美紗子はいつもとは違う方向のバスに乗り込んだ。今から会うことになっている相手のことを思うと気が重かった。すぐにでも逃げ出したいところだがそういうわけにもいかない。
バスを降りると、すぐ目の前に迫ってくるようにホテルが聳え立っていた。そう見えるのは普通なら絶対足を踏み入れない場所だからだろう。どう考えても自分には似つかわしくない高級ホテルだ。
ホテルの最上階にあるレストランへ向う。エレベーターに乗り込むと、気持ちがなえそうで、今すぐにでも引き返したくなる。しかし、無常にも扉はゆっくりと閉じられた。
相手はすでに席に着いて美紗子を待っている。気楽な相手なら手を振るところだが、気楽なファミリーレストランではなく、格式のあるホテルのレストランでそんな振る舞いをすれば顰蹙を買いそうである。それにしても、もう少しましな服装で来ればよかったと、後悔してももう遅い・・・。緊張して足がガクガクしそうになるのをどうにかこらえる。
「お待たせして申し訳ありません」
「会長も先ほど来られたのよ。約束の時間より早いから・・・」
「素敵なレストランですね」
緊張のせいか自分でも何を言っているのかわからなくなる。落ち着こうと思うのだが上手くいかない。高藤会長の表情はよく読めない。
「初めて会った時の挑むようなあの態度は虚勢か?あの威勢の良さは見る影もないな」
美紗子は言葉もなく高藤会長を見返すことしかできなかった。自分でもあの時どうしてあんなに落ち着いていられたのか今もって理解できないのだから。しかし、次の瞬間、まるで嘘のように落ち着きを取り戻すことができた。
「あの時はわけもわからずいきなり呼び出されたからです。確かに私は高藤デパートの一社員にすぎませんが、だからといって会長の横柄な態度を許す事はできません。それに、会長ははじめから私に偏見をお持ちのようでした。雇い主だからといって黙っているつもりはありません」
里中はこの状況をどうしたものかと二人を代わる代わる見比べるばかりである。美紗子は目を逸らせば負けだと思った。しかし、高藤会長の表情には変化が・・・。
「フム、確かに思い違いをしていたかも知れんな」
「会長?」里中は面食らう。会長ともあろう方があっさり認めてしまうなんて・・・。
「今日は会長にお聞きしたいことがあります」
「いきなり本題に入るのかね」
「あの時のことを蒸し返すためにここへ来たのではありません。起きてしまった事を今更くどくどお話したところで意味はありませんので・・・」
美紗子は高藤の前に通帳を差し出す。その通帳は河内幸子のものだ。
「なんだね。これは・・・」
「見て頂けば分かります」美紗子は怯むことなく高藤を見返した。
「河内幸子の通帳のようだが・・・」高藤は通帳を取り訝しげに美紗子を見た。
「そうです。まったく手付かずの通帳です」
「確かに、引き出した様子はない・・・」
「それを見てどう思われますか?」美紗子は高藤がどのような反応を見せるかをじっと見守った。
「これは、どういうことだ?」内心驚いていても顔には出さず、高藤は淡々と答える。
「気が付かれましたか?」
「そんなことより何故これを君が持っているのかね」
「彼女が亡くなった後でした。私の元に彼女からの荷物が届き、その中に彼女からの手紙も入っていました。ロッカーにある荷物を家族の元に届けてほしいという内容でしたが、黒いバックだけは私に持っていてほしいと書かれてありました。その通帳はそのバックにあったものです」
「彼女は君に何を言いたかったのか分かるかね」
「彼女からのメッセージには幾つもの謎が秘められているようです。彼女が私に何を望んでいたのか、今はそれを見つけようと思っています。その過程で気付いたことがあります。会長とお会いした後で通帳を見て違和感がありました。引き出した記録がないことが不自然でした。振り込まれた期日は記帳されているのに、それ以降引き出されてはいないのです。おかしいと思いませんか?」
