【今日の気づき】
おはようございます😊
今日の内容はたとえ知識では分かっていても、いざ自分が追い込まれていたり心に余裕がなければ客観的に判断して対応するのが、難しいことだとおもいました。
自分が楽しんでいたり、幸せであることがとても大切です。
あなたは何を投影してますか?
↓↓↓↓↓↓↓
ある町の入り口に
一人の老人が座っていた。
そこに、よその町から
一人の若者がやって来た。
若者は老人に尋ねた。
「この町はどんな町ですか?
どんな人たちが住んでいますか?」
老人
「君はどんな町からやって来たのかね?」
若者
「僕がいた町は、悪い人が多かった。
ひどい町でした」
老人
「この町も同じようなものじゃよ」
若者は疑いの目で老人を見ると、
町に入っていった。
そして間もなく、
老人が言ったとおりの町であることを知った。
その後しばらくして、
別の若者がやって来て、
老人に尋ねた。
「この町はどんな町ですか?
どんな人たちが住んでいますか?」
「君はどんな町からやって来たのかね?」
「僕がいた町は、やさしくて親切な人が多かった。とても素敵な町でした」
「この町も同じようなものじゃよ」
若者は老人にお辞儀をすると、
町に入っていった。
そして間もなく、
老人が言ったとおりの町であることを知った。
=====================
この寓話は、
講演などでもよく耳にする話なので、
ご存知の方も多いかもしれませんね。
私たちはものごとを
ありのままには見ていません。
ものごとに自分が意味づけをして、
その意味を見ています。
ものごとに自分の心を投影して、
その投影を見ているのです。
つまり人は、外界を通して、
自分の内面を経験しているのです。
ということは、私たちは、
自分の内面にないものは経験できない
ということですね。
たとえば、
私たちが花を見て「美しい!」と感動するのは、
心の中にある「美」を投影して、
「美しい」と感じているのです。
「美」は私たちの心の中にあるのです。
動物や虫は、花を見ることはできても、
花の美しさを感じることができません。
花の美しさに感動することはないわけです。
動物や虫の内面には、
「美」という理念がないからです。
これはつまり、
動物や虫が生きる世界には、
「美しい花」は存在していないということです。
(植物としての花は存在しますが)
また、私たち人間も、執着心に囚われているときや、競争心・闘争心で心がいっぱいのときは、
花の美しさに気づかないまま、
見過ごしてしまいます。
そんなときは、私たちが住む世界に
「美しい花」は存在していないのです。
私たちは
自らの内面を投影した世界に住んでいます。
自らの心の“ありよう”を映し出した世界に
住んでいます。
周りの人が
善意の人ばかりに見えるときは、心の中の善意が
周りに投影されているのです。
周りの人が
悪意の人ばかりに見えるときは、心の中の悪意が
周りに投影されているのです。
物理的には、
「一つの客観的な世界に、
すべての人間が住んでいる」
という見方ができますが、
心理的には、
「それぞれの人間は、
それぞれの主観を投影した世界に
住んでいる」
という見方ができるわけです。
それぞれの人間が、
それぞれの主観を投影した世界に
住んでいるのであれば、
「私たち一人ひとりの数だけ世界がある」
ということになります。
つまり、自分が住んでいる世界と、
相手が住んでいる世界は、
実は“違う世界”であるということになります。
しかし私たちは、
「自分が見ている世界こそが
客観的な一つの世界である」
と勘違いしていて、
その客観的世界(実は自分が見ている主観的世界)に相手も住んでいるものだと思い込んでいます。
そのため、
相手の「感じ方、ものの見方」が歪んで見えるのです。
「あなたは何を見ているの?
何を考えているの?
私が提供した情報を知れば、結論は明らかだよね。
どうしてそれが理解できないの?
あなたには事実が見えないの?
あなたの『ものの見方』は歪んでいるよ」
なんて言ったりするのは、
「相手も自分と同じ世界が見えているはずだ。
世界は一つしかないのだから」
という、
おそるべき思い込みがあるからなんです(^^;
「相手は自分と違う世界に住み、違う世界を見ている」という真実に気づくと、
相手の「感じ方、ものの見方」を、
「私には計り知れないもの」として
敬意をもって尊重することができます。
ユング心理学者の河合隼雄先生が、
「人の話を聴くときは、『相手にとっての真実』に耳を傾けることが大切」
と述べておられます。
「自分にとっての真実」と
「相手にとっての真実」は
違っていて当然なのですから、
「自分こそが客観的な真実を見ている」
という思い込みを手放し、
「相手にとっての真実」に、
畏敬の念をもって耳を傾けることが
大切なのですね。
一人の老人が座っていた。
そこに、よその町から
一人の若者がやって来た。
若者は老人に尋ねた。
「この町はどんな町ですか?
