今回から「ニート太公望」さんが編集部に加わりました。豊富な話題で健筆をふるっていただきます。まずは…

習志野歴史散歩:谷津球場、巨人軍発祥の地

 谷津球場

 谷津バラ園の入口には「読売巨人軍発祥の地」というモニュメントが残されています。ここには昔、「谷津球場」がありました。昭和9年(1934)、ホームラン王ベーブ・ルースを頂く全米野球チームが来日し、全国各地で日米野球が行われたのですが、谷津球場はそれを迎える日本チーム「大日本東京野球倶楽部」の練習場でした。そして、このチームが後の読売巨人軍になったわけです。

 谷津球場で日米野球試合、ベーブ・ルースと沢村栄治

 11月3日、翌日の神宮球場での第一戦を前に、谷津球場でエキシビション・マッチが行われました。全米チームを前に日本代表はまったく歯が立たなかったそうですが、ここでルースは一人の小柄な日本人ピッチャーを指差して「あのボーイには注意しろ」とささやいたそうです。続く公式戦は日本各地を巡って18試合行われますが、やはり全米チームの連戦連勝でした。しかし11月20日、静岡・草薙球場での対戦では、その「ボーイ」、沢村栄治がルースを苦戦させたことが今でも語り草となっています。
(ベーブルース来日騒動記)

 

 

 各地で大歓迎を受けたルースはすっかり日本びいきとなり、帰国後は自宅の応接間に日本土産の数々を飾りつけ、来客に大歓迎ぶりを物語るのが常となっていたそうです。しかし一方で、この全米チームの一員だったモー・バーグは、ひそかに築地・聖路加病院の屋上にあがり、映写機で東京の町を撮影していました。将来の日米戦争に備えたスパイだったのです。

 引き裂かれる日米、そして沢村の戦死

 昭和16年12月、真珠湾奇襲のニュースを聞くと、怒り狂ったルースはバットを振るって、自慢の日本土産をことごとく打ち壊してしまいました。国民的英雄のこの行為は、リメンバー・パールハーバーのかけ声と共に、全米をたちまち奮い立たせたのでした。一方の沢村栄治は昭和19年12月、陸軍兵長として台湾沖で輸送船と運命を共にしてしまいます。米国内の日系人は砂漠の中の収容所に強制連行され、野球だけが唯一の娯楽となっていました。また、あのモー・バーグのフィルムは、東京空襲の絶好の資料として活用され、東京は焼け野原となります…。
(沢村栄治)

 

 戦後、剣道やチャンバラ映画を禁止したGHQは、野球は大いに奨励しました。焼け跡の子どもらが木っ端とボロ布で遊び始めた三角ベースから、日本の野球は復活します。戦後プロ野球の黄金時代、そして今や日本人が海を越えて大リーグで活躍する姿も珍しいものではなくなったそのすべては、ここ「谷津球場」から始まったのです。平和を祈念する場として、ぜひ後世に伝えたいものですね。 (ニート太公望)


(谷津球場跡)

 

 

 

 

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