先週月曜日になったら電話します。と言ってたんですが…
結局今日まで電話できませんでした・゜・(ノД`)・゜・
なんでなんでしょうね…自己嫌悪になります。
数ヶ月待ちになるだろうなーと思っていたのですが、
来週の金曜日に受診できることになりました!よかったーー!
それでも期間が空きすぎて忘れそう
今まで何度病院や美容院とかの予約すっぽかしたことか…
生きてるのが申し訳なくなりますね。
先週月曜日になったら電話します。と言ってたんですが…
結局今日まで電話できませんでした・゜・(ノД`)・゜・
なんでなんでしょうね…自己嫌悪になります。
数ヶ月待ちになるだろうなーと思っていたのですが、
来週の金曜日に受診できることになりました!よかったーー!
それでも期間が空きすぎて忘れそう
今まで何度病院や美容院とかの予約すっぽかしたことか…
生きてるのが申し訳なくなりますね。
こんにちは三月です。
とりあえず病院を受診するまでを考えてみたいと思います。
とりあえず今成功しているところまで書きますね。
①受診する病院を決める
とにかく大人の発達障害を見てくれそうというネットの情報をしらみつぶしに調べる。
これは…ヽ(´o`;
もっとどうにかわかりやすく最新版の情報を…役所の人…
しかし精神科の初診を受けるには電話を使わねばなりませんね。
もう心が折れそうです。
②予約をする
なんとかかんとか汗垂らしながら電話をかけました。
家の近くの病院に電話をしてみたのですが…
発達障害はうちじゃないほうがいいと言われました。
3歩下がる。
しかし!予約担当の方がとてもいい人でした。
前そこにいた先生がやってる病院が発達障害に向いていると教えていただきました。
2歩進む!
早速電話をかけようとするも休診日。
月曜日にまた出直します。
先ほどの病院でも次の予約は7月だと言われました。
まあまあ田舎ですがやっぱりこんなものなんですね…
仮に予約できても忘れるよ…(´・ω・`)
高校編の続きです。
その後も母との逃亡劇でした。
実家にいたくなくて夜間外出。彼氏の家に母が迎えに来たことも多々ありました。
迎えに来たとは可愛い表現でドアを突き破らんばかりに叩き絶叫するのですが。
おかげで今でもその夢をみて目覚めます。
もう5年近く会ってない母が突然うちに現れ私を旦那から引き離す夢を。
頻度はかなり減りました。昔はその夢をみては泣いて過呼吸を起こすほどでした。
やっと18歳なった私は家を出て彼氏とも別れルームシェアに入居しました。
その後趣味の集まりのようなもので友人だった現旦那と付き合うようになり、同棲が始まりました。
が、ここで問題が発生します。
そう。私は家事がまったくできません。
ADHDはもちろん母が家事なんかより勉強をしろとまったく家事を教えてくれなかったのです。
とにかくネットで家事のやり方を調べやってみるのですが…
マルチタスクがまったくできない上にどの順番でやったらいいのかもわからない。
正社員でもなく夜間のきついバイトをしていたためどんどん家はゴミ屋敷に。
旦那が出来たらよかったのかもしれないのですが旦那は生活できたらOKの人でした。
私を叱らない代わりになにもしてくれませんでした。
旦那も当時超ブラック企業に勤めておりメンタルもおかしくなってました。
その後数年付き合い結婚。
新婚ですが状況は変わらず。
私が電子レンジの蓋がどうしてもしめれないことで大喧嘩しました。
電子レンジの蓋をあけて中身を取り出したらしめることを忘れてるんですよね。
だって熱いし。
そんなこんなでやっていきつつも妊娠。出産。
可愛い娘が産まれてからこの子だけはまともに育てないといけないと決意。
すべてのことを放棄して娘にミルクをやることおむつかえることお風呂に入れること。
それだけを気をつけて細心の注意を払ってました。
幸いうちの子はとてもいい子でよく飲みよく眠る子でした。
私がどうしてもミルクをやれないときは旦那があげてくれました。
友達にもめぐまれてほんとなんとかやってました。
娘を保育園に入れ働き始めたのですが、普通にパンク。
娘が熱を出すたびに会社に休みをもらう電話ができずに退職。
電話恐怖症なんです。本当に仲のいい友達と旦那しか電話できないです。
私必ず遅刻するので予定を1時間繰り上げて仕事に行ってました。
一時間前に着く予定でそれに間に合わないので始業の20分前に着く、というやり方です。
それでも会社に結局行けず娘が保育園大好きなので、辞めさせず専業主婦してます。
