(2022年2月の原稿です)

知っておきたい、ウクライナの歴史

知っておきたいウクライナの歴史!ロシアの支配やクリミア問題などを解説

などの記事を参考にしながら、まとめてみました。

ロシアやウクライナのルーツは「キエフ大公国」

ルーシという国が誕生し、キエフ(今のウクライナの首都)を首都としました。(「ルーシ」が「ロシア」に変化。ロシアも、ここが自らのルーツ、としている)

キエフは882年にバイキングの手に落ち、キエフ大公国を統治したリューリク朝の都になります。キエフ大公国は周辺民族を征服し、ヨーロッパ最大の国へと成長しました。しかし13世紀にモンゴル帝国の侵攻を受け、滅亡します。ちなみにキエフ大公国がキリスト教を国教と定めたため、現在のウクライナにもキリスト教文化が根付いているそうです。

モンゴルの支配を経て、北部・中部はリトアニア、西部はポーランドに、クリミア半島はロシア(モスクワ大公国)に分割支配された

その後は、ハールィチ・ヴォルィーニ大公国が台頭。ポーランド、マゾヴィア、ハンガリー、ドイツ騎士団と盟約を交わしました。モンゴル帝国のジョチ・ウルスと交戦し、1245年に敗北して服属を余儀なくされます。

1340年に王統が途絶えると、隣国のポーランドとリトアニアが相続権を主張。戦いの結果、北部・中部はリトアニア、西部はポーランドと分割支配されることになりました。国境地帯はどこの国にも所属せず、「荒野」と呼ばれます。

またクリミア半島は、クリミア・ハン国と後にロシアとなるモスクワ大公国に支配されました。

 

ウクライナの「荒野」に共同体を作った「コサック」が各国の傭兵となって戦争に参加。1648年に独立

15世紀後半、権力の空白地域となっていた「荒野」で、武装した人々が共同体を作ります。彼らは「コサック」と呼ばれ、ポーランドとリトアニアの臣下でありながら国王の支配を受けず、軍人の特権と自治制を有する特殊な集団でした。

ポーランドやリトアニアの傭兵としてさまざまな戦争に参加し、また自らも隣国のモルドバ、クリミア、ロシア、オスマン帝国を攻撃するなどして、勢力を拡大していきます。1648年には、首領のボフダン・フメリニツキーが中心となって反乱を起こし、独立を果たしました。

ウクライナ西部はポーランド領に、東部はロシア領になる

しかしその後は内乱状態に陥り、その隙を見てロシアが介入してきます。結果的に、ドニプロ川を境にポーランド・リトアニアの支配下に置かれる「右岸ウクライナ」と、ロシアの支配下に置かれる「左岸ウクライナ」、そして下流の「ザポロージャ」の3つに分裂することになりました。

その後、「ロシア・ポーランド戦争」を経て1689年に「永遠平和条約」が締結。ロシアとポーランドでウクライナを分割すること、ザポロージャはロシアが統治権を得ることなどが定められます。

 

ロシアの支配下でコサックの自治権は徐々に奪われ、ウクライナ語はロシア語の「方言」として扱われるようになりました。1863年には、ウクライナ語の書物の出版や流通が禁止されます。コサックはロシア軍に編入され、「日露戦争」にも参加しました。

このコサック騎兵10万の軍勢を、わずか8千の兵で凌(しの)ぎ、日露戦争の勝利に大きく寄与した、とされるのが、習志野騎兵旅団の秋山好古(よしふる)でした。

1917年ロシア革命。赤軍と白軍、マフノの農民軍などが入り乱れる激戦地になったウクライナ

「第一次世界大戦」が勃発すると、ウクライナの西部は激戦地になります。1917年にロシア帝国が崩壊すると、ウクライナは独立を目指して立ち上がりますが、ウクライナ人民共和国軍、ボリシェビキの赤軍、ロシア帝政派の白軍、白軍を支援するフランス軍、イギリス軍、ポーランド軍、無政府主義者(マフノ)※の黒軍、ゲリラ主体の緑軍などが入り乱れる内戦状態になりました。

※ネストル・マフノはウクライナ農民軍を組織し、最初はボリシェビキの赤軍と共に白軍と戦うが、のちにボリシェビキと対立し、ボリシェビキとの戦いに敗れる(日本の革命家、大杉栄がマフノを尊敬し、自分の息子を「ネストル」と名付けた)

 

 