「おかしい?どうしてどこがおかしいのかしら?」里中は理解できないでいた。
「私が送金するよう支持したが、この金額ではないという事だ」
「誰かが横取りしたという事になりますね」
里中は通帳を高藤から受け取る。金額を見てもすぐには分からなかった。でも、確か・・・。そうよ、金額が違う・・・。まさか・・・
「許しがたい事だが、そういうことになるな・・・」
美紗子には高藤の声にふつふつとした怒りが滲んでいるように聞えた。信頼していた相手に裏切られたと感じてもおかしくはない。
「お気持ちは分かります。こんなことが許されていいはずがありません」
「彼女が君に預けたのは正解だった。そうしなければこのことが明るみになることはなかっただろう」
「私がこのことをお話したのは、分かってほしかったからです。彼女はこのお金に手をつけることはしなかった。もし、手につけていたら、彼女が欲に駆られて人の気持ちを踏みにじる人間だという事になります。でも、彼女はそうしなかった。受け取ったのはあなたを納得させる為でしょう。結婚もその為なのかもしれません」
「彼女が結婚?」
美紗子は驚いている二人を見て溜息をついた。何故気付かなかったのだろう。私も、口にしてようやく分かるなんて・・・。
「彼女が亡くなる前日に私のところに電話がかかってきました。自分はもうすぐ結婚すると・・・。でも、彼女は次の日に自殺してしまいました」
「信じられない話だ。結婚を控えていながら何故自殺を・・・」
「私にも分かりません。前日の電話のことがあったので、彼女が自殺したと聞いても信じられませんでしたし・・・」
「彼女の葬儀には・・・」
「ええ。同僚も何人か来ていました。彼女のご両親にお悔やみを言いましたが、遺書もなく、家族の方も彼女が自殺した理由についてご存じなかったようです」
「家族にも遺書を残さなかったということは、彼女が何故自殺したのか誰もわからないのかね」
「今のところ誰も知らないと思います。理由は分かりませんが、確かな事は彼女が自分の意思で自ら命を絶ったという事実です。手紙にもそう書かれていましたから・・・。自分が死んだ後のことを考え、私にメッセージを残しています。これは私の想像に過ぎませんが、彼女はすでに覚悟を決め綿密に計画して実行したのです。私に最後の望みを託したのかもしれませんが、私にとってそれはパンドラの箱を開けるようなものでした」
「その手紙はどうした。他の誰かにその手紙を見せたことは?」
「読み終えた後に焼いてしまいました。彼女がそれを望んだので・・・」
「何故そんなことを・・・。それではその手紙が存在した事を証明できないのでは?」
「彼女が望んだ事ですし、私もその手紙を誰かに見せようとは思いません。それに、他の人が読んでも意味のないことです」
「君の話はにわかに信じがたい」
「彼女の手紙が存在する事を私が知っていればいいことです。信じてもらう必要はありません。そんなことより重要なことがあります。彼女の望みに対してどう応えるかということです」
「それなら、どういうつもりで手紙のことを私に聞かせたのかね」
「手紙が届かなかったら、この通帳の存在を私が知ることはなかったはずです。そうでなければ私がこの通帳を持っていること自体おかしいではありませんか。そこまで説明しなければ分かりませんか?なんでもお金で解決できるという傲慢な考え方をするあなたが哀れです」
高藤の顔に激しい怒りの表情が浮かんでいる。怒りを煽るように美紗子は怯むことなくさらに強い口調で言った。
「ジュニアと別れさせる為に手切れ金を彼女に渡し、あなたは傲慢かつ卑怯なやり方で二人の関係を壊した。会長はそれですべてかたがついたと思っていたはずです。でも、彼女はあなたに屈したわけではありません。受け取ったふりをしながら、一切手をつけなかったのは彼女の強い意思があったからでしょう」
「どうしてそんなことが君に分かるのだ。事実、彼女はお金を受け取ったではないか・・・」