小さいことで陰口広められて友達ごっそり減りました。
もともとそこまで友達でもなかったんでしょうかね。知らず知らずのうちに嫌われるので。
追いつきましたね。私の半生でした。
自分もフラッシュバックするかもと怖がってましたがそうでもなかったです。
意外と覚えてませんでした。嫌な記憶は脳が消去するって言いますしね。
これからのことは診断を受けるまでに更新していきます。
中学編②の続きです。
なんとか現役で高校にいけた私でしたが気に入った学校でもなく私は本当に荒れてました。
親戚は進学校!と浮かれて自慢していましたがすごい手のひら返しでした。
そして讃えられるのはたいてい母でした。母が私を支え合格させた、というものでした。
私はなんだかんだいって高校を楽しんでいたのですがやっぱり授業はさっぱり。
成績もさっぱり。じきに学校に遅刻するようになり、午後から行くようになりました。
それでも部活は好きでした。かわいがってくれる先輩。仕事を任される責任感。
しかし顧問が問題でした。顧問はなぜか私だけを下の名前で呼びだしたのです。
もちろん変な噂がたったり男子にからかわれたりしはじめました。
それでその教師の授業にでなくなりました。国語好きだったんですけどね。
結局数学と英語が赤点で追試に落ちたら留年と言われました。
補修を受けて追試を満点で通過したらしく担任にめちゃくちゃ叱られました。
やればできるんだったらもとからやれ、と。その数学の先生はいい先生でした。
ギリギリで進級し無事2年生に。可愛い後輩も入ってきて部活も兼部しはじめました。
友達に人がたりないからと頼まれ軽い気持ちで入部したのですが、とても楽しかったです。
その年我が部は運良く地区大会から九州大会に出場。
練習で遅くなる日が続きました。
すると母は帰りが遅いと文句を言い始めました。
学校がうちから遠かったのです。
母は土曜日などに無理やり私を連れ出し練習に参加させないようにした上、
顧問にクレームを入れたようでした。
結局九州大会ではメンバー交代。私は出場できませんでした。
私は本当に本当に我慢の限界でした。
家に帰ればなぜか叔父の家でご飯を食べさせられ家族だろ!とヘラヘラ言われる
叔父に背中をかいてくれと言われるのが本当に苦痛でした。
年頃の女の子が突然沸いたようなおじさんの背中をかけるわけない。
私は遂に家出をしたのでした。
後輩の友達と紹介された男の子の家に転がりこみました。
母からは絶対に足のつかない子でしたし。
そこの家はお母さんが一緒に住んでおらずたまに帰ってくる程度でした。
そしてお母さんがとても私に良くしてくれたのです。
ご飯を作って持ってきてくれたり挙句の果てに旅行まで連れて行ってくれたのです。
いろいろやりました。原付2ケツしたりゲーセン閉店まで遊んだり。
捕まるようなことはしませんでしたけどねw
人生で味わったことない自由でした。
実家で常に感じてた頭痛や吐き気不眠など消え去ったようでした。
しかしついに警察がやってきたのでした。
私は補導…になるのかな?とにかく警察に連れて行かれ母たちが待っていました。
祖母や叔父たちは無事でよかったと白々しい顔をしていました。
私は警察に今までのことを話しましたがその時17歳数ヶ月。
施設に入ってもいいけどすぐでることになる。
付き合ってる男の子もいることだしもうすこし我慢したほうがいいと。
でもよく頑張ったね。と婦警さんに言われたとき少し泣いてしまいました。
母たちの反応は腫れ物に触るような反応になり私は正式に高校を退学しました。
ひとり立ち編に続きます。
中学編①の続きです。
母は父のDVで離婚としたいようで(まあ正しいんですけど)いろいろ準備していました。
私は高校はもう公立に行くつもりでした。成績が下がりすぎて特待免除がなくなっていたからです。
私は父と母とどっちについていくかという選択を迫られ母につくことに決めたのでした。
なぜなら父と行けば父方のど田舎実家に行くことはわかりきっていましたし、
母なら暴力を振るわれてももうやり返せると思ったからです。
母と私が出ていきしばらく協議していたようですが離婚が成立したようでした。
母方の祖父がもうお金とかどうでもいいからとにかく離婚しろと言ったことが決め手だったようです。
母との二人暮らしが始まったその日、母はこう言いました。
「今日から離婚したからママが一番えらい。ママの言うことが正しい。なんでも聞け」
私は母をドンっと突き飛ばしました。我慢の限界でした。
