― 午後八時 ―
「これ以上、耐えられないわ・・・」「今はその時期ではない。焦りは禁物だ」
「どうしてあなたはそんなに落ち着いていられるの」
「慎重にことを進めなければ駄目だ。忘れたのか?下手すれば彼の二の舞だぞ」
「忘れていないわ。重要な手がかりを掴んでいたから彼は狙われたのよ。あの姉妹が首を突っ込んでこなければ、余計なことをしなければ・・・」
「彼女たちまで巻き込んだのは君だぞ」
「彼女たちにはずっと警告してきたのに・・・」
「あれが警告だって?君のやり方は間違っている。一人はもう少しで大怪我をしたか、一歩間違えば死んでいるところだ」
「あれは彼女を奴らから守る為にしたことよ。私が彼女を突き飛ばさなかったら彼女は間違いなく死んでいるわ」
「彼女はそうは思うだろうか・・・。突き飛ばしたのが君だと知ったら、彼女は君に殺意があったと思うだろうな」
「仕方ないわ・・・。私は守るべきものがあるのよ。あの男の為にこれ以上私の大切なものを失いたくない」
「その為に関係ない人間が犠牲になってもか?」
「私が平気でいるとでも?あの男は自分の欲望を満たすためならなんだってする。人の弱みを握って利用するし、それを餌に人殺しまでさせるような男なの。私だって大きな犠牲を払ったわ・・・」
「自ら手を汚さず、弱い者からほしいものを手に入れるような卑怯な奴だ。あの男はどこまでも狡賢い。自分に不利な証拠はぜったに残さない」
「あの人なら、あの男を追い詰めてくれるはずよ」
「あの人の協力が無ければ、あの男の計画を狂わせることはできなかった。しかし、それを引き換えにあの人を危険に曝してしまった。最悪な結果は避けられたが、奴らはまた必ずあの人を狙うに決まっている」
「だからこそよ。奴らの目を逸らして気を引かなければ・・・」
― 午後九時 ―
街路樹は身震いするように体を揺らした。紅葉の季節は終わりに近づいて、色褪せた葉はほとんどといっていいほど風に剥ぎ取られている。路面を枯葉がすべるように転がり、カサコソと音を立てた。エンジンを止めた車内で、二人の男は背を丸めるようにして、外の様子を窺いながら小声で話す。
「先輩すみません。早とちりして・・・」
「奥さん、もう臨月だろう?仕方ないさ。初めての出産では奥さんも心細いだろうしな・・・」神尾は苦笑いを浮かべた。
コンビを組んでいる若い刑事の妻は、臨月を迎えて神経質になっていて、陣痛が始まったと勘違いして電話してきた。神尾はすぐに彼を帰らせたのだがすぐに引き返してきた。
唯一、味噌汁だけは車に戻ってすぐに汁をすすったが、コンビニで買った弁当はすっかり冷めてしまった。張り込みを始めて二時間がたっていた。弁当の入ったコンビニの袋を見て相棒の刑事が言った。
「コーヒーでも買ってきましょうか・・・。ついでにその弁当を温め直してきますよ」
「落ち着かないやっちゃな・・・。戻ってこなくても良かったのに・・・」
「先輩は私の代わりを呼ぶべきですよ。私がいない間一人で見張っているだろうと思ってました。見張りは二人以上だって言うのは我々の常識というか、鉄則です」
神尾は渋い顔をして相棒の刑事を見る。「ごちゃごちゃ言ってないで買ってこい!」
独りになった神尾は上着のポケットから手帳を取り出す。ページをめくり目的のメモを探す神尾の目は厳しい。ほとんどのページにはびっしりと書き込まれている。他人が見てもほとんど何を書いているのか、何について書かれてあるか理解できないだろう。ひたとページをめくるのをやめてメモを読む。そして、神尾は携帯を取り出して電話をかけ始める。
「神尾だ。何かわかったか?」
相手の話に耳を傾けてメモに走り書きをする。この見張りとはまったく関係が無い内容で、相棒がいない間に片付けておきたかった。ここのところ神尾は何人もの人間と連絡を取り、情報を集めるのに忙しかった。ひとりで見張りをする方が神尾にとって都合が良かったが、相棒が戻ってきたことで自由が利かなくなってしまった。コーヒーを買ってくると言い出してくれて助かった。携帯を切った直後に相棒は戻ってきた。神尾はやれやれと心の中で呟いた。
― 午後十時 ―
普段ならあたりには人の気配も無い、海辺近くの空き家に明かりがついている。強い風に煽られ空き家はあちこちガタガタ音を立てた。目をぎらつかせた男が紙を丸めコンクリートの床に叩きつける。もう一人の男が恐れをなして蛇に睨まれた蛙のように身を縮めた。
「あの封筒の中に入っていたのがこれか?」
「あの騒ぎにまぎれて拾うのに苦労したんです。野次馬にまぎれて近づいて・・・」
外で車のドアが閉まる音がする。二人の男は慌てて外へ出て行いくと助手席側に一人が立っていて、後部座席にも人影があった。空き家にいた二人の男は車の外に立っている人物に頭を下げた。
「久しぶりだな黒田さん、例のものはどこにある」
「それが・・・」
「どうかしたか?」
「川北さん、そのあるにはありますが・・・」黒田は唾を飲み込んだ。
河北は黒田の落ち着かない様子に怪訝な表情を浮かべた。わざわざこんなところに呼び出されて無駄足だったでは済まされない。
「取りにこいと言ったのはそっちだぞ。ここまで来てなかったと?」
「もちろんあります。言われたとおりに車をつけて奪い取ったものには間違いありません」
黒田はもう一人の男に持ってこさせると河北に手渡す。
「なんだこれは・・・」河北は唖然とする。
「ですから、見た限りは真っ白な紙ですが・・・。透かして見ると数字と何かの記号のようなものが・・・」
「暗号か?」それとも奴に一杯食わされたのか?
こんなものを奪うだけのために、こいつらに高い報酬を払ったなどと、あの人に報告する羽目になるとは・・・。河北は歯軋りする思いで車の後部座席に目をやった。
