吉原のディープな世界

●小田原愛「東京貧困女子」小学館 

この漫画は、中村敦彦さんというルポライターの原作で、オンラインサイトで連載配信し、1億2000万PV超えの人気、ビッグコミックスの紙版でも現在83巻。女性の貧困がテーマで、女子学生、派遣OL、シングルマザーの現実の絶望が描かれている。他人事とは思えない。まず女性に読んでもらいたけど、男性も「関係ない」と言わず、読んでほしい。

 

今回から吉原について書きます。江戸時代の町人の女性の仕事についての続きで、遊女というセックスワークについて江戸ではどうだったのか?

吉原遊郭におけるジェンダーから見ての問題点、kokiが書かなくてもみなさんおわかりでしょう。こんな場所も制度も過去だけでなく、現代・未来も決して認めてはいけないと、kokiは思っています。

 

左上から右下 吉原の明治から現在 NHKの「ブラタモリ」でやってほしかったなぁ。

女性の貧困・差別・性風俗

女性は男性と身体が異なるだけで、商品として売られてきた。同じ人間なのに。江戸幕府は人身売買は禁止したが、遊郭建設は許可し、公認した。女性が吉原に売られるということは、女性自身の選択ではない。江戸時代、貧しい農民や町民は家族が生きていくためにまだ10歳ほどの少女を借金と引き換えに差し出した。少女は性を商品として生きていくことしかなく、暴力が支配した。

 

明治政府になっても吉原はそのままで、新たな公認の遊郭ができるほど変わらなかったが、開国により、外国に吉原の存在が知れ、明治政府はあわてて、遊女たちの解放と身代(みのしろ)金即時解消を命じた(1872年芸娼妓解放令)。

しかし、これは外交手段に過ぎず、前借金の相手は抱え主(遊郭の経営者)ではないことが多く、借金は残り、吉原は「貸座敷」として存続する。遊女は自由意志で売春を行うという立場になっただけ。毎週の梅毒検査で痛みと屈辱に泣かされ、近代の明治の吉原は売春婦への差別と蔑みの汚い町に変貌する。

 

現在では吉原遊郭は存在しないが、法律で禁止されても、ジェンダー問題が一向に解決しない現在の日本では、生きていくために自ら売春に手を下さざるをえない女性は減ることはない。さらに性風俗業への偏見という差別が、女性たちを苦しめている。

 

セックスワークをどう考えるか?

吉原を考えるために、セックスワークについて一度考えてみてください。いろいろな意見を紹介するね。

 

性風俗を利用する立場からの意見
「セックスワークも労働。働いて生計を立てている。働くことは、何か(頭脳、技術技能、時間)を商品として雇用主に「売って」いる」「フ―ゾク、何が悪い。フーゾクで働く女はセックス好きなんだよ。キライな奴や不向きなやつはやらんだろう。フーゾク利用するのはお金がかかるからね。利用するほうはそれだけ払っているし、働く方も稼げるだろう」「仕事熱心で続けた風俗嬢は、お客に気に入られるようにサービスを工夫して努力している。身を売るとか心を売るとかじゃなく、サービスを売る仕事」

 

性労働絶対反対派

「売っていいものと売ってはならないものがある。生命や人権に関わるものは売ってはいけない。性は売ってはいけない、買ってもいけない。人倫の基本」「誰もがやりたがらない労働を女性に強制させているからよくない」「お金がないからしかたなくやる仕事。メンタル壊すよ。こんな仕事、許可したらいけない」「いやなことでも、暴力で脅される。いちいち女性がどう思うかなんてお客は考えない。強姦だってありえる」「フーゾクで性病にかかり、性病が社会に蔓延する」「身元がバレて、プライバシー侵害がおきて、刑事事件になる」。

いろいろな意見があるが、セックスワークについては、だれもが知っているような業界ではない。したがって、知らないで自分のバイアスで決めつけて、親なども娘に「気をつけなさいよ」と言うだけ。それが、セックスワーカー(SW)にスティグマ(差別・偏見の烙印)を押し付けることになるし、「低学歴でビョーキもちがやっている」と差別の対象になる。

 