ソビエト連邦の一共和国になる。圧政と大飢饉

1920年にソビエトの勝利で内戦が終息し、ウクライナ社会主義共和国が成立。1922年には、ロシア、ベラルーシ、ザカフカース(ジョージア、アルメニア、アゼルバイジャン)とともにソビエト連邦を結成しました。

ソ連下のウクライナでは厳しい弾圧政策がおこなわれ、多くの政治家、知識人、文化人などが逮捕されています。また農業の集団化などの失政によって2度の大飢饉にも見舞われ、400万人から1000万人が亡くなったそうです。

第二次世界大戦でナチス・ドイツが支配したウクライナ

第二次世界大戦が始まった1939年、ソ連はポーランドに侵攻し、占領した西ウクライナをウクライナに組み入れた。1941年以降の独ソ戦で赤軍が敗走を続ける中、キエフ包囲戦において、66万人以上のソ連軍兵士が捕虜となった。

 

1941年、ソ連からの「解放者」としてナチス・ドイツ軍を歓迎したウクライナ人

ナチス・武装親衛隊(SS)へのウクライナ人の志願者

一方、ソ連兵として戦ったウクライナ人の兵士も

1941年のナチス・ドイツとソ連の開戦は、スターリンの恐怖政治におびえていたウクライナ人にとって、一時的に解放への期待が高まることになった。ドイツ軍は当初「解放者」として歓迎された面もあり、ウクライナ人の警察部隊が結成された。独ソ戦では、ウクライナも激戦地となり、500万以上の死者を出した(ソ連の内務人民委員部(NKVD)はウクライナから退却する際に再び大量殺戮を行っている)。

ソ連にもナチス・ドイツにも「独立」運動が弾圧された

しかし、彼らの目的であるウクライナの政治的・文化的独立は、ソ連のみならずドイツ側からも弾圧された。かねてより独立活動を行ってきたウクライナ民族主義者組織 (OUN) が1941年6月にウクライナ独立国の独立を宣言した際には、ドイツは武力でこれを押さえ込もうとした。ドイツは、「帝国管区ウクライナ」を設置しナチス親衛隊が直接統治を行うこととした。

数百万のウクライナ人がドイツへ送られ、一方ウクライナに住むユダヤ人700万人がナチスに殺された

ウクライナ人は「劣等人種」とみなされ数百万の人々が、「東方労働者」としてドイツへ送られて強制労働に従事させられた。またウクライナに住むユダヤ人はすべて絶滅の対象になった。ドイツの占領などによる大戦中の死者の総数は、虐殺されたユダヤ人50万人を含む700万人と推定されている。なお、ユダヤ人虐殺に関しては現地の住民の協力があったことが知られている。

人だけでなく、穀物や木材などの物的資源も略奪され、ウクライナは荒廃した。このドイツ軍の暴虐にウクライナ人農民は各地で抵抗し、やがて1942年10月、ウクライナ蜂起軍(UPA)が結成されるに至る。おもに西ウクライナにおいて、テロ活動などでドイツ軍と戦った。UPAが活動を活発化させればさせるほど、ドイツ軍もウクライナ人迫害の手を強めた。

「ドイツ兵」として戦ったウクライナ人と「ソ連兵」として戦ったウクライナ人

一方でドイツ軍は、1943年春にスターリングラード攻防戦で決定的な大敗北を喫すると、自らの軍隊に「東方人」を編入させようとして、武装親衛隊(武装SS)にウクライナ人部隊「ガリツィエン師団」を創設した(この時期、武装親衛隊はウクライナ人だけでなく、多数の外国人を採用している)。ウクライナ人たちも、ドイツ支配下のウクライナの待遇が改善されること(自治・独立)を希望し、約8万人のウクライナ人が応募、そのうち1万3千人が採用された。1917年~1921年の独立革命の挫折の経験から、ウクライナ人は自分たちに、よく訓練された正規の軍隊が不足しているということを痛感していたのである。彼等はまさに「ウクライナ人」として、スターリンのソ連軍と戦う機会を与えられることになった(その一方でユダヤ人虐殺にも荷担した)。ガリツィエン師団以外にも、多くのウクライナ人が「元ソ連軍捕虜」としてドイツ軍に参加している。しかしそれらを圧倒的に上回る数のウクライナ人が「ソ連兵」としてナチス・ドイツと戦い、死んでいった。当時のソ連軍兵士1100万人のうち、4分の1にあたる270万人がウクライナ人であった。

