その日はよく晴れた気持ちの良い朝だった。特別何かが起きるような予感は露ほどになかった美紗子に、思いがけないことが待っていた。
「あなたにとっては災難というしかないけど・・・。ともかく私についてきて」
「何が災難なんですか?」
「ついてくれば分かるわ・・・」
エレベーターに乗り込んでから、里中は美紗子に視線を投げかけた。何か言いたげだが、思い直したのか前を向いて目的の階のボタンを押した。美紗子はただ里中の背中を見つめるしかなかった。
里中は背筋を伸ばし、息を吸い込んでからドアをノックする。美紗子はドアにあるネームプレートを見て目を見張った。里中は心の準備もできていない美紗子に構わずドアを押し開いた。
「失礼します」里中は良く通る声で言った。
美紗子が目にしたのは二人の男性だった。一人はこちらを向き、もう一人は窓側に立ち背中を向けている。背を向けていても男が誰かは美紗子にも分かった。
「意外だな、君がここへ来るなんて・・・」
少しも意外そうには見えないわねと、里中は疑視して男を見る。
「会長からお話があったはずですが・・・」
「里中君、ずいぶんと怖い顔して・・・。まあ、こちらへ来て座ったらどうだろう」
何が起きたのか、飲み込めない美紗子だった。どうして私はここにいるのだろうか・・・。
「安藤さんはここへ来るのは初めてだね」
「誰もがここに入れるわけがありませんでしょう。高藤専務」里中は冷めた声で言う。
「相変わらず君は言うことがきついね」高藤は肩をすくめる。
言われるがまま美紗子はソファーに座る。里中は座らずに、窓側に立つ男の方を見た。
「槙野、何を考えているんだ。君もこちらへ来たらいいだろう」
槙野は声を掛けられ振り返る。その時初めて美紗子の存在に気付いたかのように目を瞬いた。
「二人が入ってきたことさえ、まったく気付かなかったみたいだな・・・」
「ああ、ちょっと考え事をしていた」不安げな美紗子に対して、槙野はまっすぐに視線を向けてくる。「安藤さんはどうしてここへ来たのか分かっているのかな・・・」高揚のない調子で槙野は言った。
「いえ、わかりません」美紗子はゆっくりと頭を振った。
「安藤さんは何も知りません」
「説明も無しに連れて来たのか?」高藤に面白がるような声が滲む。
「説明したところで、彼女がすんなりと受け止めると思います?」
「私個人としては嬉しい事だがね・・・」高藤は同意を求めるように槙野に視線を投げかける。
「そうだろうな、君が望んでいた事だからね」
いったい何の話なのか飲み込めず戸惑う美紗子をよそに、高藤はこの状況を喜んでいる様子だし、槙野は妙に落ち着き払っている。
「まあ、ともかく私の思い通りにことが進んで喜んでいるよ」
「それは結構なことですこと・・・」里中は皮肉を込めて言った。
三人は美紗子がそこにいないかのように話している。入り込む余地などまるでない。何のためにここへ連れられてきたのか分からず苛立つばかりだった。そんな美紗子の心を読んだように槙野は里中に向かって言った。
「安藤さんに説明するべきと思いますが・・・」
「そうですね。安藤さんは今日から槙野さんの補佐についていただきます」
美紗子は一瞬にして頭の中が真っ白になる。意味がさっぱりわからない。いや、分かりたくなかった。
「高藤専務のスケジュールを完全に把握しておいてください。会議や接待にも同行する事になると思います」
何がなんだか分からない。この展開はいったい・・・。美紗子はソファーから立ち上がることもできそうにない。全ては人事のことのように思えて仕方がない。これは現実なのか・・・。美紗子の動揺を槙野は冷めた目で見つめる
「君専用のデスクに、必要な物は用意している。控え室にある私物は全てここへ移すといい。今日は色々準備があるだろうから特別な仕事はしなくていい。急に決まったことだから、君も戸惑っているだろうが、この状況に慣れてもらうしかない」
あなたは何でそうも冷たい言い方をするの?美紗子は槙野に救いを求めていた。だが槙野は美紗子を突き放す。
