美紗子は横を向いたまま、じっと座っている。槙野は彼女が落ち着くのを待っている。槙野は辛抱強い方だが、なぜか美紗子のことになると焦りを感じてしまう。仕事では全く普段と変わらないように見えるが、最近はずっと自分を避けているような気がしていた。高藤と話している間も、彼女のことが気にかかって集中できなかった。高藤に自分の話をちゃんと聞いているのかと言われる始末だ。
「怒ったり泣いたり、今度は私を無視している。人間不信になったのは、私のせいなのか?君が困ったことがあったら、助けたいと思っているというのに…。私を信じられないとは、とんだお笑い草だな…」横を見たまま黙り込んでいる美紗子を見て溜息を吐く。「余計なお世話か…。時間の無駄だな、引き留めて悪かった。久しぶりにデートができたと勘違いするとは…。いや、デートではないな、嫌がる相手と食事するのはデートとは言わないからな…」
槙野は車から降り、彼女のためにドアを開けた。美紗子は前に立っている槙野を見上げて目を細めた。美紗子の視線を避けるように、槙野は横を向いて彼女が車から出るのを待っている。美紗子は何か言わなければと焦った。その拍子につい言ってしまった。
「あの…。コーヒーでもどうですか?」
「こーひー?」槙野は意味もなくつぶやくように言った。突拍子もない美紗子の言葉に驚き困惑する。どう受け止めたらいいのか…。
「駄目ですか?」
「自…自販機で買って来よう」
槙野はドアを閉めようとするが…。
美紗子はそれを遮るように、槙野の腕に手を伸ばす。
「いえ、そうじゃなくて。私の部屋で飲みませんか?」
槙野は混乱したままで、思考はストップし、崩壊寸前だった。だが、どうにか答える。
「いや、やめておこう。今日はもう遅いし…」
美紗子は顔を赤らめ、それを隠すために両手で口を覆った。これでは槙野に、男を簡単に部屋へ連れ込む、軽い女だと思われてしまう。
「そうですよね。もう遅いですし…」美紗子は慌てて車から出た。しどろもどろになりながらわけもなく早口に言う。「今日は…どうも・・・ご、ごちそうさまです…。それに、あの…」
「美紗子さん落ち着いて…」槙野は美紗子の両肩に手を置く。
「私、今日はどうかしているんです。ごめんなさい」
美紗子は怯えたように槙野を見上げた。槙野はいつになく落ち着きをなくした美紗子が、自分が発した言葉に戸惑い焦っている様子、その表情や仕草がとても愛おしく思えて仕方なかった。
「おかしいのは君じゃなくて、この私だよ。驚かせて悪かった。すまないが許してほしい」
変なのはわかっているが、この気持ちだけはどうしようもない。ただ、彼女を抱きしめたいだけだ。槙野は美紗子を引き寄せて抱きしめた。
「槙野…さん?」美紗子は槙野に抱きしめられて呆然とする。
「君といるとおかしくなる。どうしたらいいのかわからなくなるんだ。でも、はっきりしていることがある。僕は君が好きなんだ、どうしようもなくね」
これって、もしかして告白…?
この人がこの私を好きだって言っているの?
聞き間違い?それとも本気?
美紗子は両腕の力が抜け、そのまま槙野に寄り掛かった。美紗子は二人の胸の鼓動が、激しく波打つのをはっきりと感じ取っていた。
次の朝、いつもより一時間も早く目が覚めた。
早く目が覚めても、前日の出来事はまるで現実ではなく、夢を見ていたにすぎないと思えてくる。ぼんやりして顔を洗うのも、歯を磨くのも時間がかかってしまった。髪を梳く手を止めては、我に返って髪を梳く。そんな状態ではやたらと時間がかかってしまう。
「あ!もうこんな時間。もう行かなきゃ…」美紗子は慌てて部屋を飛び出す。
確かに、告白された。槙野に抱きしめられたこともはっきり覚えているのに…。でも、それ以上のことは何もされていない。あの後、彼はあっさりと抱擁を解いてしまった。
そして、また明日と言ってさっさと車に乗り込み、私を置き去りにして行ってしまった。自分が言いたいことだけ言って、さっさと帰るなんて酷くない?