しかしここは母の実家。
母の両親。兄弟。甥姪たちが暮らしている家。
私はたまーに来てた外孫と言わんばかりでした。
母の涙ながらの証言により私は「母親に暴力を振るう問題児」となったのでした。
叔父のヘラヘラ笑って「家族だから!」と同調させてくるのが本当に嫌いでした。
家族なんて言葉ばかり、わたしの父親面して「女なんだから家事しろ!」というだけでした。
そして高校受験の勉強が始まったのですが、父から離れたことで少し勉強できるようになった私にまた母が壊れたようでした。
県で一番の高校に入学しろ!と言ってきたのです。
そこはほとんど男の子の学校。進学前提。
私は早く就職して家を出たかったので高専に行くつもりでした。
うちの県の高専はかなりレベルが高いのですが世間知らず昭和脳の母が「女の子だからだめ」と。
一番の高校行って九大か京大にいけ!と言い出しました。
確かに少し頑張れば高校には合格できそうでしたが、塾での三者面談で先生が、
「もし落ちて滑り止めいってももったいないし娘さんの希望校で問題ないかと」と言ってくれたのですが母の返事はとんでもないものでした。
「落ちたら一浪すればいいので。」
母は高校浪人しろと言ってきたのです。さすがに私も先生も大反対。
もめにもめて私もやる気をなくし一つランクをさげた進学校に入学しました。
高校編に続きます。
小学校高学年②の続きです。
中学に入学した私はちょっとギクシャクはしたものの上手くクラスでやっていってました。
私立なので育ちがいい子が多かったんだと思います。
今までにないほど楽しい学校生活でした。
そして私は全く勉強できなくなっていました。
燃え尽き症候群なのかとも思いましたが、いい加減わたしの身体が限界だったのでしょう。
机に座って授業を聞いても頭に入ってこないどころか頭痛と眠気が襲って来るようになりました。
そしてなぜか体育がとても厳しい学校でした。
運動音痴でいままでまったくまともに運動してこなかった私はついていけませんでした。
私たちの何個か下の学年でようやくクレームが出て真逆に楽な体育になったようでしたが。
体育の次の授業なんてまともに出れたもんじゃなかったです。
父は成績の下がった私が許せないようでした。
母は中学に入ってから私を殴ることをやめました。自分が殴られることを恐れてたんでしょう。
毎日帰ってきたら食卓に座らされカバンを開けられます。
友達と仲良く休み時間に書いた落書きやお手紙が出てこようものなら椅子から蹴落とされ踏みつけられました。
毎日授業のノートをチェックされましたがノートなど綺麗にとれていません。
授業まともにきけないのですから。
食事もとれず夜遅くまで私への尋問が続き、やっと終わった頃冷め切った夕食が出てくるのでした。
私はインターネットにのめり込みはじめました。
ニコニコや携帯小説全盛期でしたし私には現実逃避が必要でした。
こっそりパソコンを使う日々。聞けない授業。勉強なんてまったくできてませんでした。
テスト前に一夜漬けをし得意教科だけ点数を取る感じでした。
ある時テストが終わり「どうだった?」と父に聞かれたのですが、
その時の数学は自分的にはかなり出来がよく「最後が自信ないけどあとは結構出来たと思う」と答えたのです。
数日後テストが帰ってきた日父が帰りの車の中で「数学かなりできたんだろ」と言いました。
私が「やっぱり最後はだめだったけど点数は良かったよ」と答えると父は路肩に車を停めました。
父は「あの時完璧だと言ったじゃないか」と今までにないほど怒っていたのです。
夜の暗い道で停められたワンボックスのなかでどうして嘘をつくのかと殴られ続けました。
あの時以来私は暗所恐怖症になりました。暗い部屋で寝ることができません。
いまだに夢に見るほどです。
旦那と付き合ってから今気強く一緒に寝てくれ、
今では豆電球くらいで寝ることができるようになりました。
4年ほど前までは全灯して眠っていました。見事に睡眠障害とPTSDでした。
そういうことが多々有り母はようやく父が怖くなったようでした。
離婚にむけて動き出しました。
中学編②に続きます。
小学校高学年①の続きです。
母は全てのストレスを私の勉強に当て始めました。
朝起きたら学校に行く前に母の用意したドリルをやる。
ただ学校に行くのに遅刻する私が学校に間に合うわけありませんでした。
学校が部活がない日は直帰して母と勉強。
そして塾に行き勉強。帰ってきて復習。
母は反抗する私を壁際にたたせ問題を出し間違えると辞書を投げつけてきました。
