会いたいと思った夜に、会えるわけじゃない。
それは最初からわかっていた。
声が聞きたいと思ったときに、電話できるわけでもない。
次に会える日が、二週間先、いや一ヶ月、二ヶ月先にになることだってある。
それでも私たちは、なんでもないくらい無邪気に、会うたびによく笑っていた。
「今日、何してた?」
「仕事」
「それは知ってる。笑」
「じゃあ、ずっと君のこと考えてた」
「嘘つきー。でも嬉しいな」
「本当、半分ほんと」
「半分なんだ。笑」
「仕事しないと叱られちゃうからね」
そんな他愛のないやり取りを、飽きもせず繰り返す。
「会いたいね」
「会いたい」
「いつ会えるかな」
「もう少し」
「うん」
それ以上は言わない。
無理を言えば困らせることも、急かしたところで何も変わらないことも、二人ともわかっているから。
だから私たちは、会えない時間まで大切にする。
朝の「おはよう」。
昼間に届く、どうでもいい写真。
仕事終わりの「疲れた」。
今日美味しかったもの。嬉しかったこと。
眠る前の「おやすみ」。
その全部に、ほんとうは「好き」が隠れている。
一人の部屋で冷えた空気に包まれる夜は、想いの行き場をなくして途方に暮れることもある。
それでも消えることなく、ベガとアルタイルのように互いのほうへ真っ直ぐと、離れていても同じ夜空を見上げていた。
そして、やっと訪れたその日。
街の喧騒の中、遠くに彼を見つけただけで、冷えていた胸の奥がじんわりと温かくなり、思わず笑顔が綻ぶのがわかる。
彼も私を見つけると、同じような柔らかい笑みを浮かべて近づいてきた。
「久しぶり」
すこし隠った低い声と、かすかな体温が近づくだけで、会えなかった何日分もの「好き」が、一気に押し寄せてくる。
隣を歩く。
同じものを食べる。
くだらないことで笑う。
ときどき目が合う。
なにげない日常のなかに彼がいる。
ただそれだけのことが、どうしようもなく嬉しくて、たまらなく愛おしくて。
「楽しい?」と彼が聞く。
「うん!すごく」
「ボクも」
そしてすぐに「好き」と彼が言う。
永遠なんて約束しない。
未来の話もしすぎない。
ただ、今日も好きで、次に会える日もきっと好き。
それで十分だった。
帰りの駅。
改札の電子音が近づくにつれて、二人とも少しだけ歩く速度が遅くなる。
ホームに響く足音が、名残惜しさを刻むようにゆっくりになっていく。
あと一分。
そんなことを口にはしないけれど、きっと二人とも同じことを考えている。
「じゃあね」
「うん。またね」
さよなら、とは言わない。
彼は改札を抜ける。
その先には、彼が帰るべき日常がある。家族がいて、彼を待つ暮らしがあって、私の知らない彼の時間がある。私はそれを奪おうとは思わない。
彼があちら側の人であることは、最初から知っていた。
それでも、今日、私を見つけた瞬間に笑った顔も、目が合うたびに嬉しそうに笑った顔も、幸せそうに何度も「好き」と言ってくれた声も、全部、嘘じゃない。
人はきっと、ひとつの場所だけで生きているわけじゃない。
守る場所があって、帰る場所があって、それとは別に、どうしようもなく心が向かってしまう場所がある。
改札を抜けて数歩進んだところで、彼が振り返った。
人の流れの向こうから私を見つけて、ほんの少し笑う。
私も笑った。
追いかけないし、引き止めない。
彼は彼の大切な場所へ帰る。それでいい。
少なくとも今日、彼が私を好きだったことを、私はちゃんと知っている。
そして私も、今日一日、どうしようもないくらい彼が好きだった。
それだけで、充分すぎるほど幸せだった。
ポケットの中でスマホが震えた。
『もう会いたい』
思わず吹き出した。まだ姿が見えるのに。
『私も』
そう返すと、遠くにいる彼がスマホを見て笑った。
顔を上げて、もう一度、私を見る。また目が合った。ほんとうに、最後の最後までよく目が合う。
私は小さく笑って、今度こそ彼の背中を見送った。
やがて、その姿が人混みに紛れていく。
私も踵を返した。
次に会えるのは、また少し先。
でも大丈夫。
明日の朝になれば、きっとまた何事もなかったように「おはよう」から始まる。
そしてその短い言葉の中に、今日より少しだけ大きくなった「好き」が隠れている。
帰る場所が違っても、同じ未来を約束できなくても、今日、二人で笑った時間はなかったことにはならない。
会えない日のほうが多い恋なのに。
まるで遠く離れた星と星が、ひとつの星座を描き夜空を彩るように。
不思議なくらい、いつも私たちは恋のド真ん中にいた。