セックスワークは女性の労働問題。男女の賃金格差が関係している

 

私は、SWのことを「身を落として働いている」とか、「かわいそう」という人(とくに女性)が嫌だ。それは救済が目的でも、排除してスティグマのある市場に、彼女たちを商品として投げ込んでいる言葉だから。ポジティブにハッピー感覚を持って働いているSWだっているかも知れないし、生活の足しや結婚資金のために割り切って働いているかもしれない。

外国では、借金のカタに家族に売られる吉原遊女みたいなのはなかったが、自ら売春を選択する女性はいたし、男に売られて売春窟に暮らす女性もいた。19世紀後半から20世紀には売春婦救済運動や白人奴隷問題があったが、現在は「救済」ではなく、「こんな仕事したくない」「できるならやめたい」というSWに対しては、社会保障(福祉)面や、なにより女性の労働やジェンダーからの解決が図ろうという試みがある。

売買春はSWに限らない普遍的な女性の労働問題。SWの前職は、女性が多い。販売、看護、介護、美容師などが多いという。その業界の低賃金や労働条件の改善が先だろう。

SW運動がさかんな国では、ケア労働の条件が引き上げられ、SW労働との差がほとんどなくなった。むろん、労働者全体の男女賃金の差もあまりない。

日本の売買春は男女の賃金格差が関係している。日本のSWの店舗型風俗の平均給与は34万円(国税庁)。そんなに高くないし、さらに年々下がっている。34万は男性の平均給与とほぼ同じ。女性の平均給与は男性より10万少ない24万。女性には、転職して風俗並みに稼げる仕事(=男性の給与なみ)はほとんどない。セックスワークも、構造的な男女賃金差別が関係しているのだ。

 

セックスワーク・スタディーズ SWASH編 日本評論社 性(Sex)と労働(Work)をめぐって現場で蓄積されてきた知をもとに、セックスワーク研究を切り開くはじまりの一冊。

 

岡村発言とセックスワークのコロナ給付金不払問題

吉原の前に、最近の風俗業に関するニュースを2つ。

① 岡村発言問題

数年前のコロナ禍に、タレントの岡村隆史がラジオで「コロナが収束したら絶対おもしろいことがある」「美人さんがお嬢(風俗嬢)やります」「3か月の間、集中的にかわいい子がそういうところでパッと働きます」と発言した。

NHK「チコちゃんに叱られる」

 

 

② コロナ給付金不払を「合憲」とし、差別を煽るひどい判決

コロナで真っ先に、性風俗業界は感染予防から政府により、休業を強いられた。しかし、コロナ支援金が休業企業に給付されることになったとき、性風俗業者はその対象から除外され、給付金から従業員に支払われるはずだった補償金はなくなった。女性たちはたちまち困窮した。

性風俗業界には、シングルマザーが多い。離婚し、ひとりで子育てや家事をしながら生活費を稼ぐには風俗の仕事しかない(とくに地方では)のがこの国の現状。全国で3万2千軒の性風俗業者が存在し、風営法という法律のなかで営業し、税金を正しく納めている。従事者は約30万人。なぜ、性風俗業界だけ差別するのか? 業種により給付金の有無があっていいのか? 

 

関西でデリバリーヘルスを営む会社が給付金支給を求めた訴訟をおこし、東京地裁は国の支援金不支給は合憲とした(原告側は即刻控訴したが、高裁で合憲判断)。

判決文は「性行為などは極めて親密かつ特殊な関係性の中、非公然と行われるべきだという道義観念を国民の大多数が共有している」「(支援金の)給付対象から除外することは合理的理由のない差別に当たるとは言えない」とした。

判決理由はあまりにひどい。大多数の国民が共有している「道義観念」(性的道義観念)、それを裁判所が決めつける。道義観念なんてさまざまだろう。世間知らずの裁判官が自分の「道義観念」を押し付け、世間から後ろ指をさされている人々への差別を煽る。許されない。