高藤は満面の笑みを浮かべている。美紗子が困惑していることなどお構いなしだ。「前に言った事を覚えているだろう?槙野は反対したが、これで私の思い通りになったわけだ。よろしく頼むよ」
よろしく頼む?冗談じゃないわ!里中の言う災難とはまさにこのことだったのだ。
「待ってください!」美紗子はソファーから立ち上がる。
「いまさらジタバタしても遅いのよ。これは会長じきじきの決定だから、あなたはそれに従うしかない」里中は突き放すように言った。
「納得できません。こんな事・・・」
槙野は追い討ちをかけるように、抗議をしようとする美紗子を遮った。
「納得しようがすまいが、決定は覆らない。覚悟を決める事だ」
「高藤専務、会長がお呼びです。後のことは槙野さんにお任せします」
「あなたにとっては災難というしかないけど・・・。ともかく私についてきて」
「何が災難なんですか?」
「ついてくれば分かるわ・・・」
エレベーターに乗り込んでから、里中は美紗子に視線を投げかけた。何か言いたげだが、思い直したのか前を向いて目的の階のボタンを押した。美紗子はただ里中の背中を見つめるしかなかった。
里中は背筋を伸ばし、息を吸い込んでからドアをノックする。美紗子はドアにあるネームプレートを見て目を見張った。里中は心の準備もできていない美紗子に構わずドアを押し開いた。
「失礼します」里中は良く通る声で言った。
美紗子が目にしたのは二人の男性だった。一人はこちらを向き、もう一人は窓側に立ち背中を向けている。背を向けていても男が誰かは美紗子にも分かった。
「意外だな、君がここへ来るなんて・・・」
少しも意外そうには見えないわねと、里中は疑視して男を見る。
「会長からお話があったはずですが・・・」
「里中君、ずいぶんと怖い顔して・・・。まあ、こちらへ来て座ったらどうだろう」
何が起きたのか、飲み込めない美紗子だった。どうして私はここにいるのだろうか・・・。
「安藤さんはここへ来るのは初めてだね」
「誰もがここに入れるわけがありませんでしょう。高藤専務」里中は冷めた声で言う。
「相変わらず君は言うことがきついね」高藤は肩をすくめる。
言われるがまま美紗子はソファーに座る。里中は座らずに、窓側に立つ男の方を見た。
「槙野、何を考えているんだ。君もこちらへ来たらいいだろう」
槙野は声を掛けられ振り返る。その時初めて美紗子の存在に気付いたかのように目を瞬いた。
「二人が入ってきたことさえ、まったく気付かなかったみたいだな・・・」
「ああ、ちょっと考え事をしていた」不安げな美紗子に対して、槙野はまっすぐに視線を向けてくる。「安藤さんはどうしてここへ来たのか分かっているのかな・・・」高揚のない調子で槙野は言った。
「いえ、わかりません」美紗子はゆっくりと頭を振った。
「安藤さんは何も知りません」
「説明も無しに連れて来たのか?」高藤に面白がるような声が滲む。
「説明したところで、彼女がすんなりと受け止めると思います?」
「私個人としては嬉しい事だがね・・・」高藤は同意を求めるように槙野に視線を投げかける。
「そうだろうな、君が望んでいた事だからね」
いったい何の話なのか飲み込めず戸惑う美紗子をよそに、高藤はこの状況を喜んでいる様子だし、槙野は妙に落ち着き払っている。
「まあ、ともかく私の思い通りにことが進んで喜んでいるよ」
「それは結構なことですこと・・・」里中は皮肉を込めて言った。
三人は美紗子がそこにいないかのように話している。入り込む余地などまるでない。何のためにここへ連れられてきたのか分からず苛立つばかりだった。そんな美紗子の心を読んだように槙野は里中に向かって言った。
「安藤さんに説明するべきと思いますが・・・」
「そうですね。安藤さんは今日から槙野さんの補佐についていただきます」
美紗子は一瞬にして頭の中が真っ白になる。意味がさっぱりわからない。いや、分かりたくなかった。
「高藤専務のスケジュールを完全に把握しておいてください。会議や接待にも同行する事になると思います」
