(本の書評を紹介した、以前の投稿の内容を変更した上、再掲します)

袴田事件と同様、警察による「証拠ねつ造」で殺人事件の犯人にされてしまった石川一雄さんのドキュメンタリー「被差別部落に生まれて」という本が、今年5月岩波書店から出ました。

<書評>被差別部落に生まれて 石川一雄が語る狭山事件(黒川みどり著)

貧困で文字奪われ 冤罪訴え続け
書評 角岡伸彦(フリーライター)
 

 一度は死刑判決を受けた人物が、今もなお冤罪(えんざい)を訴えて闘っている。

 今から60年前、埼玉県狭山市で女子高生が行方不明となり、自宅に脅迫状が届いた。ところが警察は、身代金の引き渡しに現れた犯人を取り逃がしてしまう。
 後日、遺体が発見され、警察は付近の被差別部落に住む、当時24歳の石川一雄さんを別件逮捕した。兄の逮捕を示唆された上、認めれば10年で出してやるという警察幹部との約束を信じた石川さんは殺害を“自白”する。

 1964年に浦和地裁は死刑判決を下し、騙(だま)されたことに気付いた石川さんは、控訴審で殺害を否認する。74年に東京高裁は無期懲役を言い渡し、94年に仮出獄するまでの30年余を獄中で過ごした。

 

 近代部落史の研究者が、石川さん、出獄後に結婚した妻、支援者らに聞き取ったのが本書である。貧しさゆえに10歳から18歳まで奉公に出され、学校に行けなかった石川さんは、読み書きができなかった。長続きしない職場での非識字者の悲哀が詳細につづられている。そんな彼がなぜ脅迫状を書けたのか、読者は疑問に思うだろう。

 

 逮捕後に幸運な出会いがあった。部落問題に関心を持つ看守が、自らの立場を社会に訴えることを勧め、石川さんに字を教えた。ボールペンのインクは1週間でなくなった。看守の妻は筆記用具や切手まで差し入れ、死刑囚を奮い立たせた。文字を獲得することで支援者との交信が成立し、自分を客観視できるようになった。

 だが、自らの境遇を知ることは悲しみを生んだ。接見に訪れた両親に「学校へ行かせてくれていたら、おれは警察にだまされなかったかもしれない」と訴えると「学校へやれなかったのは、うちばかりでなく、近所でもみんなそうだってことは一雄もよく知っているだろう」と返された。差別と貧困の犠牲者は、自分だけではなかった。

 罪人の烙印(らくいん)を背負ったままの石川さんは、現在3度目の再審請求中だ。この国で被差別部落に生まれることの意味を考えさせられる一冊である。(岩波書店 2750円)

 

以下、この本からの一部引用です。

 

24歳にえん罪で不当逮捕され、人生を奪われてしまった石川さん

 

 石川一雄さんは、母リイのもと、1939年1月14日に入間川町(現在の埼玉県狭山市)で生まれた。父富造の先妻の子ども、リイの子どもたちがいた。

 母リイはトラホームにかかってしまい、治療費が払えなかったため失明してしまう。

 

 一雄は小学校5年生の時奉公に出て、18歳で帰ってくるまで続いた。

 最初の奉公は住み込みの「子守り」、その後、靴屋、製茶工場、漬物屋などに奉公し、後年、年季奉公に行かなければならなかったことが「私が社会勉強できなかった最大の原因」と語っている。まともに教育を受けず、読み書きができなかったことが後にえん罪の犯人にされた原因の一つにもなっている。

 この頃口ずさんでいた、美空ひばりの「越後獅子の唄」。自分の境遇に重ねていたそうです。

 

 一族が突如巻き込まれ、その犯人に仕立て上げられた「狭山事件」とは…

 

 1963年5月1日、狭山市の高校1年生中田善枝が下校後行方不明となり、その夜身代金を要求する脅迫状が届けられた。ところが、翌2日午後11時50分過ぎに、警察は現れた犯人を取り逃がしたため、同年3月31日の村越吉展(よしのぶ)ちゃん誘拐事件に続いての犯人取り逃がし失態で世論の非難を浴びた。

(吉展ちゃん事件)

 

 

 窮地に陥った埼玉県警は、大がかりな山狩り捜査を開始、5月4日に被害者の遺体が発見された。5月8日の参議院本会議で事件の報告を迫られていた篠田弘作国家公安委員長は、8日までに犯人を捕まえるように指示。5月11日、死体発見現場近くの畑でスコップが発見され、それが石田養豚場のものである、と発表されたが、スコップに付着していた油肥が石田養豚場のものかどうか検証も行われない、というずさんなものだった。

 

 5月23日、2月まで石田養豚場で働いていた当時24歳の石川一雄逮捕となったが、殺害事件と結びつける証拠がなかったため、別件の逮捕であった。

 

 一雄は否認を続け、新たな証拠も得られないまま勾留期限の6月17日を迎える。あせった警察は一雄を保釈すると同時に再逮捕。弁護士ともほとんど接見ができないのをいいことに警察は「お前がやったと言わなければ一家の大黒柱である兄六造を逮捕する」「弁護士はうそつきだから信用するな」「やったと言えば10年で出られるから」などと一雄をおどしまくった。その結果、「釈放されると弁護士は言っていたのに、なぜ再逮捕されたのか」と弁護士不信に陥った一雄は警察の作ったストーリーのままに6月20日「自白」をはじめる。

 

 1963年9月4日に一審の裁判が始まり、一雄は起訴事実を認め、翌64年3月11日浦和地裁内田裁判長により死刑判決を言い渡される。一雄は浦和拘置所から東京拘置所に移された。ここで一雄の文字を学ぶ日々が始まる。

 

 警察にだまされたことに気づいた一雄は同64年9月10日第二審公判で、一転して殺害を否認し、無実を訴えるにいたる。

 

 しかし、1974年10月31日東京高裁寺尾裁判長は無期懲役の判決を言い渡し、1977年9月8日、最高裁は上告を棄却。一雄は東京拘置所から千葉刑務所に移され、その後31年7カ月の長い歳月を経て、1994年12月21日仮出獄となる。その間、1985年には父、富造さん、1987年には母、リイさんが亡くなる。長年支援活動を行ってきた中川早智子さんと1996年に結婚。現在三度目の再審請求中。

狭山事件──隠された真実

 

 

SAYAMA みえない手錠をはずすまで

 

 

獄友(ごくとも)

 

 

59年の時を経て今だからこそ見えてきた真実

狭山事件 59年目の新証拠

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狭山事件の犯人とされた石川一雄さん(83歳)は事件から59年が経った今も、無実を訴え続けています。万年筆の鑑定と11人の鑑定人尋問を求める署名にご協力をお願いします。