千夏は城山出版へ行けば、手がかりに繋がる何かが見つかるかもしれないと思っていた。だが、結局は何の手がかりも得られなかった。
千夏が外へ出ると街の騒音がどっと押し寄せ、同時にむっとする熱気に包まれた。アスファルトから熱気が揺らめき立ち昇っていく。振り返って正次が勤めていた城山出版のビルを見上げた。今でも彼が編集者としてデスクに向かって仕事を続けているという幻想を抱いてしまう。これからも仕事上のパートナーだと言った彼の言葉が嘘ではなかったと信じたがっている自分がいた。
千夏が外へ出ると街の騒音がどっと押し寄せ、同時にむっとする熱気に包まれた。アスファルトから熱気が揺らめき立ち昇っていく。振り返って正次が勤めていた城山出版のビルを見上げた。今でも彼が編集者としてデスクに向かって仕事を続けているという幻想を抱いてしまう。これからも仕事上のパートナーだと言った彼の言葉が嘘ではなかったと信じたがっている自分がいた。
窓辺に立ってぼんやりと外の景色を眺める。一条の言うとおり正次はすでに出版社を辞める決心をしていたのだ。あれほど父親と反発を繰り返していた彼に、どんな心境の変化が起きたのかはわからない。
彼の気持ちを変えたことと、沢田邸の正次の部屋で見つかった脅迫状と、何か関係があるのだろうか・・・。脅迫状と共に封筒の中にあった鍵と栞には何か意味があるはずだ。彼が何かのメッセージを込めているとしたらどうだろうか・・・。彼が意味もなく封筒の中に脅迫状と共に鍵や栞を入れるはずがない。
千夏はファイル『夏休みの思い出』を手に取った。そのファイルには川久保の妻子が殺された事件を元に書いた小説の原稿を綴じ込んでいる。正次にこの原稿のコピーを渡し、彼の評価を聞くはずだった。だがそれは叶わず、原稿のコピーの行方もわからないままだ。千夏はそのことがずっと心に引っかかっていた。
事件とは関わるなと彼は言い続けてきた。原稿を渡した時も彼はこの原稿を世間に発表するのはまだ早いと反対した。だからと言って、編集者である彼が無断で作家の命ともいえる原稿を処分するはずがない。
「千夏さん、いる?」
千夏はその声に思いを破られてはっとする。ファイルを元に戻して窓辺に近づき下を見ると、緑が玄関の前で千夏の仕事部屋を見上げている。
「仕事中ですか」緑は千夏に軽く手を振ってにっこり笑った。
「ええ、そうよ。どうかした?」
「何度も声をかけたのに返事しないから・・・」緑は怒ったように少し頬を膨らませてからにっこり笑った。「千夏さんのことだからぁー、仕事に没頭していると思ってたー」
緑の調子はずれなしゃべり方に苦笑し、彼女の無邪気な笑顔に思わず微笑んだ。
「今日はずいぶん早いのね」
「夕食作ろうと思って、何がいいですか?」
「そう、だったら一緒に作りましょう」
「仕事は?」
「ちょうど一段落したところよ」
夕食の準備はそう時間はかからなかった。千夏は居間でコーヒーを入れて飲むことにし、緑は先に入浴を済ませることにした。妹たちが帰宅するまではまだ時間が十分ある。コーヒーを飲もうとカップに口を近づけると玄関のチャイムが鳴った。
彼の気持ちを変えたことと、沢田邸の正次の部屋で見つかった脅迫状と、何か関係があるのだろうか・・・。脅迫状と共に封筒の中にあった鍵と栞には何か意味があるはずだ。彼が何かのメッセージを込めているとしたらどうだろうか・・・。彼が意味もなく封筒の中に脅迫状と共に鍵や栞を入れるはずがない。
千夏はファイル『夏休みの思い出』を手に取った。そのファイルには川久保の妻子が殺された事件を元に書いた小説の原稿を綴じ込んでいる。正次にこの原稿のコピーを渡し、彼の評価を聞くはずだった。だがそれは叶わず、原稿のコピーの行方もわからないままだ。千夏はそのことがずっと心に引っかかっていた。
事件とは関わるなと彼は言い続けてきた。原稿を渡した時も彼はこの原稿を世間に発表するのはまだ早いと反対した。だからと言って、編集者である彼が無断で作家の命ともいえる原稿を処分するはずがない。
「千夏さん、いる?」
千夏はその声に思いを破られてはっとする。ファイルを元に戻して窓辺に近づき下を見ると、緑が玄関の前で千夏の仕事部屋を見上げている。