頭をかばうせいで両方の指の小指をひどく突き指し両方とも曲がっています。
突っ張るせいでピアノも弾けなくなりました。
そして父に三月が私の言うことを聞かない!これを見て!と言い出し、
つきっきりで勉強する様子をビデオカメラで撮影するようになりました。
正直どういう精神状態でこの頃を過ごしていたのか思い出せないのです。
こうしていたどうしていたどうされた、ということは覚えているのですけどね…
自分がどういう気持ちだったのか嫌だったのか全く覚えていません。
学校でもちょくちょく問題を起こしていたように思えますが家の中が壮絶すぎて覚えていません。
当時思っていたのですが、我が家からは毎日毎晩叫び声や泣き声、怒鳴り声何かが壊れる音がしていたはずです。
一戸建てでしたがおとなりも裏もお向かいも普通に密集地帯。
見て見ぬふりだったのでしょうね。
今でも虐待の事件が起こるとご近所さんが泣き声や怒鳴り声がしていた…と悲しそうにインタビューに答えていらっしゃるけど、誰も児童相談所に通報しないんですね。
もしかしたら防げたかもしれないのに。あなたのその一言で。
もしちょっとでもおかしいと思ったら通報してください。子供は自分でなんとかできません。
日本の法律はまだまだ親子関係重視です。殺されてからでは遅いんです。
ある時部屋で勉強してたとき少し休憩しようと机にうつぶせていたんです。
すると掃除をしていたらしい母が突然なにかで殴ってきたのです。
鋭い痛みに手を当てると手が真っ赤でした。
ゴミを集めていた袋で私を殴ったようで空き缶が入ってたようでした。
母は見たことがないほど慌てて私を風呂場に連れて行きました。
「もし血が止まらなかったら病院に行かないといけない」
「ただ病院に行くとママは捕まる。ママは悪くないけど。」
私はわけもわからずわかったと言い頭はかさぶたができたままでした。
その数日後父がなにかで逆上した時私を殴ろうとしたのですが、母が私をかばったのです。
いままでなかったことに父もびっくりしたのでしょう。どうしたと尋ねても母は答えません。
私が「この前お母さんが殴ってきたとき怪我して血が出たんよ」と言った時の母の絶望した顔は忘れられません。
その後母はとてつもなくひどく父に殴られたようでした。
そして母は気付くのです。
自分が父に殴られて、自分が娘を殴るより、直接娘を殴らせて自分は黙っていようと。
とにかくそんな2年間が過ぎて行きました。
私は私立一貫の中学に無事特待合格。小学校を卒業したのでした。
中学編①に続きます。
小学校中学年②の続きです。
引越しをして父と母の地元の小学校に転校しました。
父も転職したようでした。
転校先で待っていたのは今までのとは比べ物にならないいじめでした。
関西圏から九州への転校。言葉も全然違い学年中の生徒が私を見に来ました。
最初は面白がっていただけでしたがそこにいるのは面白くもなんともないどんくさい女の子。
○○菌などと言われもうみんな体も大きい高学年。暴力もありました。
そしてなにより担任が本当にハズレでした。
昔はよくいたちょっと変なおばさん教師。私を本当に嫌っているようでした。
誰も通らない別棟の控え室に私を連れて行きヒステリックに怒鳴り散らす先生。
「あなたみたいなのは誰からも好かれないし、いることが迷惑です。」
と言われたのを覚えています。
そして母は異常な教師崇拝。家でのことを先生に逐一報告。
先生はそのことを面白おかしくホームルームでみんなに伝える。
いじめられないわけありませんでしたし、逃げ場が本当にどこにもありませんでした。
そして私はこのまま中学校にあがったら死んでしまう。と考え、中学受験を申し出るのです。
幸い成績はよかったし特待で行くから、と。
母は大変喜びました。父も別にいいようでした。
そして有名塾に通い始めました。
新しい環境。勉強自体は楽しかったです。知らないことをたくさん覚えること。
そして学校と違いおもしろおかしい授業をする先生が好きでした。
しかし遂に母が完全に壊れたようでした。
当時はもちろんわかりませんでしたが嫁姑でいろいろもめていたようです。
確かに父方の祖母はいい人ではありませんでした。孫差別もすごかったですし。
母はよく、「どうしてあんなババアの味方をするのか!」と私を叱りましたが当たり前です。
決して自慢できるいい祖母ではなかったが、私には優しくおこずかいをくれるのです。
母より嫌いなわけがありませんでした。