国は届出制の風営法(風俗営業の規制及び業務の適正化等に関する法律)で、接待飲食等営業店(ホストクラブ、キャバクラ、麻雀店、パチンコ屋、ゲームセンター)や性風俗関連特殊営業店(ソープランド、ファッションヘルス、ストリップ劇場、ラブホテル、出会い喫茶、デリバリーヘルス、メンズヘルス、アダルトショップなど)は登録制にしている。国だけでなく各自治体でも条例で出店に対するさまざまなきびしい規制があり、なかなか新規開業ができないしくみとなっている。

 

性風俗関連特殊営業

また、警察なども「浄化作戦」として違法営業の摘発に力をいれている。また、風俗業界も積極的に自浄に取り組み、だから岡村さんは安心して利用?して、ラジオのリスナーにもコロナの休業明けの利用を勧めているわけだ。

「許可制」ではなく「届出制」なのは、行政が「性」という分野に介入し、お墨付きを与えていることを避けるために「届出制」とごまかしているだけで、許可制と何ら変わらない。

風俗業も法令や行政指導をすべて満たして営業している以上、立派なビジネス。働いている労働者は尊重されなければならない。個人はどんな職業でも尊重され平等に取り扱われ、差別をしてはいけない、日本の憲法はそうではなかったのか? 風俗業者には災害支援も対象外だ。まるで、吉原で火災のとき、遊女たちを避難させず、土蔵に閉じ込めて焼死させたのと同じ。

 

どんな職種の企業にも給付金は支払われ、働いている労働者にいきわたらなければならない。裁判所の道義観念は、法律を逸脱している。法で裁け。

 

江戸時代の町人は、吉原で働く女性を差別しなかった。年季奉公が明けて借金を返し終わり、吉原から出たら、むしろ歓迎された(農民は年季があけても、遊女の娘が帰ってくるのを嫌った)。

「うちの女房は、昔吉原の花魁(おいらん)だった」は自慢で、「あんたのかみさんは吉原にいたから、身ぎれいでよく気がついて、字もきれいだ」と人々は褒めた。江戸庶民は働く人間に対する「勤労の倫理」は絶対外さない。性労働もりっぱな仕事なのだ。現在の日本人は働く人間に対する尊厳がかなり希薄になっていると思う。勤労の倫理がまるで欠如している裏金議員連中には甘いのに…ね。

 

職業差別をしてはいけない、娼婦にスティグマ(烙印)をおしつけるな! 

私は公営放送の「チコちゃんに叱られる」は、岡村が出ているので観なくなった。チコちゃんが岡村と裁判官を叱って、岡村は風俗を利用しているなら、風俗で働いている人の側に立つべきである。

芸人ならなおさら。それなら、また観てもいいよ。志ん生の「二階ぞめき」。「おうおう、あすこにいる女の子ァなンてんだい? ちょいと、顔を上げて拝ましてくンねえか。お顔をみせとくれよォ~」。一度聴いてみろ。

古今亭志ん生(1890〰️1973)

 

 

吉原は日本文化の集積地

…ということで、やっと吉原。江戸時代の遊女奉公、決して女性の自由意思による優雅な文化ではないが、今回は吉原の文化的な側面を江戸庶民の徳目とからめて書きたいと思います。

日本は、明治の近代になっても、公権力が売春営業を許可する代わりに利潤の一部を収奪する公娼制をとり、人身売買された女性は、海外に「からゆきさん」として、

 

(からゆきさん:少女たちは見知らぬ外国の娼家で働いた。)

 

 

戦時中には「従軍慰安婦」として、戦後には占領軍相手の「パンパン」という街娼、高度成長には東南アジアへの「買春ツアー」。

現在も、政府は売春禁止、人身売買禁止だが、売買春は実態として認めている。ソープ(個室付き浴場)を公認しているのは、どうして? 

