実存としての遊女

 

遊女には4つの側面がある

花魁、少女二人は禿(かむろ)。花魁の雑用係をしながら遊女見習い

実在としての遊女

遊女は、数々の教養や才能を身に着け、客と対等に渡り合ったが、自己を顧みれば、たとえ太夫(=花魁:おいらん。一番位の高い遊女)であっても、悲惨な売春婦に過ぎず、手練手管で客をつなぎとめておかなければ、たちまち堕ちていく存在。太夫が遊客を扱う方法が書かれている奥村三四郎の「秘伝書」では、遊女には4つの側面があるという。

 

①    手練手管で遊客の心を繋ぎ止める

遊女は太夫(花魁)でも、何も知らない年齢で遊郭に売られ、15,16歳で男から恋い慕われるための作法が叩き込まれる。

「初対面のときの膳はさもしく思われるので喜んではいけない」、
「むさむさと食べてはいけない」。
「夜に寝るときは、自然に男に近づき、浮き浮きとして話をし、どのようなことも喜んで受け入れる」。
「ウソで気を引くときは、ミョウバンをつかえば涙が出る」。
「(客が)若衆なら大人の男を謗り、年配のときは若衆をそしる」。
「元日の書初めで「当年中の誓文はみな嘘」と書いておけばその年の誓文は空起請になる」。

 

こんなのを身につけさせる。早熟になるねぇ。現代の少女にもいえるけど、こんな手練手管で男は騙せたとしても、自分は騙せない。西鶴の「好色一代男」も「好色一代女」も、孤独になり「死なれぬ切なさ」を味わう。

 

②    借金を負う身である⇒性の搾取は、幕府がらみの金融システムに組み込まれていた

遊郭の遊女は借りたお金を労働で支払う。父親が前借金と引き換えに娘を売り、娘がその借金(+利子)を年季奉公というセックスワークで支払うというしくみ。ヨーロッパでは個人が自分で売春をする。日本では美談として7~10歳で家族を助けるために売られていくのである。

借金を支払うまではとらわれの身。幕府は人身売買を禁じていたが、遊女として売られるのは、遊女奉公証文で雇われるという形態をとったために問題にしなかった。

幕府は金銭の貸借には一切関与しなかったが、例外として、有力寺社、皇族、摂関家、御三家などが貸し付けを行う場合は、公金貸付同様の債権保護(「名目金(みょうもくきん)貸付」)をしたため、全国の豪商、豪農が寺社や大名の名前を借りて余財を遊女屋に貸し付けることが横行した。

吉原の遊女の性の搾取は、このような幕府がらみの金融システムに深く組み込まれていた。

明治になっても、公設、準公設の売買春は政府の重要な収入源で、東京府の金銭収入の12%は遊女屋の上納金であった。

 

③    遊女自身が罪業深い身だと考えている

遊女は、自ら遊女を選択したのではないが、仕事は身の上も知らない男たちに床を同じくし、客を騙すことのみ考えている罪深い人間だと自責の念で生きている。

世間は遊女をさほど卑下しなかったが、遊女自身は自分の生き方に苛まれている。

明治になると、公認ではなく遊女個人の自営業という位置づけになったため、自ら性を売る淫らでいかがわしい女として、社会の裏側に追いやられるようになった。

 

樋口一葉は、父がもとは甲斐の貧しい農民だったが、江戸に出て八丁堀同心の株を買い直参(じきさん)の武士になった身分。父は幕府の瓦解とともに野心も矜持も奪われ、亡くなる。一葉は17歳で貧困家庭を支え、辛酸をなめる。小説は「名誉のための著作ならず。弟妹父母に衣食させんが故なり」(師・半井桃水)だったが、占師から援助の代償として肉体を求められたとき、貧困から吉原に身を売った女や酌婦たちが身近にいた。 同じ運命にあったのである。

 

「にごりえ」のお力、「たけくらべ」の美登利、結婚という売春をしいられた「十三夜」のお関、「大つごもり」のお峯…。一葉の作品は遊廓を直接描かずとも、女性の置かれた環境と自責の念とそれを突破しようとする女性の意志が描かれる。

