機は完全に砲撃の目標になって空路の連絡は絶たれてしまった。

 迫りくるソ連軍に対してケーニヒスベルク要塞宣言を出したドイツ軍はベルリン陥落までは当地を死守しようとした。そんな中で、ソ連側によって空路、海路、陸路を絶たれた祖父は、ベルリンへの逃避を諦め、この街に留まることを決心したようであった。

 手記には、日々のドイツ兵とのやりとり、連日のソ連軍の爆撃などが克明に描かれており、読み進めていくと祖父が歴史の激動の渦の中にいたことがよくわかる。

 中でも、「街を歩いていたら、突然キーンと来た。思わず地面に腹這いになった瞬間、10メートルほど先で炸裂した。頭を上げて見ると、それまで私の前方を歩いていた男の姿が見えない」と爆撃によって人間が跡かたもなく消えたという描写には恐怖を覚える。

 祖父は危機一髪で助かったものの、戦争とはこういうことが日常に溶け込むものなのか、と読んでいて背筋が凍った。

 

 「市の周辺に並んだ幾百門とも知れぬソ連軍自慢のカチューシャ自動砲が一斉に火蓋を切る。(中略)明日はどんな格好で私は死んでいるかも判らない。いつ死んでも良いように私は衣類を新しいものに換えて、靴もはいたまま寝台に横たわった。もう完全に明日の死を覚悟していた」(手記)

 

 ケーニヒスベルクがソ連に陥落すると、間もなくソ連兵が総領事館に現れた。両手に拳銃を構えたソ連兵に向って緊張の中にも顔を和らげて「日本とソ連は戦争をしてないだろう。中立じゃないか。だから友達だろう」と日ソ中立条約の内容を理解させ、日本の外交官であることを一生懸命説明したという。

 ソ連兵は、日ソ中立条約を理解したのかどうか分からなかったが、条約締結の立役者の松岡洋右のことは覚えていたようで、「おまえはマツオカか?」と尋ねてきた。「そうだ、松岡と同じような仕事をする者だ」と答えると、すっかり安心したそうである。

 ソ連兵との接触が無事済んだ後の4月14日、ロシア語の道標に変わった街を通り抜け、祖父は輸送機に乗せられてモスクワまで飛び、満州経由で日本に帰ることができた。

 ケーニヒスベルクを飛び立つ輸送機の窓から街を見下ろして「これが敗戦の姿であり、ドイツの運命か、と、目頭が熱くなった」という文章で、手記を締め括くっている。

 ポーランドには留学先の頃から長く滞在し、第二の故郷だというほどポーランドを愛し、ドイツにも親しんだ祖父にとって、焼け野原となったケーニヒスベルクの街を上空から見たときの心境は、いかばかりであっただろう。

 祖父は終戦後、外交官を退職している。敗戦後の外務省の人員整理にあい、また、サンフランシスコ条約締結後の外務省への復帰もままならなかったが、本当はもっと国のために役立ちたかったのだ、と母から聞いている。

 絵の他にもラジオ出演、バイオリン演奏等、多彩な趣味をもち、7カ国語を話すことができたという祖父だったが、昭和35年に57歳という若さで亡くなっている。私が生まれる約20年も前のことで会う機会もなかったが、祖父が描いた絵を眺め、書き残した書物を読んでいると、いつもそこに祖父がいるような不思議な気分になる。

 昨年、横浜市立歴史博物館で開催され「寿福滋・杉原千畝写真展」のフロアレクチャーを聴講した日、祖父がケーニヒスベルク総領事館入口の前で写っている写真を持参した。寿福さんの講演の中で発表された杉原ファミリーの写真と場所が一致し、その場にいた人たちも驚いた。二つの写真を見比べながら「この写真は大切にしてください」と寿福さんに言ってもらえた。この一言は私と母にとって、嬉しい言葉だった。

 私は、杉原と祖父が同じ場所で写っている写真を皮切りに、自分なりに調べを進めている折、祖父の「日記」や「手記」が母の許で見つかり、2人の接点を見出すことができた。杉原より2歳年下の祖父は、独ソ戦下のケーニヒスベルクで、杉原とどんな会話や打ち合わせをしたのだろうか。

 少しずつではあるが、祖父の足跡を追うことによって、会うことができなかった祖父を、今はとても身近に感じている。

 杉原千畝も私の祖父も、激動の時代を生きた外交官であり、日本を外側から見つめ、世界の流れを冷静に見てきた人たちなのだと思う。

 近年、テロなどによる世界情勢の悪化がニュースをにぎわせているが、当時から国際的視野を持っていた彼らは天国から見て、今の日本を、ひいては世界をどのように思っているだろうか。

 

(編集部注)

① 織田寅之助さんについて、日本でのウクライナ問題の第一人者、岡部芳彦さんが論文を書いています。(神戸学院大学出版会「日本・ウクライナ交流史1937-1953年」所収)

https://researchmap.jp/okabeyoshihiko/misc/33974304/attachment_file.pdf

 

② ケーニヒスベルク(Königsberg)、現在はロシアの飛地領、カリーニングラード(Калининград)となっています。哲学者カントの出身地であり、作曲家ワーグナーが住んでいた土地でもあります。

③ アジア歴史資料センター https://www.jacar.go.jp/

のレファレンスコード「B02032392900」で織田総領事から重光外相に報告した文書「5.ウクライナに於てドイツ軍捕虜になった日本人関係」が見られます

(5) ウクライナに於てドイツ軍捕虜になつた日本人関係 昭和拾九年六月拾七日接受 機客第七号 昭和十九年四月一日 在ケーニヒスベルグ 総領事代理 織田寅之助 外務大臣重光葵殿 「ウクライナ」ニ於テ独逸軍ノ捕虜トナリタル日本人ノ身元調査依頼ノ件 昭和十七年六月独逸軍番局カ番館ニ引渡セル高島「ヨグヅ」ナル者ニ関シテハ同年七月七まま附在独大使宛拙信機密第六号ヲ以テ報告致シ置キタルガ其後同人ハ引続キ当地「シーハウ」チ場ニ勤務シ店リ爾来二ケ年本官ニ於テ親シク同人ヲ保護シ其行動ヲ注視シ来レル処同人ハ性質実直ニシテ日本人トシテノ体面ヲ顧虜シツ、行動シ店ルセニ見受ケラレ勤務チ場ニ於テモ厚遇サレ店リ戦後ハ帰朝ラ定職

 

この文書の『高島「ヨグヅ」』は『高島與五蔵』さん。①の岡部芳彦さんの論文の中に、この人物に関する記述や写真が掲載されています。

 

 

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