介護施設での女性職員の入浴介助に対して、ソープと勘違いする男性利用者はある程度いる。

 

日本における買売春については、これからも書いていきます。今回は、古典芸能、日本文化ファンのkokiから遊郭文化に視点をフォーカスして書きます。昭和期の吉原のイメージから、単なる娼婦の集まる場所と思っているなら、江戸初期の吉原遊郭はちがう

吉原は日本文化の集積地だった。能、歌舞伎、日本舞踊、小唄、長唄、浄瑠璃、和歌、書道、漢詩、俳諧、茶の湯、生け花…。そんなのに縁がない人も多いですが、日本文化です。日本文化はハイコンテキスト(できるだけ言語化しない エドワード・T・ホール)、江戸時代の人たちは身につけていた。吉原の遊女は日本文化のマスタークラス。吉原は日本文化を庶民に広げ、熟成させる役割を果たした。はっきり言って戦後のアメリカ文化のローコンテキストに馴染んじゃったら理解はむずかしいのが伝統芸能、伝統文学…、すこしでも体験をして、江戸の女性を理解してください。文化は生きていくエネルギーになる。人生はビジネスだけじゃないよ。

 

エドワード・T・ホール(1914-2009) アメリカの文化人類学者

吉原遊郭は、1617年に幕府公認の遊郭になったときは日本橋人形町(当時葺屋町)にあった(元吉原)が、1657年の明暦の大火で焼け、移動した。場所は現在の浅草寺の裏、台東区千束3,4丁目。台東区のほうは「新吉原」と呼ばれ、起源についてはもっと以前だとする説もある。

 

新吉原 浅草寺の左上。川沿い。周りは田んぼ。

 

女歌舞伎と吉原

遊女は遊廓ができて集められたのではない。古代日本、女性の性の独占がなかった時代は性を売買して対価をえることは成立しなかった。9世紀後半、平安末期に律令制が浸透し、妻の性が夫以外に閉ざされて「売春」という職業の遊女が成立する。(koki版⑪中世Ⅱ参照)

 

 

遊女たちは廓(くるわ)に閉じ込められているのではなく、「長者」という統率者に束ねられて、船で移動しながら、楽器を奏で唄をうたい、呼ばれると遊女を派遣した。たとえば朝廷の太政大臣などが揃って参詣などに行ったときに、遊女たちを呼んで、宴会の席を設け芸達者な彼女たちの歌を楽しみ、夜になると寝床を共にした。

遊女はプロの歌手、鼓などの演奏家、舞踏家。近世近くになると女歌舞伎の俳優。なかには男性貴族を弟子にしていた芸や音曲の師匠もいた。だれでも遊女になれるわけではなく、遊女の母の芸は実子の娘に受け継がれて、女系の芸能集団を経営していた。戦国時代になると、男性が遊女屋を経営するようになり、遊女は買春目的で人身売買されるようになった。

しかし、江戸時代でもなお、芸と売春はセットで、遊女は平安時代の日本文化の表現者、伝承者であった。1641年の風俗レポート、三浦浄心「そぞろ物語」では、「江戸が繁盛しまちづくりの頃、東南の海際に葭原(よしはら)があり京田舎の傾城屋たちがここを見立てて建てようと刈り跡のあちこちに家作した。そして、能・歌舞伎の舞台が立ったほか、勧進舞・浄瑠璃などの見世物で人々を享楽させ僧俗貴賤老若がこの町に群集した」と、吉原の起源を記す。

 

阿国歌舞伎

出雲阿国(いずものおくに)は、出雲大社の巫女(みこ)出身と伝えられ、安土桃山時代から江戸初期まで、各地を巡業し、「阿国歌舞伎」という踊りを広めた。1603年、江戸幕府が開かれた年に、京都の北野天満宮では、歌舞伎の起源である「阿国かぶき」を上演していた。阿国が男装し、女装した男と酒を酌み交わし、小唄を唄い、官能的な振り付けの踊りを披露した。こんなミュージカル、だれも見たことない。たちまちこの「傾き(かぶき)踊り」はブームになり、朝廷にも招かれ、やがて三味線も導入され、輸入された伽羅(きゃら:高価な香木)を焚きしめた絹の衣装で踊りまわる。劇場いっぱいに広まる伽羅の香り、リズム、色…。阿国はたちまちアイドル。

 

伽羅香道 東南アジア産のジンコウ(沈香)属の樹木を土に埋め、心材から採取する。樹脂の乾燥から香りの生成には100年以上かかり、香道では最高の名香。ベトナム産の高級品はほぼ掘りつくされており、現在では希少性の高さから、価格は時価で、1g数万円はする?