「彼女が彼に近づいたのはお金目当てとでも言うのですか?あなたは彼女の何を知っているのですか。それに、二人がどうやって出会ったのかご存知ですか?」
「何処でどう出会ったかどうかは関係ない。高藤の後継者の相手に彼女はふさわしくはなかった。それだけの理由だ。彼女も分かっていたようだが・・・」
「二人の気持ちなどどうでも良かったわけですね。なんでも思い通りになると思っている。ずいぶんと傲慢な事・・・。世界は自分中心に動いているとでも?」
「安藤さん、言いすぎよ」
里中は爆発寸前の高藤をどうなだめたらいいのか必死で考えるがただ焦るばかりだった。美紗子は一触即発のこの状況をどう切り抜けるつもりなのか・・・。だが、予想とは違い高藤の声は落ち着いていた。
「普通に考えれば、彼女の方が裏切ったというべきだろう。彼女は別の人間と結婚する事になっていたのだからね。本気で愛していたのなら何故別の男と結婚する。矛盾しているではないか・・・」
「ええ、そうです。確かに、彼女からの手紙には一言もそれについて触れられていません」
高藤の言う通り、河内幸子の行動については矛盾だらけだ。美紗子は深く息を吸い込んだ。さっきまで責めるような口調だった美紗子は声を和らげた。
「実を言うと彼女のことがあってから、私は振り回されてばかりいます。どういうわけ社内で一番河内幸子と親しくしていた社員ということになっていました。そんな中で出会ったのが槙野さんです。詳しい事は省きますが、彼は彼女の事をよく知っているようでした。彼女から私のことは聞いていると彼は言います。私には信じられないことでした。なぜなら、彼女と親しくしていた時期はとても短い間だけ、その時のことはほとんど覚えていません。彼女のことは表面上のことしか知らず、時々噂に上ることはありましたが、仕事場で会うこともほとんどなく、すれちがったとしても気付かなかったかもしれません」
高藤はそれでと言うように美紗子に話をするように促す。里中は眉をひそめて美紗子を見つめた。美紗子は高藤との出会いや、恒例のクリスマスパーティーでの事、その後に起きた出来事をかいつまんで二人に話す。いくつかは省略した。話せないこともいくつかあるからだ。
「私にとってごく普通だった日常が、思わぬことに巻き込まれてしまいました。彼女のことがなかったら、出会うこともなかった人たちに振り回されることもなかったはずです。こうして会長と会うことなど、以前の私には考えられない事です。それでも混乱した日常とどうにか折り合っていこうと努力していますが、これ以上巻き込まれたくないという気持ちも正直あります。彼女の真意がどうであれ、この通帳は会長にお渡しすべきかと・・・。これをどう使われるかはお任せします。大変失礼な事を申し上げ、心からお詫びします」
美紗子が去った後、高藤会長はしばらく無言のまま、テーブルの上に手を組み合わせていた。目を閉じて考えをまとめているようだ。里中はさっきまでの緊迫した空気に飲み込まれたままじっとそこに座っていた。
「何と言うことだ。これは調べる必要がありそうだ。里中君に調べてもらうことがある。はっきりさせておかなければ・・・」
「え?」
「安藤美紗子といったな、侘びを言わねばならないのは私のようだ」
「会長?」
「彼女はたいした女性だ。私は気に入ったよ。身近に置いておく方がこちらも都合がいいというものだ。事務でも、電話の応対でもいい・・・。ともかく、槙野や高藤専務の傍で働いてもらう事にしよう。そっちの方も・・・里中君よろしく頼むぞ」
里中は唖然と高藤会長を見つめた。
高藤会長は満足げに頷く。それもニヤニヤして・・・。
聞き間違いよね・・・。こんなめちゃくちゃなこと、現実だとは思えない。この人はとんでもないことを企んでいる。それにこんな生き生きした会長を見たことがない。安藤さんにどう説明すればいいのかしら・・・。彼女の日常がますます混乱してしまうに違いない。これからのことを考えると頭が痛い里中であった。
