庭園は錦江湾、桜島を借景とする名園なので雨模様だった2日目は、あえて行かずに天気が良くなるのを待って最終日に訪れました。
受付を入ると、まず島津義弘公の甲冑がお出迎え。
さらにこんなボードが・・・
日本人でもWelcomeしか理解できんちゅうの。
「ゆくさ、おさいじゃったもした」って・・・
薩摩と会津じゃ会話ができんわけやね。
入ってすぐに目を引くのが鉄製150ポンド砲!
砲の向こう側を歩いている人と比べるとその巨大さがわかっていただけるかと。
後に見える石垣は反射炉跡なんですが、その反射炉で造られたもっとも大きな大砲です。
1863年の薩英戦争では、2砲の150ポンド砲が威力を発揮したそーです。
1863年といえば、まだ新選組が出来たばっかりの頃。
このころにこんなでっかい大砲作ってたんやね~。
恐るべし薩摩。
1851年、島津斉彬が薩摩藩主になると、西洋式の溶鉱炉 反射炉を作って鉄製の大砲を鋳造したのです。(それまでの大砲は青銅製)
というのも薩摩は1840年代から通商をもとめる西洋からの圧力をうけていたため、日本の他の地域より危機感が強かったためです。
当時の反射炉はこんな感じだったらしい。
反射炉の中はこんなふう。
反射炉跡など、ふつうの観光客はざっと見て写真の1枚もとればとっとと先へ進んで行くのに、わたしとツレはあっちから、こっちから、いろんな角度から眺め、説明の看板を見ては再度、実物を見て確認したり・・・ ここですでにかなりの時間を費やしてしまった。
お庭へ行かねば!
お庭へ行く途中にレストランがあるんだけど、その石垣が素敵~。
大きな竜舌蘭やらシュロの木やらが石垣の中に植わってて、いかにも南国っぽくておもしろかった。
そして、いよいよ仙巌園の入口。
当時の仙巌園の様子。 すぐそこまで海が迫っていたそうです。
庭木の手入れも大変です。クレーン車出動。
昔は、梯子使ってやってたんですかね。
いづれにせよ大変な作業です。
錫で瓦を葺いた朱塗りの門。仙巌園の中門で、かつては当主と嫡男のみが通る門だったそーです。
灯籠の上に逆立ちした獅子がのってます。
明治20年代にここで暮らしていた30代当主・島津忠重の幼少のころ立てられた端午の節句幟を再現したもの。
設置場所は当時と同じで、その頃は海岸の砂浜だったそうです。
6月3日までだったので、ちょうど幟が見れる最終日でした。
御殿の内部は別料金で入る事ができます。
ガイドとお抹茶の接待付き。
もちろん拝見しました。
以前、日野に行った時に、日野本陣にこの島津家別邸につかわれているのと同じ釘隠しがあるというお話をしたのを覚えてますか?(覚えてる人のほうが少ないだろ?)
詳しくはこちら→ 日野日記1(日野本陣)
これを見とかないとね。
ありました!
残念ながら撮影禁止なんで写真はないんですが、確かに廊下の釘隠しは日野本陣の「鉄ちゃんの部屋」にあったのと良く似たコウモリの釘隠しでした。
「良く似た」というのは、記憶が定かではないんですが、以前日野本陣で見たものとは少し形が違うような気がしたんで・・・
コウモリの釘隠しなんて珍しい!って思ってたんですが、実はそうでもないらしい。
コウモリは福を呼ぶ動物として縁起が良いので、わりと使われてるそうです。
同じ物が日野本陣と島津家別邸にあったとしてもそれほど不思議ではないのかも。
ちょうど見頃です。

ちょっと雲がかかってて良く見えないけど、仙巌園は桜島を築山に、錦江湾を池に見立てた壮大な借景庭園なのデス!
ガイドさんの説明を聞いて、お抹茶とお菓子をいただいたら、お庭の散策の続きであります。
お庭はまだまだ見るとこがいっぱいあるんですが、今日はここまで。
まだ終らない薩摩日記。いつまで続く・・・

