「仕事中ですか」緑は千夏に軽く手を振ってにっこり笑った。
「ええ、そうよ。どうかした?」
「何度も声をかけたのに返事しないから・・・」緑は怒ったように少し頬を膨らませてからにっこり笑った。「千夏さんのことだからぁー、仕事に没頭していると思ってたー」
緑の調子はずれなしゃべり方に苦笑し、彼女の無邪気な笑顔に思わず微笑んだ。
「今日はずいぶん早いのね」
「夕食作ろうと思って、何がいいですか?」
「そう、だったら一緒に作りましょう」
「仕事は?」
「ちょうど一段落したところよ」
夕食の準備はそう時間はかからなかった。千夏は居間でコーヒーを入れて飲むことにし、緑は先に入浴を済ませることにした。妹たちが帰宅するまではまだ時間が十分ある。コーヒーを飲もうとカップに口を近づけると玄関のチャイムが鳴った。
色とりどりの花が店先を賑わせている。花々は陽射しを浴びて、一層色を帯びて鮮やかに映えて見えた。陽が傾き始めると相場と友美は店先の花を乗せたカートを店内に入れた。忙しさのピークも過ぎ、客足も緩やかになってきた。買い物を済ませた主婦たちも夕飯の準備を始めている頃だろう。
「オーナーお先に失礼します」五十前半の女性従業員が相場に向かって頭を下げる。
「お疲れ様、明日もよろしく」
「彼女がいてくれるおかげで助かるわね。このフラワーショップを始めた頃からずっと働いてくれてくれているのよね」
「ああ、彼女は良く働いてくれているよ。この店の内情も良くわかってくれている。直也は従業員との信頼関係が何より大切だといつも言っていた。彼の言うことはもっともだと思うよ」
「あら、あれは千秋ちゃんじゃないかしら・・・」
相場は駐車場の方へ目を向けると心の中で舌打ちした。店の方へ向かって歩いてくる千秋の姿を捉える。
「友美さん、店じまいだ。レジの集計を頼む」
「相場さん?」友美は慌てた様子で外へ出て行く相場をあっけに取られて見送る。
相場にはある計画があって、着々と準備を進めていた。浅井由香里と会っていたのもその為だった。一条が料亭に千秋を連れて来るとは予想外のことだった。浅井由香里と一緒にいるところを見られたからといって、別にやましいことをしているわけでもない。しかし、あの場を見られたのはまずかった。千秋がどう思ったのかは、あの時のよそよそしさからはっきりしている。
千秋はすでに店の前まで来ていた。相場はちらりと駐車場に目を走らせる。駐車場には千秋の車は見当たらない。相場は店を出て千秋の前に立った。
「相場さん、こんばんは」
「歩いてきたのか?車はどうした」街灯の明かりでほのかに浮かび上がる彼女を見つめた。
「お得意様の所にお届けものを持って行ったところなの・・・。社には戻る必要がないからここへ寄って、相場さんに送ってもらおうと思って・・・。友美さんを送るついでに便乗させてもらえるとありがたいのだけど」
「私を運転手代わりに使って、自分は燃料代の節約か?ちゃっかりしているな」
「まあね。口止め料ってとこかしら・・・」
「それ、なんだよ。口止め料って言うのは・・・」
この余裕はどこからくるのかしら・・・。少しも慌てた様子を見せない相場に感心しつつも、千秋は再び揺さぶりをかける。
「この間料亭で会ったホテルの女性オーナーは千夏姉さんの担当編集者、浅井さんの妹さんなのよね・・・」
相場は含みのある千秋の言葉をさらりと笑ってかわす。料亭でのことはあくまでもビジネス、ここで慌てたりすれば千秋の思う壺・・・。ここは軽く受け流す方がこちらのペースにもっていきやすいと考えた。
「そうらしいね。それより、今から店を閉めるところだ。友美さんも帰り支度をしているはずだから、中に入って待っているといいよ」
相場にうまくかわされた千秋は仕方なく後について店の中へ入っていく。店の中に入るとほのかな花の香りが漂っていた。相場の背中越しに事務所の明かりが見える。相場は事務所のドアを押し開けて千秋を中へ引き入れた。友美は事務所で今日の売り上げ金と帳簿を金庫にしまい、机の上の整理を終えて帰り支度を始めていた。
あなたがここへ来るなんてめずらしいわねという友美に、相場に答えた言葉を千秋はそのまま繰り返した。三人は店を閉めて相場の車に乗り込んだ。