「たけくらべ」の美登利は遊女を運命づけられた少女であるが、任侠的な自己犠牲精神をふるい、「これ、お前がたは三ちゃんに何の咎(とが)がある、正太さんは居ぬでは無いか、此処は私が遊び処、お前がたに指でもさゝしはせぬ、ゑゝ憎らしい長吉め、三ちゃんを何故ぶつ、あれ又引きたほした、意趣があらば私をお撃ち、相手には私がなる…」。すごいね。被害者、加害者のだれも排除せず、友愛で結びつけようとする。

 

 

樋口一葉が五千円札の肖像に選ばれたとき、一生極貧で、25歳で夭折、悲哀なだけの女性をどうして国家のお札になんかにと思ったが、次(2024年)は津田梅子らしい。日本と海外の女性の扱いを身をもって体験した津田梅子の前に、ジェンダーを乗り越えようとした樋口一葉がたしかにいたのだと、このバトンタッチに妙に納得した。津田梅子の次は一万円札を女性の肖像に。往年の山川菊枝なんか、どうだ?

 

新旧五千円紙幣とkoki推しの次回1万円札肖像候補・山川菊枝(1890~1980)

 

山川菊枝

評論家・婦人運動家。東京の生まれ。山川均と結婚。伊藤野枝らと赤瀾会(せきらんかい)を結成、社会主義の立場から婦人解放運動に活躍。第二次大戦後、初代の労働省婦人少年局局長。

 

身体は遊女屋に拘束されているが、心は遊女自身のもので、自分次第と考えている。

心は自由であるから、嫌な男だったら振ってもいい。酔ったふりをして寝てしまうのもいい。しかし、尽くしてくれる男は邪険にしないのが情けあるふるまいだという。ただひとりの思いつめる客との純愛は生き甲斐であり、そういう相手のことを「間夫:まぶ」といい、その男につくすことを「間夫狂い」といった。歌舞伎「助六」の遊女揚巻:あげまきの「間夫がなければ女郎は闇」という名セリフ、たまらない。配信で見られる。

 

歌舞伎オンデマンド「助六由縁江戸桜」 助六・第12代市川団十郎、揚巻・坂東玉三郎

元禄時代に上方で起きた侠客・万屋助六(よろずやすけろく)と遊女・揚巻(あげまき)の心中事件を題材にした作品。「揚げ(油揚げのいなり寿司)」と「巻き(海苔巻き)」が入ったお寿司は今でも「助六寿司」なんて呼ばれています。

 

井原西鶴の「好色一代男」の世之介は、男が遊女の境遇を理解し、同情してくれることを「わけ知り」といい、金で購入された恋愛も「まことの心」になると、トップ花魁の吉野太夫が身分の低い小刀鍛冶の男の一途な思いをかなえて相手をしたことを知って、世之介は「それこそ女郎の本意なれ。我見捨てじ」と吉野太夫をにわかに身請けするのである。

江戸の庶民に「まことの心」に基づく近代的な恋愛意識があり、それが一種の美意識として存在していたのが吉原だとすれば、遊女に心中が多く、庶民が芝居や本を通じて熱狂的に支持した江戸の遊女文化というのはぶっ飛んでるね。私は吉原を虚構の楽園とどうしても見捨てることができない。

同時代、武士は「武士道とは死ぬことと見つけたり」(山本常朝「葉隠」)。この爺臭く説教じみた世渡り本のなかで「恋というものの究極は忍ぶ恋である。生きている内に恋していると告げるのは本当の恋ではない。相手より「私を好きですか?」と問われても、「まったくそんなことはありません」などと言って、思って死ぬような恋が究極なのだ」(葉隠聞書2-33 あんまりバカ臭いので現代語訳にしました)

恋はまことの心と美意識なんだよ。死ぬことを忘れた武士にはわかるまい。

 

吉原遊郭のシステム

●新吉原俯瞰図

幕府公認の遊郭である新吉原は、畑の中に人工的に作られた276m×351mの四角い町で、まわり幅9mほどの水路(お歯黒どぶ)に囲まれており、高い塀で張り巡らされて、遊女の逃亡を拒んでいる。このなかに3千人~5千人の遊女が抱えられていた。出入口は冠木門(横木を渡した門、通称吉原大門(おおもん)だけで、門の左脇には与力や同心が控える「面番所」、右脇には「四郎兵衛会書」という番人小屋があって、喧嘩や犯罪をとりしまる。