ウクライナ蜂起軍(UPA)、ソ連へのテロを行う一方、ユダヤ人を大量虐殺

やがて、ドイツが敗走して再びソ連軍がやってくると、ウクライナ蜂起軍(UPA)は破滅的な運命をたどる。彼等は今度はソ連軍に対するテロ活動を開始し、それだけでなくガリツィア地方のポーランド人、ユダヤ人の大量虐殺を行った。家は次々に焼き討ちにし、ときには虐殺に反対した同朋のウクライナ人をもいっしょに殺害した。このようなUPAのテロ活動は1950年代まで続いた。戦後、ソ連はポーランドやチェコスロヴァキアと共同軍事行動をUPAにたいして起こし、ポーランドでは国内のウクライナ人を強制退去させる「ヴィスワ作戦」が行われた。戦後まもなくの東欧は、新しく引きなおされた国境線にしたがって大量の人々が無理やり移住させられる時期だった。ウクライナでも、ポーランドなどから追い出されたウクライナ人が大量に国内へ流入する一方で、多くの国内のポーランド人、ユダヤ人は国外へ強制退去させられ、国内からほとんど姿を消してしまったのだった。

ウクライナは第二次世界大戦において最も激しい戦場になったとされ、その傷跡は今日にまで各地に残されている。ドイツ空軍機による破壊は文化財にもおよび、多くの歴史的建造物が失われた。ソ連政府は、ウクライナ人への懐柔策として「南方戦線」と呼ばれていたこの地域の戦線を「ウクライナ戦線」と命名し、ウクライナ人を前線へ投入した。

第二次世界大戦後、ウクライナ社会主義共和国に

第二次世界大戦後、ウクライナ社会主義共和国の国境は旧ポーランド領であったハリチナー(ガリツィア)地方などを併合して西に拡大し、ほとんどのウクライナ人が単一国家の下に統合された。

     ハリチナー

ソ連の穀倉

ソビエト連邦内では、ロシアに次いで2番目に重要な共和国となり、「ソ連の穀倉」といわれた。

成田闘争を指導した故・戸村一作氏は肥沃な北総大地を「日本のウクライナ」と呼んでいたそうです。

ウクライナは「第二次世界大戦」時も独ソ戦の激戦地となり、800万人から1400万人もの被害者を出しました。これは当時の人口のおよそ2割におよぶ人数です。戦後は国際連合加盟国として総会に議席をもちますが、「ソ連の一部」という扱いから脱することはできません。

ロシア領だったクリミア半島をウクライナに「プレゼント」したフルシチョフ

独裁者スターリンが死んだ後新たに書記長になったフルシチョフによる「スターリン批判」は世界に衝撃を与えました。今まで「神様」のように崇拝されていたスターリンの「粛清」などの事実を暴露し、批判したのです。

そして、この「スターリン批判」の2年前、1954年にフルシチョフがクリミア半島をロシアからウクライナに「プレゼント」したことも人々を驚かせました。(フルシチョフは長年ウクライナで働いていましたが、ウクライナ人ではありません)
クリミアは、1783~1954年までロシア領でした。ところが1944年にはスターリンの命令によってクリミア先住民であるクリミアタタール人や他の長年クリミアに住んでいた民族を「ドイツのスパイだ」などと言って半島から追放した。彼らはクリミアの経済や産業を担っていたので追放後、クリミア経済が崩壊した。  
代わりに半島に来たロシア人の入植者は新しい環境に慣れずに、発展に貢献できなかった。そこで、クリミアの再生をウクライナに任せたらどうかという案が出てきて、最終的に採決され、ウクライナ領になったわけです。  
実際にウクライナ移譲後、クリミア再生が実現されました。ロシアもウクライナも同じ「ソ連(ソビエト連邦)」の国だし、「ソ連は永遠に続くから、ロシア領にしてもウクライナ領にしても問題はない」と安易に考えたのでしょう。まさか60年後、クリミア半島をめぐってロシアとウクライナが戦争をすることになる、とは夢にも思わなかったんでしょう。

チェルノブイリ(チョルノービリ)事故

また1986年には「チェルノブイリ原発事故」という悲劇にも見舞われました。
(今ではウクライナ語のチョルノービリを使うようです)

 

ソ連崩壊

1985年にソ連の最高指導者に就任したミハイル・ゴルバチョフの政権下で「ペレストロイカ」と呼ばれる改革がおこなわれるなか、ウクライナでは「ペレブドーヴァ」と呼ばれる運動が起こります。