当時の私は母を憎んで憎みきっていました。殺してやりたいと思うことすらありました。
そしてそれにつられるように父もおかしくなっていきました。
昔より家にいることも増えたし母と祖母の板挟みだったのでしょう。
存在感のない父も十分私や母に暴力を振るうようになりました。
夫婦喧嘩で流血や母が怪我することが増えました。
私は母が可哀想など全く思わず自業自得お互いに殺し合ってくれとしか思ってませんでした。
母は毎日私の部屋の粗探しをし、隠し事などを見つけると父に報告し、二人で私を叱責していました。
私は勉強している間だけ両親や先生や同級生から逃れることができたので、どんどん成績があがっていったのでした。
小学校高学年②に続きます。
小学校中学年①の続きです。
この頃父は全く家に帰ってなかったように思います。
仕方ないですよね。家に帰れば妻が娘を張り倒し怒鳴って娘は泣く。
仕事終わって帰ってきて休まるわけがありません。
母に連れられ残業だという父の会社まで押しかけたことがあります。
もちろん会社は真っ暗。誰もいません。ヒステリックに叫び電話をかける母。
母は相当おかしくなっていたのでしょう。
そしてあの事件から母の虐待のレベルはかなり上がりました。
物を使うことがあたりまえになっていました。
虐待って子供が意外と耐えてしまいどんどんエスカレートするそうですね。
私は音楽を聴きながらでしか眠ることができなくなっていました。
毎日ラジオやCDを聴きながら眠り、何度も目が覚め、朝を迎えていました。
ADHDが関係あるのかはわかりませんが、私は大変偏食で少食でした。
体も小さくガリガリでした。でもご飯をたべさせてもらってないと言うことはありませんでした。
母は異常な程家事が完璧だったのです。
食べることが遅かったんですよね。
マルチタスクができずについてるテレビを見てしまうと箸が止まるのです。
口にものが入っていても咀嚼が止まるのです。
その度に叩かれたり怒鳴られたりされたせいで食事そのものが嫌いでした。
給食ももちろん完食できず昼休みまで残されることがほとんどでした。
私はもう死にたいと思うことが増えていました。
ここから飛び降りたら死ねるかな、包丁を刺せばいいのかなと時々ですが考えていました。
そしてある日父が言ったのです。
「遠くに引っ越してもいいか?」
今の状況がどうにかなるのか!と私は二つ返事で了承しました。
しかしこれが地獄のはじまりでした。
小学校高学年①に続きます。
小学校低学年②の続きになります。
中学年になり宿題忘れ物以外はかなりどうにかなるようになっていました。
片付けも絶望的でしたがw
ピアノと学習塾と右脳教育を掛け持ちし始めた私は徐々に疲れていきました。
まずピアノについて。
私は軽く絶対音感的なものがあったようで先生が弾いたお手本を覚え弾いていました。
何が問題かというと楽譜をみて弾くことができないんです。
細かい指順は強弱が守れず注意されていました。あと一回で弾けるので反復練習せず。
もちろん毎日練習することなんてできるわけありませんでした。
学習塾は新しく始めたのですが学校が終わりひとりで電車を乗り継ぎ。
帰りは塾の友達と一緒に電車で帰宅していました。
私は3年生にして塾で居眠りするようになっていました。成績は優秀でした。
習い事の掛け持ちに家でも勉強させられ叩かれ叱られ泣く日々。
身体がもつわけないですよね。
ある日事件が起こりました。
学習塾で男の子が先生に提案したのです。
ゲームを持ってきていいか?休み時間しかやらないし行き帰りの電車が暇だと。
先生は授業中にやらないならとOKを出しました。
そして次の土曜の日私は塾にゲームを持って行きました。
授業も終わり家に帰るとかなり怒っている母。
母は私が家にいない間いつも部屋を漁って私のことをチェックしていたのです。
先生が許可を出したという私の言い分は聞いてもらえず
いつも通りヒステリックに怒鳴り散らしている母ですが今日は少し違いました。
手に父が日曜大工に使う分厚い長いプラスチック定規を持っていたのです。
それを私にしばらく叩きつけました。
いつもの叩く蹴るとは次元の違う痛みで、普段なら軽く赤くなるか痣になる程度でしたが、
身体中内出血のひどい痣ができました。母もさすがにやりすぎたと思ったのでしょうか。
夏だったのですがしばらく体が隠れる服を着させられました。
頭も良くニュースなどもよく見ていた私は遂に気付くのです。
これは躾ではなく虐待だと。
小学校中学年②に続く。