明治5年の吉原大門(冠木門・かぶらきもん)

吉原へのアクセスは3ルートあり、陸路を駕篭かテクテク歩く。いちばん粋なのは、高速タクシーの猪牙船(ちょきぶね)を仕立てて、日本堤で下船して、土手から門まで下っていくコース。お大尽さんは夕ぐれの風景のなかを船で通うのよ。

 

では、花のお江戸の吉原。夜の部(暮れ六ツ・午後6時から)にご案内しましょう。

遊郭は、多数の遊女屋が集まって営業しており、日に千両(約1億3000万)の金が動き、遊女3千人は幕府公認。今でいえば、ただの風俗街ではなく、社交場。バブル期の銀座か赤坂みたいな?

大名、旗本、豪商、両替商(札差)など権勢を誇った階級の遊興の舞台。「幕府の廓(くるわ)」と呼ばれていた。

 

でも、ゼニがない下層庶民にも開かれて、だれでもただで見物できるのがすごいところ。格子越しに遊女が並ぶ「張見世・はりみせ」や花魁道中。お花見、月見に花火、雪見などの行楽…。ディズニーランドみたいな夢の世界だっただろうね。落語で長屋の住人が「ちょいと吉原へ」というのは、ただの冷やかし。明日への労働の活力。

 

吉原遊び

絵で順番に紹介しましょう。遊郭に出かけたつもりで見てください。

船で吉原へ

●船からお歯黒どぶに入り、船宿へ

仲通りに張り出しているのは仲介をする「茶屋」(引手茶屋)。膨らんだ財布は茶屋に預ける。

常連は茶屋まで花魁がお迎えに(花魁道中)

●「張見世」茶屋を通さない客は直接遊女屋でお見立て。

●ひやかし(素見)も多かったのよ。画・葛飾応為(北斎の娘)

「ひやかし」も江戸時代、吉原遊郭生まれの言葉。
吉原近くの隅田川で和紙の原料(楮:こうぞ)を冷やしている間、職人達は暇つぶしに吉原に遊女を見に行きました。
彼らは実際に遊ぶわけではなく、見て回るだけ。その様子を遊郭の人達が「冷やかしてるんだよ」と揶揄したことから、この言葉は生まれました。

 

見世で見立ててから金額の交渉をし、2階の座敷に通される。これは大部屋。囲っただけで声はつつぬけ。にぎやかさを競っていた。

午前2時 拍子木鳴り響き、床入りの時間

 

●花魁とお客との情交 実際はかんざしは外した。「床上手」は訓練の賜物。

 

●後朝(きぬぎぬ)の別れ 遊女は客の目覚めとともに目覚め、帰り支度を手伝い、お見送り。

 

紋日という集客システム

 

主な原の年中行事

吉原では、客寄せイベントも兼ねた年中行事があった。吉原特有の「紋日(もんび)」は、祝祭日を意味する物日:ものびから名づけられたが、最初は元旦や五節句、盆、十五夜、などの季節イベントだけだったが、時代が経るにしたがって、毎月1・15・17・28日、さらには次第に増え、享保年間には年間90日にもなった。紋日には、遊女は盛装し、普段の倍の揚代を取った。その上に祝儀や遊女の衣装代も払わされた。馴染みの客を狙い撃ちした露骨な儲け主義。遊女は客がつかなければ倍の揚代を自己負担し、紋日はうとまれていた。

後に客足を遠ざかせる要因になり、寛政の改革で年間18日に減らされた。サービスディなら理解できるが、馴染みの懐を痛ませるイベントって、何なのさ?