長年ソ連政府から弾圧されてきたウクライナ語の解放を訴え、1989年9月、ウクライナ人文学者や作家を中心とする民族主義大衆組織「ペレストロイカのための人民運動」が結成されました。1990年3月には国会にあたる最高会議の議員選挙も実現し、彼らを中心とする民主派勢力が多数の議席を獲得します。

最高会議は7月に「主権宣言」を採択。ウクライナのさまざまな権利をソ連から取り戻すことを宣言し、8月24日に独立を宣言。12月に実施された国民投票で支持を受け、悲願の独立が達成されたのです。

2014年、親ロシア派大統領への抗議デモからクリミア半島をめぐる戦争へ

しかし独立した後も、ウクライナにはクリミア半島という大きな問題が残っていました。

1991年にソ連からウクライナが独立すると、クリミアは「クリミア自治共和国」と「セヴァストポリ特別市」としてウクライナに帰属します。しかし半島の住人の半数以上がロシア人だったことから、ロシアへの帰属を求める声が高まるのです。ただこの動きを後ろ盾していたロシアが手を引いたために、クリミアの独立運動は一時沈静化しました。

クリミア問題が再燃したのは、2014年のこと。2月18日に首都キエフで「ウクライナ騒乱」といわれる運動が起こります。当時大統領だった親ロシア派のヴィクトル・ヤヌコーヴィチに対して、親EU派が抗議をし、ヤヌコーヴィチはクリミア半島に亡命します。

2月27日、クリミア半島で親ロシア派の武装勢力が蜂起。数日で議会、空軍基地、空港などを占領しました。3月2日にはウクライナ海軍が投降し、ロシアに本部を明け渡します。翌日からロシアは、「ロシア系住民の保護」を理由に軍を投入。3月16日には「ロシア編入の是非を問う住民投票」が実施され、96%を超える賛成多数で可決。翌3月17日にクリミアはウクライナから独立し、ロシア編入を宣言しました。

ただウクライナは、ロシアへの編入は憲法違反だと主張。現在の状況を「占領」だとし、他国も巻き込んで係争状態が続いています。

親ロシア派勢力による武装蜂起はクリミア半島だけでなく、同じくロシア系住民が多く暮らしている東部のドンバス地方にも飛び火しました。これは「ウクライナ東部紛争」と呼ばれています。

ウクライナ側はロシアとの「戦争」とみなしていて、一方のロシア側はウクライナの「内戦」という立場をとっています。双方とも宣戦布告はしていません。

ドンバス地方で武装蜂起した親ロシア派勢力は、ウクライナからの独立を宣言。「ドネツク人民共和国」「ルガンスク人民共和国」を名乗り、共同で「ノヴォロシア人民共和国連邦」を構成します。クリミア同様ロシアへの編入を求めましたが、ロシアはこれを認めませんでした。国連からも、国家として承認されていません。

ただ数千人規模といわれる軍の維持は、親ロシア派勢力だけで賄いきれるものではなく、非公式にロシアが援助しているものと考えられています。

これに対し、アメリカやEU加盟国はロシアへ経済制裁を発動した一方、外交の交渉は継続。2015年2月にはドイツとフランスが仲介して「ミンスク合意」が結ばれ、停戦が実現しました。ただその後もたびたび紛争が勃発している様子。これまでに1万3000人以上の死者が出ています。

そして、ロシアの「のど元」に突き付けられた隣国ウクライナのNATO(北大西洋条約機構)加盟の動きを阻止しようとするロシアとウクライナの間で、世界戦争にまで発展しかねない戦争の危機が再び迫っています。

こうしてみると、ウクライナの国土、東はロシア領、西はポーランド領として分割支配されたり、ナチス・ドイツに協力したウクライナ人とソ連兵になったウクライナ人が戦うことになったり、ロシア人が多い東側の地域とウクライナ人が多い西側の地域との間に深刻な対立があったり、悲しい歴史が今も続いているような気がします。

いずれにしろ、ウクライナ情勢、目が離せません。

(追加)
ブログ読者の方から、以下のお知らせをいただきました。

エイゼンシュテイン監督の「戦艦ポチョムキン」という名作がありますね。このポチョムキンの叛乱は日露戦争のさなか、オデッサ軍港で起きたもの。オデッサはウクライナですね。日本も当時は、明石元二郎がロシアの革命派に工作資金を渡したりしていました。

有名な「オデッサの階段」のシーン

ウクライナ危機の今、映画史に残るこの名作をもう一度見てみるのも意味のあることなのではないでしょうか。映画全編を以下で見られます。

 

 

 

 

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