香りを聞く「香道」は、香りを鑑賞する日本の芸道で、禅の精神に基づく精神性の高いもので、古典文学や書道の素養も求められる。

 

京都国立博物館 「阿国歌舞伎図」

1607年、徳川家康は駿河からかぶき女を追放。翌年は江戸から多くの遊女を追放。1612年には幕府は男性のかぶき者300人を逮捕、処刑する。あまりの人気で、阿国のニセモノがあちこちに出没し、中途半端な芸で酒盛りして売春行為で金を稼いでいたので、幕府は風紀を乱すと1629年に女歌舞伎と少年歌舞伎を禁止した。家康は幼少の頃から能に親しんでいたが、女性が演ずる芸は理解できなかった? 能、狂言、浄瑠璃から女性を排除しなければ、今の古典芸能は、まったく違うものになっていただろう。残念だ。女性が演じる能、狂言、文楽を観てみたい。

 

●野郎頭 ちょんまげのことだね。

残ったのは色気なしで仇討ちなどヒーローものをやっていた野郎歌舞伎(野郎は前髪をそり落とした髪型)で、今日までつづいている。「傾く(かぶく)」とは、これまでの常識的な価値観に反抗し、異端のふるまいをすること。「傾く」は歌(うた)舞(まい)伎(うごき)という字をあて、「歌舞伎」と称されて、400年経っても日本を代表する伝統芸能。

阿国の没年ははっきりしない。1613年、1644年、1658年など諸説あり、夫と子どもがいて、2代目がいたとも…。墓は出雲大社と京都にある。

 

吉原は総合アートのテーマパーク

このかぶきが巻き起こした騒乱が吉原成立のきっかけとなる。1612年に米津甚左衛門というひとが、町奉行に、公認の傾城(遊女のこと)町がないから、治安が悪いと訴え、1617年に役所は、日本橋人形町に遊郭設立の許可を与えた。甚左衛門は与えられた土地の葦を刈り取り、吉原遊郭を建て、遊女は、柳町、鎌倉、麹町、さらに大坂や奈良から移転してきて、元吉原ができた。

幕府は吉原だけじゃなく、京都島原、大坂新町、長崎丸山など全国に25の公認の遊郭を承認した。

 

2代目歌川国貞「諸国繁栄遊興須語六」全国各地でさまざまな形の売買春があったことがこのすごろくでわかる。あがりは新吉原

元吉原の遊郭には、中村勘三郎の「若衆歌舞伎」の猿若座をはじめ、人形浄瑠璃や能などの小屋がある「芝居町」がつくられ、興行した。風呂屋や食べ物屋、太夫や役者も暮らしており、ひとつの都市。

遊郭は芸能や文化の発信地であり、歌舞伎や日本舞踊、茶の湯、生け花、料理、建築、庭園、諸道具、衣装、装身具…。日本の有形、無形の文化に関する総合芸術が具体的に五感をつうじて存在する非日常の場。

武士はこのように人を魅了するものは作れない。遊女という異次元のなんでも揃った人間とその遊女のいる空間が遊郭だった。遊女は琴や舞、音曲や芸能に関わることだけでなく、貴族や大名の娘のように、和歌、文章、筆文字などの能力があり、漢詩や俳諧などの武家の教養、中世の能や茶の湯や生け花をたしなみ、着物の好みや立ち居振る舞いも申し分なく、豪商や大名、高位の武士と伝統文化で「遊ぶ」ことができた。これらの風雅をたのしむことを「色好み」といった。「色」のなかには恋愛や性愛も含まれる。これらは人の愛情の根幹をなすものであり、独立した人格を求めあう平等な関係で成立する。すごいね、遊女。

 

井原西鶴(1642―1693)

井原西鶴は、遊女好き。「好色一代男」の主人公、世之介はあらんかぎりの「遊女遍歴」に挑んでいる。いろいろな遊女が登場するが、だれもが人間的魅力にあふれている。人柄がいい。情けが深い。客に媚びない。自分を偽らない。通(つう)ぶった客は丸め込み、うぶな客には涙を出して喜ぶ。下の者にはやさしくてパワハラしない。