吉原の華やかな年中行事、絵がたくさん残されている。選ぶのに困ったけれど、3大年中行事(吉原三景容)をご紹介。

春の夜桜

●お盆の玉菊灯篭(たまきくとうろう)

●俄(にわか・芝居や踊りのパレード)

 

遊女のギャラ

客が払う利用料。一晩で花魁なら指名料(揚代)12万、その他、酒宴、芸者、幇間(ほうかん:たいこもち)、ご祝儀(総花)、床花(花魁へのチップ)…。軽く一人500万は下らない。それでも花魁が一晩中付き合ってくれるわけではない。花魁はたいてい「廻し」といって一晩で複数の客をとった。戻ってくるかは花魁次第。

吉原のすごいところは、遊びとはいえ、どれだけ金と権勢があろうと、「好色一代男」であろうと、客が従うべきルール(しきたり)は厳然としてあり、花魁が主導する。カスタマーハラスメントはできない、やらない。お客への制裁(リンチ)もあった

桶ふせ お金がないのに性的なサービスを受けると見せしめの制裁。路上で晒しもの。家族がお金を持ってくるまで何日でも外にでられない。排尿排便はこの場所で。食事は花魁が届けてくれる(かも?)

●お客が浮気(ダブルブッキング)をすると、髷を切られ、お化粧や女物の着物を着せられて晒し者にされた。

 

遊女人生

江戸中期になると、遊女の供給先は身分の低い農民の娘が女衒(ぜげん:遊女にするため女性を売買する商売)に買われ、7~8歳(少なくとも10歳まで)で吉原に奉公に上がる。まずは禿(かむろ)として、しきたりやしつけを厳しくたたみこまれ、読み書き、一般教養一通りを習い、遣手(やりて)はこれはという者を先輩遊女につかせ(引き込み禿)、13,14歳で振袖新造、17歳頃まで客は取らず、花魁の雑用をこなしながら技芸の見習い。

吉原が成立した頃は、遊女は所領替えで困窮した武士の子女が多く、そのためか、遊女は誇り高く、教養や技芸を身に着け、ふるまいも洗練されていた。それが遊女の原初のロールモデル。田舎育ちの少女には新鮮な毎日だったかも? 教育や訓練は身分の差はない。しかし、生活力が身に付くわけではないので、廓育ちは年季が明けても再び、遊女の生活に戻るしかないことも多かった。

 

吉原遊女の階級 花魁(太夫)は格上で規模の大きい「大見世」しかいなかった。

初めての客を取るのが水揚(みずあげ)で、怖がらせないように手慣れた年配の客が相手をする。そしていよいよ「突き出し」というデビュー。妓楼は500両近くの金をかけて妓楼あげての儀式。これで花魁に昇格して、座敷を与えられる。これから10年の年季奉公。トップ花魁(お職)を目指します。

花魁の年収は、推定1億3000万ほど。でも、必要経費などの出費も多い。同じ水商売もバブル期の銀座高給クラブのやり手ママは2億、3億なんて噂があったから、花魁は楽じゃない。

出世コースをはずれ、花魁になれなかったり10歳以上で入った女性は、15歳で「留袖新造」として客をとる、一生下級遊女。大部屋で食事もろくになく、客の残したものは大ご馳走で、翌日食べる。他の妓楼に売られ(鞍替え)たり、病気で亡くなる確率も高かった。年季明けまで生きられなかった遊女も多く、平均寿命は20代前半だという。10歳で売られ、20歳で死ぬ。

遊女は、揚げ代(料金)や時間によって細かくランクづけられ、「吉原細見」というガイドブックで年2回発表された。吉原の地図、茶屋のリスト、遊女の名前や位付、揚代が載っていて、江戸市内全域で売られていた。

 

吉原細見の1ページ 

一人前になり苦行10年、平均26~27歳で年季明けになる。万が一、馴染み客に身請けされればもっと早い。身請金の相場は5000万円~ほど。実家に帰ることはほぼない。年季明けの先の人生は闇。

 

2009年のTVドラマ「仁」。花魁野風を演じた中谷美紀。花魁の年季奉公後の人生も描かれる。

 