昨夜のことは忘れて仕事しなくては…。だけど、槙野とどう接すればいいのかしら…。美紗子は息を吸い込んでドアを開けた。本当に嫌だわ…。
「おはようございます」
「おはよう…」
槙野はすでに仕事を始めていた。パソコンを覗き込んで熱心に仕事をしている。昨夜の事などなかったかのように、ただいつものように淡々と働いている。
「おはよう、お二人さん」
高藤もいつもと変わらない様子で入ってくると、すぐさま槙野の方へ向かった。美紗子は高藤を目で追った。槙野は相変わらずパソコンと向き合っている。あれこれと気をもんでいるのは私だけだ。
「そうそう、今日の接待は君たち二人で頼むよ。先方は営業部の部長は抜きになるから、まあ、商談はすでに成立しているし気楽にやってくれよ。お二人さん、後のことは頼むよ。私は会長に呼ばれて会食に出るから…」
高藤は暢気にそう言うと、書類に目を通し始めた。槙野は高藤の方に目を走らせたが、すぐさまパソコンの画面に視線を戻した。美紗子は立ち上がると、二人の為にコーヒーを用意する。
高藤は美味しそうにコーヒーを飲んで満足げだ。槙野はコーヒーを口にすることなく仕事を続けている。美紗子に対しては心ここにあらずで、コーヒーを差し出した時も、美紗子など眼中にないかのように目を合わせなかった。いつもならありがとうと言って笑みを浮かべるのに、今日は何の反応も見せない。
美紗子は資料室へ向かった。もう溜息しか出ない。槙野の沈黙が美紗子のイライラを募らせる。資料室の前に来ると、ジュース販売機でコーヒーを買い、すぐそばの椅子に座った。コーヒーを掌で包むと再び溜息が出る。コーヒーを飲んでいると資料室から里中が出てきた。
「あら、遠藤さんじゃない。こんなところで何しているの?」
里中は女性秘書の中で最も優秀で、一番の美人と有名だ。美紗子は彼女の横にいると、いつも自分が貧弱で、彼女の引き立て役のような気分になる。
「ちょっと、息抜きです」
「あら、珍しいわね。でも、わかるわ。我儘な上司を相手にしていると、確かに疲れるわね」里中は美紗子の横に座った。
「私は秘書には向いてないとつくづく思うの…」
「ずいぶんと弱気になっているわね」
「また以前の部署に戻ることはできないのかしら…」
「本気で言っているの?そりゃ、秘書って世間が思っている以上に大変な仕事だけど、その分やりがいもあるでしょう」
「それはあなたのような優秀な秘書だから言えることでしょう。私は接客の仕事をしている時の方がやりがいを感じてたわ…」
「槙野さんと何かあったの?」里中は探るような眼差しを向けた。
「どうしてそう思うのですか?」
「専務は自分の気持ちを隠すような人ではないし、あなたを本気で傷つけるようなことはしないと思うわ。特に心を許した相手には、真正面から向き合うような人よ。真っ直ぐで…」
里中は気づいていないかもしれないが、高藤のことを話す時はとてもやさしい眼差しになるのだ。
「でもねえ。ただ一人の人を思い続けるような一途な人なのよ」
「思い続けるのは勝手だけど、そろそろ別の恋をしてもいい頃じゃないですか?」
「大丈夫よ。女の方がほっとかないでしょう。見かけも悪くないし…。それに、あの会長がこのまま黙って見ていると思う?自分が気に入った女性を押し付けようと躍起になっているみたいだし…」里中は溜息を吐いて立ち上がる。
「そうでしょうね」あの会長ならやりかねない。悪い人ではないのだけれど…。
里中は同意するように頷いた。そして、思い出したかのように、美紗子を軽く睨んで言った。
「ねえ、あなたにはぐらかされたような気がするけど…」里中は軽く肩を竦める。「まあいいわ。それじゃあお先に…」里中は美紗子に手を振った。その表情は華やかなでぱっと花が咲くようだ。
美紗子は里中の後姿を眩しげに見つめた。女である私でさえ、彼女ほどの美人が前から歩いてきたら、羨望の眼差しを向けることだろう。
商談はすでに成立しており、細かなことを打ち合わせが行われ無事終了した。その直後、取引先の男子社員の一人から声を掛けられた。その男性は、美紗子の中学時代の同級生であることが分かった。特に親しかったわけではないが、彼は同じクラスの女子生徒から人気があった。懐かしさもあって、十分ほど話をする。彼からいつか同窓会をしようと名刺を渡された 同級生と話をしている間、槙野も取引先の社員と話をしていた。美紗子は話が終わるまで槙野を待っていた。槙野は仕事に徹しており、商談が始まる前にも後にも美紗子にほとんど声を掛けなかった。必要以上のことは一切話さないのはいつもこのことだが、今日はいつにも増して無口だった。そんな槙野の態度に美紗子は困惑するばかりだった。
槙野は美紗子に近づくと軽く頷いた。そして、駐車場まで来ると、助手席のドアを開けた。美紗子は少しためらってから車に乗り込んだ。槙野はドアを閉めると運転席に乗り込んだ。
「無事に打ち合わせも終わったようだな、相手の男子社員と話をしていたようだけど、君の知り合いだったのか?」
「ええ、中学時代の同級生でした。初めは気が付きませんでしたけど、打ち合わせが終わった時に話しかけられて…」
「そういうこともあるんだな…」
美紗子は急に話しかけられて驚いてしまった。いつもと変わらない槙野の口調に美紗子は戸惑った。
「社に戻って報告書を書くことにしよう。君は明日の予定を確認して、その準備をしておいてくれ…」
「はい、わかりました」
「今日、仕事が終わったら何か予定があるかい?」
「え?…。別にありませんけど…」
「それなら、食事でも…。良かったら…だけど」
美紗子は思わず槙野を見返す。槙野は真っ直ぐに前を見ている。その横顔はどこか緊張しているように見えた。
「もしかしたら、また倉田さんが待ち伏せしているかもしれないし…」
「冗談はやめてください」
「冗談?」槙野は思わず大きな声を上げた。
「私、倉田さんのような既婚者と付き合う気はありません。あんな人と食事するなんてとんでもないわ・・・」美紗子の声は震えていた。
「美紗子さん?何を考えている。ん?」
美紗子は口元を抑えて笑いをこらえていたが、思わず噴き出して笑い出した。ずっと不機嫌だった槙野が、急にあらたまって自分を食事に誘った。急に態度を変え不安そうに自分を見る槙野を見て、ついからかってみたくなったのだ。
「笑いすぎだ。私をからかったんだな…」
「ごめんなさい。朝から槙野さんの態度が変だったから、私は不安だったんです。昨日の事だって…」
「悪かったと思っている。あの時の言葉は嘘ではないが、焦りすぎて君を驚かせてしまった」
「ええ、とても驚きました。でもうれしかった。槙野さんのような人に好きだって言われて悪い気はしませんから…」
「ありがとう。今日も食事に付き合ってくれるかい?」
「ええ、喜んで…」