バスを降りると、すぐ目の前に迫ってくるようにホテルが聳え立っていた。そう見えるのは普通なら絶対足を踏み入れない場所だからだろう。どう考えても自分には似つかわしくない高級ホテルだ。
ホテルの最上階にあるレストランへ向う。エレベーターに乗り込むと、気持ちがなえそうで、今すぐにでも引き返したくなる。しかし、無常にも扉はゆっくりと閉じられた。
相手はすでに席に着いて美紗子を待っている。気楽な相手なら手を振るところだが、気楽なファミリーレストランではなく、格式のあるホテルのレストランでそんな振る舞いをすれば顰蹙を買いそうである。それにしても、もう少しましな服装で来ればよかったと、後悔してももう遅い・・・。緊張して足がガクガクしそうになるのをどうにかこらえる。
「お待たせして申し訳ありません」
「会長も先ほど来られたのよ。約束の時間より早いから・・・」
「素敵なレストランですね」
緊張のせいか自分でも何を言っているのかわからなくなる。落ち着こうと思うのだが上手くいかない。高藤会長の表情はよく読めない。
「初めて会った時の挑むようなあの態度は虚勢か?あの威勢の良さは見る影もないな」
美紗子は言葉もなく高藤会長を見返すことしかできなかった。自分でもあの時どうしてあんなに落ち着いていられたのか今もって理解できないのだから。しかし、次の瞬間、まるで嘘のように落ち着きを取り戻すことができた。
「あの時はわけもわからずいきなり呼び出されたからです。確かに私は高藤デパートの一社員にすぎませんが、だからといって会長の横柄な態度を許す事はできません。それに、会長ははじめから私に偏見をお持ちのようでした。雇い主だからといって黙っているつもりはありません」
里中はこの状況をどうしたものかと二人を代わる代わる見比べるばかりである。美紗子は目を逸らせば負けだと思った。しかし、高藤会長の表情には変化が・・・。
「フム、確かに思い違いをしていたかも知れんな」
「会長?」里中は面食らう。会長ともあろう方があっさり認めてしまうなんて・・・。
「今日は会長にお聞きしたいことがあります」
「いきなり本題に入るのかね」
「あの時のことを蒸し返すためにここへ来たのではありません。起きてしまった事を今更くどくどお話したところで意味はありませんので・・・」
美紗子は高藤の前に通帳を差し出す。その通帳は河内幸子のものだ。
「なんだね。これは・・・」
「見て頂けば分かります」美紗子は怯むことなく高藤を見返した。
「河内幸子の通帳のようだが・・・」高藤は通帳を取り訝しげに美紗子を見た。
「そうです。まったく手付かずの通帳です」
「確かに、引き出した様子はない・・・」
「それを見てどう思われますか?」美紗子は高藤がどのような反応を見せるかをじっと見守った。
「これは、どういうことだ?」内心驚いていても顔には出さず、高藤は淡々と答える。
「気が付かれましたか?」
「そんなことより何故これを君が持っているのかね」
「彼女が亡くなった後でした。私の元に彼女からの荷物が届き、その中に彼女からの手紙も入っていました。ロッカーにある荷物を家族の元に届けてほしいという内容でしたが、黒いバックだけは私に持っていてほしいと書かれてありました。その通帳はそのバックにあったものです」
「彼女は君に何を言いたかったのか分かるかね」
「彼女からのメッセージには幾つもの謎が秘められているようです。彼女が私に何を望んでいたのか、今はそれを見つけようと思っています。その過程で気付いたことがあります。会長とお会いした後で通帳を見て違和感がありました。引き出した記録がないことが不自然でした。振り込まれた期日は記帳されているのに、それ以降引き出されてはいないのです。おかしいと思いませんか?」
「おかしい?どうしてどこがおかしいのかしら?」里中は理解できないでいた。