何がなんだか分からない。この展開はいったい・・・。美紗子はソファーから立ち上がることもできそうにない。全ては人事のことのように思えて仕方がない。これは現実なのか・・・。美紗子の動揺を槙野は冷めた目で見つめる
「君専用のデスクに、必要な物は用意している。控え室にある私物は全てここへ移すといい。今日は色々準備があるだろうから特別な仕事はしなくていい。急に決まったことだから、君も戸惑っているだろうが、この状況に慣れてもらうしかない」
あなたは何でそうも冷たい言い方をするの?美紗子は槙野に救いを求めていた。だが槙野は美紗子を突き放す。
高藤は満面の笑みを浮かべている。美紗子が困惑していることなどお構いなしだ。「前に言った事を覚えているだろう?槙野は反対したが、これで私の思い通りになったわけだ。よろしく頼むよ」
よろしく頼む?冗談じゃないわ!里中の言う災難とはまさにこのことだったのだ。
「待ってください!」美紗子はソファーから立ち上がる。
「いまさらジタバタしても遅いのよ。これは会長じきじきの決定だから、あなたはそれに従うしかない」里中は突き放すように言った。
「納得できません。こんな事・・・」
槙野は追い討ちをかけるように、抗議をしようとする美紗子を遮った。
「納得しようがすまいが、決定は覆らない。覚悟を決める事だ」
「高藤専務、会長がお呼びです。後のことは槙野さんにお任せします」
高藤と里中が出て行ってしまうと、美紗子はソファーに力なく座り込んだ。一方、槙野は腕を組んで美紗子を見下ろすように立っていた。
「何故黙っていた」
「何のことを言っているのですか?」
「会長を呼び出し、何をするつもりだった」
「それをどうしてあなたが知っているのですか?」
「河内幸子の通帳をわざわざ見せたそうだね」
「誰がそれを・・・」
「以前に君は高藤会長に呼び出されたそうだね。その時に会長が手切れ金を河内幸子の通帳に振り込ませたと聞いた」
「ええ、その通りよ。あなたにもあの通帳を見せたけど、あなたには金額を見たところで分かるわけがない。でも、私はいくら振り込まれたかを事前に聞かされていたから妙だと思った。会長が直接振り込んだわけじゃないことも分かっていたから、それができた人間は誰なのか、会長は知っているはずと思って・・・」
「君は自分が何をしたのか理解しているんだろうね。許されない事だが、横領した人間がこのことを知ったら君に何をするか分からないぞ」
「彼女が手切れ金を受け取ったというだけで、彼女は少しも手をつけていない。それはいつか返すつもりだったからだと思うの。それなのに、横領するなんて許せない。彼女は潔白だと会長に分からせたかった」
「彼女は亡くなったんだ。いまさら何になると?高藤はようやく立ち直りかけている、彼女の死を受け入れて、前向きに生きていこうとしている。もしこの事を知ったらどうなるか考えてみてくれ・・・」
「それは・・・・」
「会長が手切れ金を渡したことは絶対知られてはいけない。通帳のことについては里中が調べている。お金の流れについては目星がついている。横領した人間は、これが初めてというわけではない、おそらく他にも出てくるにちがいない。明確になればそれなりの制裁を受ける事になるだろう。この件について君は何も知らない、絶対関わってはいけない。わかるね」
槙野は余計な穿鑿はするなと美紗子に対して忠告しているのだ。もう美紗子には手に負えない。これ以上踏み込む事はできない、全て高藤会長の手に委ねるしかないのだ。
「君が会長に通帳を渡した事は正解だった。それはいいとして・・・。君が会長と会ってどんな話をしたか里中君に聞いた。会長に食って掛かったそうだね。下手すれば君の首が飛んでいたところだ。しかし、会長は肝が据わった君に強い関心を持った。できるだけ身近なところにおいておきたいと考え、その為に君はここに配属されたんだ」
「どういうこと?どうしてそんなことになるの・・・」開いた口が塞がらないとはこのことを言うのだ。
「君は、いわば会長の手のひらの中・・・。私は君の見張り役と言うところだろう。里中君も、君を時限爆弾のようなものだと警戒している」
「冗談でしょ!私は危険人物とみなされているの?」
