会津日記3(鶴ヶ城) | Sumiko's Playground

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基本ネタバレなのでゲーム、ライブ、ドラマなど結果を
知りたくない方は見ないでね。

会津日記2日目。
鶴ヶ城へと向かいました。

会津藩は戦国時代から結構藩主が入れ替わってるんですよね。
もともと幕末が得意なだけでそれほど歴史全般に詳しいわけではないので、歴代会津藩主といってもすぐには出てこない。
いつもクリまるに「伊達って何年くらい会津にいたんだっけ?」とか「上杉の後に入ったんは誰だっけ?」って聞いてました。
それでもなかなか覚えられなくて混乱する。汗
でもこれはわたしだけではなかったようです。
お城の入り口にこんなわかりやすい看板が・・・

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戦国時代は葦名氏。
葦名氏を伊達政宗が破って会津藩主となるも1年で秀吉に会津領を没収。
信長の娘婿である蒲生氏郷が会津入り。
この蒲生氏郷が鶴ヶ城の生みの親。
当時は今より高い7層の天守閣で、壁も瓦も真っ黒だったそうです。
城下町の基盤を作ったのもこの人。
しかし蒲生氏郷が亡くなると跡目相続に関する御家騒動で会津領は没収。
その後に入ったのが上杉景勝だけど、これまたすぐに関ヶ原の戦いで破れ米沢へ・・・
ふたたび蒲生氏がかむば~~っく。
それからどーゆー事情で加藤氏になったかはよくわからん。(おぃ)
加藤氏のときに天守閣は5層、赤瓦になったようです。
加藤氏から幕府が会津領を召し上げると天地明察で有名になった(らしい?)保科正之が藩主となります。
徳川家光の弟さんですね。
養子に入ったので保科姓なんです。
幕府は松平姓を名乗る事を勧めたのに養父への恩義から生涯保科姓を名乗り、松平姓と葵紋を使用したのは3代目からという義理堅さ。
こうして最後の会津藩主 松平容保へと続くわけです。
そんなわけで写真の保科氏と松平氏は同じくくりにしてあるわけです。

この会津松平家の初代当主 保科正之は兄である家光に大変たよりにされていて、家光が死ぬ間際に「宗家を頼む」と徳川の行く末をまかされます。
それに感銘を受けた保科正之は、会津家訓十五箇条の第一条に「会津藩たるは将軍家を守護すべき存在であり、藩主が裏切るようなことがあれば家臣は従ってはならない」って盛り込んだわけです。
これによって幕末の容保公の悲劇が生まれてしまったわけですね~。あせる
というか、この会津松平家は代々、忠義の家系なのですな。

さて、会津の歴史をお勉強したところでお城に向かいます~~。アップ


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白壁と赤瓦が美しいお城です。キラキラ
別の角度から・・・

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緑と白とのコントラストがこれまた美しい。キラキラ


お城の前にはこんなものが・・・

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会津若松観光PRキャラクター お城ボくん だそうです。
自走するらしい。(笑)
走っている所が見たかった。にひひ
なんとこのお城ボくん、キャラクターデザインはタツノコプロの笹川ひろしさんビックリマーク
なんで笹川さんなのかと言えば、この方 会津若松出身なんだそうです。知らなかった!

まずは天守閣に登ってみました。
中は塩蔵が再現してあったり、歴代藩主の貴重な資料が展示してあったり。
クリまるが大好きな蒲生氏郷のおしゃれな燕尾の兜も見れました。音譜

そして2層には藩主の居間が再現してあって・・・

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こんな写真もとれます。グッド!
本陣ではイメージできなかった容保公もこのお座敷ならぴったりですな。


そして最上階からは会津の町並みが見渡せます。
飯盛山を眺めてみれば・・・・

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白虎隊自刃の地(矢印)も見る事が出来ます。
南側を見ると。

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2000年に復元された南走長屋と干飯櫓が見えます。
南走長屋は武器庫、干飯櫓は食料庫だったそうです。