国立歴史民俗博物館展示「遊女小雛の日記による1か月の食生活」食事は朝夕2回。客とだんな(遊女屋の主人、楼主)から日常的な暴力(仕置)もふるわれていた。

●折檻は、後ろ手に縛り、梁から吊るし、食事も与えず何日もそのままにしておいた。

●遊女桜木の日記「おぼへ長」

遊女たちは、栄養が十分でない時代に24時間3交代制、入れ替えなし、ほとんど休みなしに働かされ、商売柄悪い病気、梅毒にかかると、妊娠しにくくなり、やせて色も白くなるので、プロの遊女の通り道と言われたが、暗い行燈部屋に置いておかれただけで、命を落とす遊女も多かった。店に出られないことにより、病気でも揚代を負担させられて借金となり、年季は延びた。

楼主(忘八)とお内儀の図

女所帯の遊女屋は、当時「忘八」と呼ばれた楼主が経営していた。禿から花魁まですべて商売物として厳しく当たることから、人として守るべき「仁義礼智忠信孝梯」という8つの徳目を忘れた人でなしという意味である。教養のある花魁が名づけたか? 遊女屋のなかの権力は絶対。忘八に人権感覚はない。

 

折檻や搾取する者も多かったなかで、遊女を大切にした若松屋藤衛門という妓楼の主人もいた。1日の売り上げが3両になれば、遊女が(張見世に)並んでいても、見世じまいする。また3両に達しなくても夜10時閉店。衣装は呉服屋に注文をつけ、遊女が借金をしないようにした。火事になれば、寺に避難させる際、父の自宅内を通り抜けさせて、父は途中、お茶や水を与えて落ち着かせた。遊女の両親に金が必要なら、貸して少しずつ返済させたが、年季は延期せず、年季の期間を超すと、残金はチャラにしたという。

 

忘八の手下で遊女屋を取り仕切り、目を光らせていたのが「遣手(やりて)」。年季が明けても吉原に残り、もう色は売らず、客の祝儀などを収入にしていた。(だから、遣らず(手に)もらう) この業突く張りは、年季明けでも働きグチもない女性のキャリアを生かした仕事でもあるけど。2階の上がり口で、遊女にも客にも目を光らせていたので、別名「香車:きょうしゃ」(将棋の「香車」は動ける範囲が多いことからついた名)。客扱いが悪い、客がつかないと食事をさせず、殴る蹴るの暴力(男の使用人にやらせる)も日常茶飯事。遊女たちの気を引き締め、喧嘩の仲裁をしたりすることもあったけど、怖がらせてナンボのこんな存在いやだな。ババアと言われていても実年齢は40くらい。遣りて婆は、働けなくなると放逐されて、その後は闇の中。

 

●歌舞伎「助六由縁江戸桜」遣手お辰(市川右之助)

遊女が亡くなっても引き取りに来る者はない。楼主は、遊女を丸裸にして布でくるみ、裏のお歯黒どぶから日本堤に運び、駕篭で三ノ輪の投込み寺(浄閑寺)へ運んで、決められた共同穴に投げ込んだ。回向(えこう)供養を一切行わず、無縁仏で、過去帳には「○〇売女」、「〇〇遊女」と書かれた。最年少が15歳、最高齢が40歳で平均22.7歳である。遊女の産んだ子も葬られており、ほとんどが水子。遊女が妊娠すると堕胎させられるが、間引きだった可能性もある。安政大地震(1855年)では、吉原の死者千人のうち半分が遊女であった。楼主が逃亡を恐れ、土蔵などに監禁したまま、家財道具を運びだしている間に焼死した。

 

東京都荒川区 浄閑寺山門 吉原遊女に関する史跡が多く残っている

●新吉原総霊塔 遊女の遺体は穴に投げ込まれ、一杯になると供養塔に再葬された。「生まれては苦界、死しては浄閑寺」(花又花酔)の句が彫ってある。この寺に投げ込まれた遊女は300年で2万数千人。

 

 

非公認の四宿と岡場所の隆盛

江戸時代には、吉原以外にも、非公認の遊女屋が集まる地域があった。諸国から江戸への入口の宿場、品川、内藤新宿、板橋、千住の「四宿」半ば公認のもの、そして非公認の岡場所が160か所以上。吉原とあわせると、江戸末期で遊女は5700人ほど。女性70人に1人の割合。世界屈指の大都市の江戸は、屈指の売春都市だった。

 