どんな人たちが住んでいますか?」
老人
「君はどんな町からやって来たのかね?」
若者
「僕がいた町は、悪い人が多かった。
ひどい町でした」
老人
「この町も同じようなものじゃよ」
若者は疑いの目で老人を見ると、
町に入っていった。
そして間もなく、
老人が言ったとおりの町であることを知った。
その後しばらくして、
別の若者がやって来て、
老人に尋ねた。
「この町はどんな町ですか?
どんな人たちが住んでいますか?」
「君はどんな町からやって来たのかね?」
「僕がいた町は、やさしくて親切な人が多かった。とても素敵な町でした」
「この町も同じようなものじゃよ」
若者は老人にお辞儀をすると、
町に入っていった。
そして間もなく、
老人が言ったとおりの町であることを知った。
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この寓話は、
講演などでもよく耳にする話なので、
ご存知の方も多いかもしれませんね。
私たちはものごとを
ありのままには見ていません。
ものごとに自分が意味づけをして、
その意味を見ています。
ものごとに自分の心を投影して、
その投影を見ているのです。
つまり人は、外界を通して、
自分の内面を経験しているのです。
ということは、私たちは、
自分の内面にないものは経験できない
ということですね。
たとえば、
私たちが花を見て「美しい!」と感動するのは、
心の中にある「美」を投影して、
「美しい」と感じているのです。
「美」は私たちの心の中にあるのです。
動物や虫は、花を見ることはできても、
花の美しさを感じることができません。
花の美しさに感動することはないわけです。
動物や虫の内面には、
「美」という理念がないからです。
これはつまり、
動物や虫が生きる世界には、
「美しい花」は存在していないということです。
(植物としての花は存在しますが)
また、私たち人間も、執着心に囚われているときや、競争心・闘争心で心がいっぱいのときは、
花の美しさに気づかないまま、
見過ごしてしまいます。
そんなときは、私たちが住む世界に
「美しい花」は存在していないのです。
私たちは
自らの内面を投影した世界に住んでいます。
自らの心の“ありよう”を映し出した世界に
住んでいます。
周りの人が
善意の人ばかりに見えるときは、心の中の善意が
周りに投影されているのです。
周りの人が
悪意の人ばかりに見えるときは、心の中の悪意が
周りに投影されているのです。
物理的には、
「一つの客観的な世界に、
すべての人間が住んでいる」
という見方ができますが、
心理的には、
「それぞれの人間は、
それぞれの主観を投影した世界に
住んでいる」
という見方ができるわけです。
それぞれの人間が、
それぞれの主観を投影した世界に
住んでいるのであれば、
「私たち一人ひとりの数だけ世界がある」
ということになります。
つまり、自分が住んでいる世界と、
相手が住んでいる世界は、
実は“違う世界”であるということになります。
しかし私たちは、
「自分が見ている世界こそが
客観的な一つの世界である」
と勘違いしていて、
その客観的世界(実は自分が見ている主観的世界)に相手も住んでいるものだと思い込んでいます。
そのため、
相手の「感じ方、ものの見方」が歪んで見えるのです。
「あなたは何を見ているの?
何を考えているの?
私が提供した情報を知れば、結論は明らかだよね。
どうしてそれが理解できないの?
あなたには事実が見えないの?
あなたの『ものの見方』は歪んでいるよ」
なんて言ったりするのは、
「相手も自分と同じ世界が見えているはずだ。
世界は一つしかないのだから」
という、
おそるべき思い込みがあるからなんです(^^;
「相手は自分と違う世界に住み、違う世界を見ている」という真実に気づくと、
相手の「感じ方、ものの見方」を、
「私には計り知れないもの」として
敬意をもって尊重することができます。
ユング心理学者の河合隼雄先生が、
「人の話を聴くときは、『相手にとっての真実』に耳を傾けることが大切」
と述べておられます。
「自分にとっての真実」と
「相手にとっての真実」は
違っていて当然なのですから、
「自分こそが客観的な真実を見ている」
という思い込みを手放し、
「相手にとっての真実」に、
畏敬の念をもって耳を傾けることが
大切なのですね。
今日も読んで頂きありがとうございました。
何かお役に立てれば嬉しいです。