「君も自覚しているわけだ」
槙野は美紗子の反応を見て笑みを浮かべた。それは、槙野がこの日初めて見せた笑顔だった。
「何故黙っていた」
「何のことを言っているのですか?」
「会長を呼び出し、何をするつもりだった」
「それをどうしてあなたが知っているのですか?」
「河内幸子の通帳をわざわざ見せたそうだね」
「誰がそれを・・・」
「以前に君は高藤会長に呼び出されたそうだね。その時に会長が手切れ金を河内幸子の通帳に振り込ませたと聞いた」
「ええ、その通りよ。あなたにもあの通帳を見せたけど、あなたには金額を見たところで分かるわけがない。でも、私はいくら振り込まれたかを事前に聞かされていたから妙だと思った。会長が直接振り込んだわけじゃないことも分かっていたから、それができた人間は誰なのか、会長は知っているはずと思って・・・」
「君は自分が何をしたのか理解しているんだろうね。許されない事だが、横領した人間がこのことを知ったら君に何をするか分からないぞ」
「彼女が手切れ金を受け取ったというだけで、彼女は少しも手をつけていない。それはいつか返すつもりだったからだと思うの。それなのに、横領するなんて許せない。彼女は潔白だと会長に分からせたかった」
「彼女は亡くなったんだ。いまさら何になると?高藤はようやく立ち直りかけている、彼女の死を受け入れて、前向きに生きていこうとしている。もしこの事を知ったらどうなるか考えてみてくれ・・・」
「それは・・・・」
「会長が手切れ金を渡したことは絶対知られてはいけない。通帳のことについては里中が調べている。お金の流れについては目星がついている。横領した人間は、これが初めてというわけではない、おそらく他にも出てくるにちがいない。明確になればそれなりの制裁を受ける事になるだろう。この件について君は何も知らない、絶対関わってはいけない。わかるね」
槙野は余計な穿鑿はするなと美紗子に対して忠告しているのだ。もう美紗子には手に負えない。これ以上踏み込む事はできない、全て高藤会長の手に委ねるしかないのだ。
「君が会長に通帳を渡した事は正解だった。それはいいとして・・・。君が会長と会ってどんな話をしたか里中君に聞いた。会長に食って掛かったそうだね。下手すれば君の首が飛んでいたところだ。しかし、会長は肝が据わった君に強い関心を持った。できるだけ身近なところにおいておきたいと考え、その為に君はここに配属されたんだ」
「どういうこと?どうしてそんなことになるの・・・」開いた口が塞がらないとはこのことを言うのだ。
「君は、いわば会長の手のひらの中・・・。私は君の見張り役と言うところだろう。里中君も、君を時限爆弾のようなものだと警戒している」
「冗談でしょ!私は危険人物とみなされているの?」
「君も自覚しているわけだ」
槙野は美紗子の反応を見て笑みを浮かべた。それは、槙野がこの日初めて見せた笑顔だった。
会長に通帳を渡した日から、しばらくは何事もなく過ぎていった。だからといって美紗子は少しも心が休まらなかった。その間も不安が膨らみ、毎日びくびくしながら職場へ向ったものだ。会長の怒りをかったことで首になる可能性があることを覚悟していたが、一週間が過ぎてその気持ちも薄れてきていた。だが、考えが甘かった・・・。
解雇は免れたものの、最悪な状況に追い込まれてしまった。いったい会長は何を考えているのか・・・。こんな事をするよりも解雇する方が簡単なはずなのに、美紗子には会長が何を考えているのか理解できない。
こんな事になるなら、通帳のことは黙っていればよかった。第一こんな事に首を突っ込むべきではなかった。河内幸子とのことは全てなかったことにして・・・・。そんな考えが過ぎったけれど、いまさら後悔しても始まらない。やるならとことん突き進むしかない。とはいえ、これからどうすればいいのか・・・。何より、彼女は何を望んでいるのか、自分に何をしてほしいのか、その意図がだんだん分からなくなってきている。