岡場所は、江戸市中に200か所を数え、遊女は数千人。禁止された違法営業で、町奉行の支配を逃れるために、寺社地や門前町に集まることが多く、深川(富岡八幡宮)、根津(根津権現)、本所(回向院)、芝(増上寺)が有名。町奉行が一斉取り締まりをすると店は撤去され、遊女は吉原に送られて「奴女郎:やっこじょろう」として過酷な年季奉公を強要された。しかし、何度禁止されても役人は賄賂で手心を加え、黙認状態であった。

隅田川の東岸には深川七場所というわれる一大岡場所ができ、「芸は売っても身は売らない」と気っ風(きっぷ)が売りの深川芸者、辰巳芸者で有名になり、戦後の赤線廃止まで繁盛した。

 

●深川七場所 大川(隅田川)沿いにあり、開放的で人気があった。

 

●深川羽織芸者 色ではなく、芸と気っぷの良さを売りにした。

吉原以外は違法営業とはいえ、吉原のように客を選ばず、何よりも安く遊べるのが魅力で、庶民に人気があった。時代は商人層の隆盛期が過ぎ、大量生産、大量消費と競争で、富裕層は遊女と形式ばって教養の共有をするようなゆとりがなくなり、吉原は太夫がいなくなり、斜陽の時代に突入する。

 

宿場には飯盛旅籠(めしもりはたご)があり、表向きは旅館だが、中には張見世まで備えた芸妓楼と呼べる旅籠もあった。揚代は6000円~2000円台と吉原と比べると超格安で幕府は1668年に大掛かりな「隠売女取り締まり」を行って、捕えた者を吉原に送り込んだりしたが、焼石に水状態で非合法の娼婦はどんどん増えていく。政府は許可制の「飯盛下女奉公人」制度をつくり、宿が町人の親を身元引受人として6歳から24歳(多いのは16歳から20歳)で3年から10年以上の年季奉公を条件に前借金を渡した。この契約は、奉公先の場所と奉公内容を問わない。年功途中で死んだら、処理は親…など、奴隷売買に近い。この身売り金の一部は「冥加金(みょうがきん)」(許可する対価)として幕府の収入になった。吉原も公認の対価として冥加金を払った。江戸幕府は女性の人身売買など意に介さない。公的輸送を担う宿場の保護政策のひとつとして、宿場に遊女はつきものという考え。藩も真似をして、全国各地に廓と宿場がセットで存在していた。

 

流しの娼婦

その他、さまざまな営業形態の娼婦たちがいた。

画像上●船饅頭・ふなまんじゅう河岸で誘った客を小舟に引き入れ、舟を出して戻るまで筵の下で用を済ませる。夜鷹より舟と船頭の手間賃だけ高め。 720円 

左下●子連れの比丘尼 出張サービス。デリヘルのルーツだね。

右下●夜鷹(よたか) 頭から手拭をかぶって顔を隠し、筵を手に道行く男たちを誘って土手下の茂みで営業する。私娼は捕えられ、吉原に送られる決まりだが、生活困窮の女性が個人的に行うものとして黙認されていた。多い時には一晩で4000人もの夜鷹が出没し、元締めの夜鷹屋ができ、着物や小道具はレンタルで、縄張りもあった。120~400円。夜鷹は顔をかくせることから、年配女性が多かった。蕎麦(そば)一杯の値段で女性が買える。

 

今の日本も立ちんぼ(街娼)に高齢女性が増えているという。日本で当たり前にある男女賃金差別や年齢差別(エイジズム)。シングルでずっと働き、主婦にならなかった女は、若い時から国家ぐるみでさんざん差別しておいて、高齢になったら、自助努力の蕎麦一杯。ふざけるな!この国の女性の性は便所か? 

 

次回は、江戸時代の女性のあこがれの職業№1,大奥女中について取り上げます。私は、将軍なんてなんにもしなくていい、存在価値は何もしなかったことと思っている人なので、大奥の後宮ゴシップにはなんにも興味ないんだけど、大奥で働いていた女中については知りたい。(koki)

 

これまでの投稿は、以下でご覧になれます。

 

(Narashino gender1~41)

 

(Narashino gender42~)


 

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