「世間胸算用」では、遊女でない一般女性(地女・じおんな)をけちょんけちょんに貶している。「気持ちが鈍感、物言いがくどくて、いやしい所があって、文章がおかしく、酒の飲み方が下手で、唄も唄えなくて、着物の着方が野暮で、立ち居振る舞いが不安定で、歩けばふらふらして、一緒に寝ると味噌や塩の話をして、ケチで鼻紙を一枚ずつ使うし、伽羅は飲み薬と思い込んでる」。藤本箕山(きざん)「色道(しきどう)大鏡」の女性のランク付けは、傾城ー町方で働く女ー町女房。女の中でもっとも好ましくないのが妻で、母としての存在意義も否定しているところが興味深い。

江戸中期からは庶民による家の成立・確立で、地女と遊女の区別化が進み、遊郭は、ただ誘客の機嫌をとる遊女たちに占められるようになった。

 

男はどうして吉原通いをしたのか?

1655年の京都島原遊郭の評判記「難波物語」には、なぜ、廓通いをし金を湯水のごとく使い果たすのか? 吉原に通う客について、その心性が書かれている。 

「銭のある者もない者も賢い人もうつけの人もこの道(色道)に陥れば、禍は数限りない。(中略)人びとはこの道に陥ることの全てを悪いといってうつけの名を世間に広める。だだし、もとより富貴は浮雲のようで、色道でなくても損などうち続き身代が衰えることもある」。「世間では、銭ある人が遊ぶのは『楽をしりて、かしこき人』だと褒める人もあるし、それとは別に叱る人ある。褒めるのは自分と同種の人物だと思っているのだし、叱る人は律儀で神妙な人である」。

お金がある人は貯蓄せずに使い、楽の真髄を知ることが大事だという考えが一部に存在していた。落語などでも廓通い、遊女狂いは間然しているわけではない。家が成立するようになると、稼いだ金は家に貯えることが正しく、遊びに金を使うことが否定されるようになる。それでも廓通いの人は明日より今日。「うき世は夢の如くであるので、慰みがなくても生きている甲斐が無い。唐の玄宗は貴妃(楊貴妃)のために国を失い、周の幽王は褒姒(ほうじ・周の幽王の寵妃)のために国と命をさし出した。これらの例を考えれば、自分風情の身代(財産)は例え失っても大したことでなく、惜しむべき名でもないので、明日を知らぬ世では今日の楽こそ願わしい」。

時代は江戸の勃興期、新興の商人たちは、自分が死んだ後の家の永続性を考えることはまだなく、獲得した富は現世のなかで楽しみに使うべきだとする。大店になり、その維持継続が重要になると、分別や倹約を重視し、遊郭狂いは避けるべきとなる。遊女はもう輝ける存在ではない。

 

吉原と大奥

吉原と大奥は、現代では理解しにくい。裏の女人世界。吉原は不特定多数の男が対象で、大奥は将軍専用の子どもをつくることが目的で多数の女性を抱える。吉原は子どもをつくらないことが前提。大奥は国家予算の1/3を使うほどの金食い虫。吉原は民間事業で金の力がものをいう。

どちらも女性は身分を問われなかった。

どちらも女性は道具にすぎない。この両方に関係ない男性も多かったが、男にとって女性の性は必要なものとして、容認されていた。女性は生きていくために道具とされて、「本人の意思」とは関係なかった。

 

大奥は天皇の時代になり、なくなったが、吉原は、公娼廃止で「赤線地帯」、そして売春禁止で、特殊浴場街として生き残っている。セックスワークを選んだ女性を差別してはいけない。しかし、女性の職業選択が開かれていれば、セックスワークを選ばなかったかもしれない。それぞれが望む好きな分野に進んでいたら、女性は自己実現し、もっとましな国になっていただろう。

もし、吉原がなければ、伝統芸能や文化は現在ほど残っていただろうか? 子どもたちが喜ぶ年中行事は? 世界遺産や無形文化財は吉原の「中興の祖」的な存在ぬきには語れない。吉原は多様な側面からみてみたい。(koki)

 

 

これまでの投稿は、以下でご覧になれます。

 

(Narashino gender1~41)

 

(Narashino gender42~)


 

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