「私が送金するよう支持したが、この金額ではないという事だ」
「誰かが横取りしたという事になりますね」
里中は通帳を高藤から受け取る。金額を見てもすぐには分からなかった。でも、確か・・・。そうよ、金額が違う・・・。まさか・・・
「許しがたい事だが、そういうことになるな・・・」
美紗子には高藤の声にふつふつとした怒りが滲んでいるように聞えた。信頼していた相手に裏切られたと感じてもおかしくはない。
「お気持ちは分かります。こんなことが許されていいはずがありません」
「彼女が君に預けたのは正解だった。そうしなければこのことが明るみになることはなかっただろう」
「私がこのことをお話したのは、分かってほしかったからです。彼女はこのお金に手をつけることはしなかった。もし、手につけていたら、彼女が欲に駆られて人の気持ちを踏みにじる人間だという事になります。でも、彼女はそうしなかった。受け取ったのはあなたを納得させる為でしょう。結婚もその為なのかもしれません」
「彼女が結婚?」
美紗子は驚いている二人を見て溜息をついた。何故気付かなかったのだろう。私も、口にしてようやく分かるなんて・・・。
「彼女が亡くなる前日に私のところに電話がかかってきました。自分はもうすぐ結婚すると・・・。でも、彼女は次の日に自殺してしまいました」
「信じられない話だ。結婚を控えていながら何故自殺を・・・」
「私にも分かりません。前日の電話のことがあったので、彼女が自殺したと聞いても信じられませんでしたし・・・」
「彼女の葬儀には・・・」
「ええ。同僚も何人か来ていました。彼女のご両親にお悔やみを言いましたが、遺書もなく、家族の方も彼女が自殺した理由についてご存じなかったようです」
「家族にも遺書を残さなかったということは、彼女が何故自殺したのか誰もわからないのかね」
「今のところ誰も知らないと思います。理由は分かりませんが、確かな事は彼女が自分の意思で自ら命を絶ったという事実です。手紙にもそう書かれていましたから・・・。自分が死んだ後のことを考え、私にメッセージを残しています。これは私の想像に過ぎませんが、彼女はすでに覚悟を決め綿密に計画して実行したのです。私に最後の望みを託したのかもしれませんが、私にとってそれはパンドラの箱を開けるようなものでした」
「その手紙はどうした。他の誰かにその手紙を見せたことは?」
「読み終えた後に焼いてしまいました。彼女がそれを望んだので・・・」
「何故そんなことを・・・。それではその手紙が存在した事を証明できないのでは?」
「彼女が望んだ事ですし、私もその手紙を誰かに見せようとは思いません。それに、他の人が読んでも意味のないことです」
「君の話はにわかに信じがたい」
「彼女の手紙が存在する事を私が知っていればいいことです。信じてもらう必要はありません。そんなことより重要なことがあります。彼女の望みに対してどう応えるかということです」
「それなら、どういうつもりで手紙のことを私に聞かせたのかね」
「手紙が届かなかったら、この通帳の存在を私が知ることはなかったはずです。そうでなければ私がこの通帳を持っていること自体おかしいではありませんか。そこまで説明しなければ分かりませんか?なんでもお金で解決できるという傲慢な考え方をするあなたが哀れです」
高藤の顔に激しい怒りの表情が浮かんでいる。怒りを煽るように美紗子は怯むことなくさらに強い口調で言った。
「ジュニアと別れさせる為に手切れ金を彼女に渡し、あなたは傲慢かつ卑怯なやり方で二人の関係を壊した。会長はそれですべてかたがついたと思っていたはずです。でも、彼女はあなたに屈したわけではありません。受け取ったふりをしながら、一切手をつけなかったのは彼女の強い意思があったからでしょう」
「どうしてそんなことが君に分かるのだ。事実、彼女はお金を受け取ったではないか・・・」