最初は河内幸子の自殺の真相を調べるつもりだったのに、槙野や高藤の出現によって目的とは違った方向へと進み始めてしまった。それに加え、高藤会長まで絡んできた。彼女はこうなる事を予想していたのかしら・・・。彼女がそこまで考えていたとは到底思えないけれど・・・。
槙野は私物をクローゼットに入れるように支持した。クローゼットを開くと美紗子は目を見開いた。そこには見覚えのあるものがかけてある。
「処分するつもりだったが、取っておいて正解だったようだね。アクセサリーやバックもそのまま一緒にそこに入れてある。この先必ず役に立つはずだ。もともと君のために用意したものだ。気に入らなければそこに掛けたままにしておけばいい、君の自由にしたらいいよ。でも、できるなら君に着てほしい。良く似合っているよ」
驚く事に高藤デパート恒例行事であるクリスマス・パーティーで、槙野が用意していたカクテルドレスがクローゼットにかけてあった。美紗子は思わず顔が赤くなる。槙野を思いっきり拳で殴った時のことが頭を過ぎったのだ。
「それはどうも・・・」美紗子にはそれしか言えなかった。
クローゼットを閉めて用意された席に腰掛ける。机にはノートパソコンが置かれ、書類らしきファイルが並べられていた。
「引き出しに必要なものが入っている。もし足りないものがあれば言ってくれれば用意する。そのパソコンは君専用なので使ってくれ」
高藤の部屋は広く、窓側には高藤の机が置かれ、左側に槙野の机、その横に美紗子の席があった。部屋に入ってすぐ右に洗面所、左にはコンパクトなカウンターがある。カウンターの後ろに、流し台と冷蔵庫が置かれてあり、そこはまるでコンパクトなキッチンのようだ。背面には黒塗りの飾り棚があって、コーヒーカップやグラスなどがずらりと並んでいる。
「安藤さん、コーヒーでも入れてくれないか?使い方は分かるね」
美紗子は頷いてからカウンターの後ろに廻る。
コーヒーを入れながら美紗子は心の中で呟く。使い走りも仕事のうちってとこかしら・・・。喫茶店かバーのカウンターに立つウエイターか、バーテンダーかい!お待たせしましたご主人様・・・。おいおい、馬鹿な事を・・・。
「一緒にいられるのはいいが、余計なおまけがついているのが気に食わない」
「なんですか、それって・・・」
槙野はコーヒーを飲みながらふっと笑みを浮かべた。美紗子は何食わぬ顔でとぼけて見せた。二人の関係が何処まで進展しているのか美紗子にも分からない。二人だけの時間を過ごしていると、高藤が知ったら面白く思わないだろう。何度か二人で食事に出かけたことがあるが、槙野も美紗子もはっきりした態度を示さないまま今日に至っている。
「しかし、仕事とプライベートは別の事、専務とも距離を置く方がいい。彼をうまくあしらう術も知らないとね。その点は里中を見習うといい」
「いいえ、その点は大丈夫だと思いますけど・・・。何といっても私は時限爆弾ですから・・・」美紗子は拗ねるように皮肉を言った。
槙野は思わずコーヒーを美紗子に向かって噴出した。美紗子は慌てて飛びのいた。幸いすばやくかわしたおかげで服を汚さずにすんだ。
その場にふさわしい服装で出勤するようにと槙野から言われたが、秘書というより付き人か、マネージャー、はたまだ雑用係のようなものだ。適当に服を選んできたが、美紗子の服装を見て槙野は顔をしかめたものの何も言わなかった。
その日から美紗子の日常は慌しくなった。服装など気にする暇も無いくらい、高藤に振り回される美紗子であった。槙野はいつも冷静で、そんな彼を見ていると美紗子はますますイライラをつのらせていく。それと同時に自分の無能さを思い知らされるだけであった。
河内幸子については何の進展もない。というより、そんな事を考える余裕は美紗子にはなかったのである。
解雇は免れたものの、最悪な状況に追い込まれてしまった。いったい会長は何を考えているのか・・・。こんな事をするよりも解雇する方が簡単なはずなのに、美紗子には会長が何を考えているのか理解できない。