この南走長屋を中から見れば。

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なにやら甲冑を来たお兄さんがみえますが、武将隊・・・・ではなく、新島八重の紙芝居をやってる方でした。
ちょうど始まるところで「見て行きませんか?」と声をかけられたけど、先を急ぐんでパス。

来年の大河ドラマが「八重の桜」という事で、飯森山でも八重、八重、八重・・・って感じだったけど、ここでも新島八重 大プッシュ!
兄 覚馬の影響で八重は女性ながら鉄砲が扱えました。
それで当時日本にあった鉄砲の説明が書いてあるパネルがあったんだけど、スペンサー銃の説明がちょっとツボった。

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はずだったって・・・実際はどうだったん?(笑)

会津が使ってたのはスペンサー銃より性能の悪いミニエー銃やゲベール銃なわけですが、こんな感じで撃つんですな。

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さて、天守閣から外に出て城内散策。

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こちら鉄門(くろがねもん)
奥御殿に通じる表門で扉や柱が鉄で包まれていたところから鉄門といわれる。
この上が走長屋になってる。右側の石垣の上が南走長屋。


こんなのも見れます。

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「武者走り」と呼ばれる石垣に作られたV字型の階段。
大手門の渡り櫓へ簡単に昇り降りできるための階段だとか。
でも見ると結構急勾配でしかも階段の幅が狭い。
これを甲冑来て昇り降りするんはなかなか怖い気がする・・・



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この赤い橋は廊下橋。
本丸と二の丸を繋いでる橋なんだけど二の丸はテニスコートになってました~。あせる


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廊下橋がかかっているお堀。
なかなか深くて水もたっぷり。



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こちら鐘撞堂(かねつきどう)。
会津戦争で籠城戦になった時にも正確な時を告げ、お城の外にいる味方兵を勇気づけたそうです。
鐘をつく人が撃たれても別の人が鳴らして開城の時までずっとなり続けたとか。



さて、城内には鱗閣という茶室があります。

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なんで城内に茶室があるかと言うと・・・

千利休が秀吉の怒りにふれ切腹した際、利休の茶道が途絶えてしまうのを惜しんだ蒲生氏郷が利休の子 少庵を会津に匿い秀吉に千家再興を願いでました。
そのおかげで少庵は京都に戻り千家茶道は現代まで伝えられる事となったのです。
蒲生氏郷がいなければ、表千家も裏千家もなかったわけです。
その少庵が会津に匿われている間に氏郷の為に造ったと言われているのが鱗閣なのです。

床柱には少庵自らが削ったと言われる赤松が使われています。

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この鱗閣、明治になって鶴ヶ城が取り壊されることになった時、貴重な茶室を失うのを惜しんだ石州流会津怡渓派の森川善兵衛(指月庵宗久)さんという方が自宅へ移築。
以来、森川家の方々が120年に渡りずっと管理していたそうですが、平成2年に会津若松市制90年を記念して鶴が城内の元の場所に移築したと言う事です。

氏郷少庵ゆかりの茶室を見ながらお抹茶をいただきました~。(別料金500円)


いやいやホント見所満載の鶴ヶ城。
3時間半かけて回った訳がお分かりかな?
っていうより、この記事最後まで読んだひといるんか?(長過ぎ!!)

こんな素敵に現代に蘇った鶴ヶ城ですが、会津戦争の直後は焼け落ちなかったものの、大量の砲弾を受けボロボロだったわけです。
その当時の写真がありました。

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明治5年頃撮影とあるので取り壊しになる直前の写真でしょう。
もうあちこち穴が開いてたり、瓦が崩れてたり・・・
痛々しくて涙が出そうでした。

市民の願いがかなって天守閣が再建されたのが1965年。
2011年 赤瓦に葺き替え、幕末当時と同じ姿になりました。
容保公も美しい天守閣を見て喜んでいらっしゃることでしょう。ニコニコ