「彼女が彼に近づいたのはお金目当てとでも言うのですか?あなたは彼女の何を知っているのですか。それに、二人がどうやって出会ったのかご存知ですか?」
「何処でどう出会ったかどうかは関係ない。高藤の後継者の相手に彼女はふさわしくはなかった。それだけの理由だ。彼女も分かっていたようだが・・・」
「二人の気持ちなどどうでも良かったわけですね。なんでも思い通りになると思っている。ずいぶんと傲慢な事・・・。世界は自分中心に動いているとでも?」
「安藤さん、言いすぎよ」
里中は爆発寸前の高藤をどうなだめたらいいのか必死で考えるがただ焦るばかりだった。美紗子は一触即発のこの状況をどう切り抜けるつもりなのか・・・。だが、予想とは違い高藤の声は落ち着いていた。
「普通に考えれば、彼女の方が裏切ったというべきだろう。彼女は別の人間と結婚する事になっていたのだからね。本気で愛していたのなら何故別の男と結婚する。矛盾しているではないか・・・」
「ええ、そうです。確かに、彼女からの手紙には一言もそれについて触れられていません」
高藤の言う通り、河内幸子の行動については矛盾だらけだ。美紗子は深く息を吸い込んだ。さっきまで責めるような口調だった美紗子は声を和らげた。
「実を言うと彼女のことがあってから、私は振り回されてばかりいます。どういうわけ社内で一番河内幸子と親しくしていた社員ということになっていました。そんな中で出会ったのが槙野さんです。詳しい事は省きますが、彼は彼女の事をよく知っているようでした。彼女から私のことは聞いていると彼は言います。私には信じられないことでした。なぜなら、彼女と親しくしていた時期はとても短い間だけ、その時のことはほとんど覚えていません。彼女のことは表面上のことしか知らず、時々噂に上ることはありましたが、仕事場で会うこともほとんどなく、すれちがったとしても気付かなかったかもしれません」
高藤はそれでと言うように美紗子に話をするように促す。里中は眉をひそめて美紗子を見つめた。美紗子は高藤との出会いや、恒例のクリスマスパーティーでの事、その後に起きた出来事をかいつまんで二人に話す。いくつかは省略した。話せないこともいくつかあるからだ。
「私にとってごく普通だった日常が、思わぬことに巻き込まれてしまいました。彼女のことがなかったら、出会うこともなかった人たちに振り回されることもなかったはずです。こうして会長と会うことなど、以前の私には考えられない事です。それでも混乱した日常とどうにか折り合っていこうと努力していますが、これ以上巻き込まれたくないという気持ちも正直あります。彼女の真意がどうであれ、この通帳は会長にお渡しすべきかと・・・。これをどう使われるかはお任せします。大変失礼な事を申し上げ、心からお詫びします」
美紗子が去った後、高藤会長はしばらく無言のまま、テーブルの上に手を組み合わせていた。目を閉じて考えをまとめているようだ。里中はさっきまでの緊迫した空気に飲み込まれたままじっとそこに座っていた。
「何と言うことだ。これは調べる必要がありそうだ。里中君に調べてもらうことがある。はっきりさせておかなければ・・・」
「え?」
「安藤美紗子といったな、侘びを言わねばならないのは私のようだ」
「会長?」
「彼女はたいした女性だ。私は気に入ったよ。身近に置いておく方がこちらも都合がいいというものだ。事務でも、電話の応対でもいい・・・。ともかく、槙野や高藤専務の傍で働いてもらう事にしよう。そっちの方も・・・里中君よろしく頼むぞ」
里中は唖然と高藤会長を見つめた。
高藤会長は満足げに頷く。それもニヤニヤして・・・。
聞き間違いよね・・・。こんなめちゃくちゃなこと、現実だとは思えない。この人はとんでもないことを企んでいる。それにこんな生き生きした会長を見たことがない。安藤さんにどう説明すればいいのかしら・・・。彼女の日常がますます混乱してしまうに違いない。これからのことを考えると頭が痛い里中であった。