こんな事になるなら、通帳のことは黙っていればよかった。第一こんな事に首を突っ込むべきではなかった。河内幸子とのことは全てなかったことにして・・・・。そんな考えが過ぎったけれど、いまさら後悔しても始まらない。やるならとことん突き進むしかない。とはいえ、これからどうすればいいのか・・・。何より、彼女は何を望んでいるのか、自分に何をしてほしいのか、その意図がだんだん分からなくなってきている。
最初は河内幸子の自殺の真相を調べるつもりだったのに、槙野や高藤の出現によって目的とは違った方向へと進み始めてしまった。それに加え、高藤会長まで絡んできた。彼女はこうなる事を予想していたのかしら・・・。彼女がそこまで考えていたとは到底思えないけれど・・・。
槙野は私物をクローゼットに入れるように支持した。クローゼットを開くと美紗子は目を見開いた。そこには見覚えのあるものがかけてある。
「処分するつもりだったが、取っておいて正解だったようだね。アクセサリーやバックもそのまま一緒にそこに入れてある。この先必ず役に立つはずだ。もともと君のために用意したものだ。気に入らなければそこに掛けたままにしておけばいい、君の自由にしたらいいよ。でも、できるなら君に着てほしい。良く似合っているよ」
驚く事に高藤デパート恒例行事であるクリスマス・パーティーで、槙野が用意していたカクテルドレスがクローゼットにかけてあった。美紗子は思わず顔が赤くなる。槙野を思いっきり拳で殴った時のことが頭を過ぎったのだ。
「それはどうも・・・」美紗子にはそれしか言えなかった。
クローゼットを閉めて用意された席に腰掛ける。机にはノートパソコンが置かれ、書類らしきファイルが並べられていた。
「引き出しに必要なものが入っている。もし足りないものがあれば言ってくれれば用意する。そのパソコンは君専用なので使ってくれ」
高藤の部屋は広く、窓側には高藤の机が置かれ、左側に槙野の机、その横に美紗子の席があった。部屋に入ってすぐ右に洗面所、左にはコンパクトなカウンターがある。カウンターの後ろに、流し台と冷蔵庫が置かれてあり、そこはまるでコンパクトなキッチンのようだ。背面には黒塗りの飾り棚があって、コーヒーカップやグラスなどがずらりと並んでいる。
「安藤さん、コーヒーでも入れてくれないか?使い方は分かるね」
美紗子は頷いてからカウンターの後ろに廻る。
コーヒーを入れながら美紗子は心の中で呟く。使い走りも仕事のうちってとこかしら・・・。喫茶店かバーのカウンターに立つウエイターか、バーテンダーかい!お待たせしましたご主人様・・・。おいおい、馬鹿な事を・・・。
「一緒にいられるのはいいが、余計なおまけがついているのが気に食わない」
「なんですか、それって・・・」
槙野はコーヒーを飲みながらふっと笑みを浮かべた。美紗子は何食わぬ顔でとぼけて見せた。二人の関係が何処まで進展しているのか美紗子にも分からない。二人だけの時間を過ごしていると、高藤が知ったら面白く思わないだろう。何度か二人で食事に出かけたことがあるが、槙野も美紗子もはっきりした態度を示さないまま今日に至っている。
「しかし、仕事とプライベートは別の事、専務とも距離を置く方がいい。彼をうまくあしらう術も知らないとね。その点は里中を見習うといい」
「いいえ、その点は大丈夫だと思いますけど・・・。何といっても私は時限爆弾ですから・・・」美紗子は拗ねるように皮肉を言った。
槙野は思わずコーヒーを美紗子に向かって噴出した。美紗子は慌てて飛びのいた。幸いすばやくかわしたおかげで服を汚さずにすんだ。
その場にふさわしい服装で出勤するようにと槙野から言われたが、秘書というより付き人か、マネージャー、はたまだ雑用係のようなものだ。適当に服を選んできたが、美紗子の服装を見て槙野は顔をしかめたものの何も言わなかった。
その日から美紗子の日常は慌しくなった。服装など気にする暇も無いくらい、高藤に振り回される美紗子であった。槙野はいつも冷静で、そんな彼を見ていると美紗子はますますイライラをつのらせていく。それと同時に自分の無能さを思い知らされるだけであった。
河内幸子については何の進展もない。というより、そんな事を考える余裕は美紗子にはなかったのである。
