加藤登紀子 ロシアとウクライナへの思い、「百万本のバラ」秘話

(スポーツ報知の記事より抜粋)

 

 

 歌手の加藤登紀子(78)が、6月18日に東京・渋谷のBunkamuraオーチャードホールでコンサートを開催する。それに先がけ、5月から各会場でウクライナ避難民支援の募金活動を実施予定。6月にはチャリティーCDをリリースする。自身と関わりの深いロシアとウクライナへの思い、ヒット曲「百万本のバラ」について告白。

 ロシア、ウクライナ両国との縁は、切っても切り離せない。ロシアのウクライナ侵攻を目の当たりにし、加藤は「戦争の残す結果がどんなに人々を傷つけ、未来を憎しみに満ちた不安定なものにするか。それを考えると、一刻も早く戦争を終結させてほしいと願わずにはいられません」と語る。

 父親の幸四郎さんが1929年に日露協会学校(ハルビン学院)に入学。自身はハルビン(中国黒竜江省牡丹江市)に生まれ、2歳8か月で日本に引き揚げるまで過ごした。

 幸四郎さんは57年に東京・新宿にロシア料理店「スンガリー」を創業。「スンガリー」は戦後、ロシア人が中国から日本に渡ってきたことを受け、彼らの働き口として作られたものだ。72年には、京都市東山区にウクライナの首都の名前を冠した「レストラン キエフ」をオープンした。

 それだけに「ウクライナ料理だ、ロシア料理だと区別しなきゃいけない事態になってしまった」と現況を嘆く。

 「(一般的に)ロシア料理と呼ばれるものはウクライナ辺りの料理がベースみたいです。ボルシチやピロシキ(の発祥)はウクライナ。姉(の幸子さん)に聞いたら、ロシア人の家庭料理は伝統的にウクライナから来ていると。私たちが家庭で食べている(一般的な)ロシア料理は、ウクライナ料理と言っていいかもしれません」

 87年の大ヒット曲「百万本のバラ」も、両国との関わりが深い。この曲は、日本人の父とロシア人の母を持ち、現在は札幌市でロシア料理店を営む兵頭ニーナさんからレコードを聴かせてもらい、自分なりに訳詞したもの。85年にコンサートで初披露すると反響が大きく、その後CD化された。

 もともとはバルト三国のラトビアで生まれた子守歌「マーラが与えた人生」が原曲。この曲に、ロシアの詩人アンドレイ・ボズネセンスキーがグルジア(現ジョージア)の貧しい画家の恋物語をテーマとした歌詞をつけ、壮大なラブソングとして80年代のソ連で大ヒットした。

 「ボズネセンスキーは改革派の詩人として知られていた。『百万本のバラ』は91年にソ連が崩壊し、独立するまでの期間、改革・解放を求めた人たちの心を捉え、分断されていく人たちをつないだ歌だったと思います。分断後も、それぞれの国で愛されてきた“奇跡の歌”。歴史に翻弄(ほんろう)され、くぐり抜けた人たちの心を結ぶ歌でもある。今こそ大切に歌っていきたいです」

(以下、テレビの武田鉄矢の「昭和は輝いていた」放送内容から)

「百万本のバラ」を歌ったのはロシアの歌手、アーラ・プガチョワ

ジョージア(旧グルジア)の貧乏画家ピロスマニがフランスの女優マルガリータに思いを寄せたが、相手にされなかった、という切ない実話から作られた歌詞が「百万本のバラ」

立ってマルガリータを見つめるピロスマニ(映画「ピロスマニ」より)

ピロスマニが描いた「女優マルガリータ」

加藤登紀子とアーラ・プガチョワがコラボして歌った「百万本のバラ」

アーラ・プガチョワさんはロシアの国民的歌手ですが、現在はウクライナ戦争に反対する夫とともにイスラエルに移住しています。

元歌はラトビアの「マーラが与えた人生」

「この世に生を与えてくれたラトビア(バルト三国の一つ)の神マーラ。でも神様は幸せを運んでくるのを忘れた」というのが元歌だった。

 

 

ラトビア語で歌う「マーラが与えた人生」

 

 

他国に支配されたラトビアの苦難の歴史

この歌の背景には、長い間他国に支配されたラトビアの苦難の歴史がある。

 

 

 

 

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