千秋は別に料亭のことについて、相場にどうこう言うつもりはなかった。料亭の事を持ち出して、相場がどんな反応を示すのか興味があったが、そもそも千秋をここへ来るように仕向けたのは友美である。千夏と相場が会っている様子がないことを心配して、どうにか二人を会わせようと友美が仕組んだことだった。相場はうまく千秋をかわしたと思い込んでいるが、友美の計画にまんまと乗せられているとは露知らず・・・。
「オーナーお先に失礼します」五十前半の女性従業員が相場に向かって頭を下げる。
「お疲れ様、明日もよろしく」
「彼女がいてくれるおかげで助かるわね。このフラワーショップを始めた頃からずっと働いてくれてくれているのよね」
「ああ、彼女は良く働いてくれているよ。この店の内情も良くわかってくれている。直也は従業員との信頼関係が何より大切だといつも言っていた。彼の言うことはもっともだと思うよ」
「あら、あれは千秋ちゃんじゃないかしら・・・」
相場は駐車場の方へ目を向けると心の中で舌打ちした。店の方へ向かって歩いてくる千秋の姿を捉える。
「友美さん、店じまいだ。レジの集計を頼む」
「相場さん?」友美は慌てた様子で外へ出て行く相場をあっけに取られて見送る。
相場にはある計画があって、着々と準備を進めていた。浅井由香里と会っていたのもその為だった。一条が料亭に千秋を連れて来るとは予想外のことだった。浅井由香里と一緒にいるところを見られたからといって、別にやましいことをしているわけでもない。しかし、あの場を見られたのはまずかった。千秋がどう思ったのかは、あの時のよそよそしさからはっきりしている。
千秋はすでに店の前まで来ていた。相場はちらりと駐車場に目を走らせる。駐車場には千秋の車は見当たらない。相場は店を出て千秋の前に立った。
「相場さん、こんばんは」
「歩いてきたのか?車はどうした」街灯の明かりでほのかに浮かび上がる彼女を見つめた。
「お得意様の所にお届けものを持って行ったところなの・・・。社には戻る必要がないからここへ寄って、相場さんに送ってもらおうと思って・・・。友美さんを送るついでに便乗させてもらえるとありがたいのだけど」
「私を運転手代わりに使って、自分は燃料代の節約か?ちゃっかりしているな」
「まあね。口止め料ってとこかしら・・・」
「それ、なんだよ。口止め料って言うのは・・・」
この余裕はどこからくるのかしら・・・。少しも慌てた様子を見せない相場に感心しつつも、千秋は再び揺さぶりをかける。
「この間料亭で会ったホテルの女性オーナーは千夏姉さんの担当編集者、浅井さんの妹さんなのよね・・・」
相場は含みのある千秋の言葉をさらりと笑ってかわす。料亭でのことはあくまでもビジネス、ここで慌てたりすれば千秋の思う壺・・・。ここは軽く受け流す方がこちらのペースにもっていきやすいと考えた。
「そうらしいね。それより、今から店を閉めるところだ。友美さんも帰り支度をしているはずだから、中に入って待っているといいよ」
相場にうまくかわされた千秋は仕方なく後について店の中へ入っていく。店の中に入るとほのかな花の香りが漂っていた。相場の背中越しに事務所の明かりが見える。相場は事務所のドアを押し開けて千秋を中へ引き入れた。友美は事務所で今日の売り上げ金と帳簿を金庫にしまい、机の上の整理を終えて帰り支度を始めていた。
あなたがここへ来るなんてめずらしいわねという友美に、相場に答えた言葉を千秋はそのまま繰り返した。三人は店を閉めて相場の車に乗り込んだ。
千秋は別に料亭のことについて、相場にどうこう言うつもりはなかった。料亭の事を持ち出して、相場がどんな反応を示すのか興味があったが、そもそも千秋をここへ来るように仕向けたのは友美である。千夏と相場が会っている様子がないことを心配して、どうにか二人を会わせようと友美が仕組んだことだった。相場はうまく千秋をかわしたと思い込んでいるが、友美の計画にまんまと乗せられているとは露知らず・・・。
その頃―
城山出版編集者の浅井拓也が、わざわざ出版社へ千夏が出向いてきたと聞いて福山家を訪れていた。
「編集長の中川さんと個人的なことでお話したいことがあって・・・」
「そうですか」浅井はほっとしたように安堵の溜息を吐いた。
「気を使わせたみたいでごめんなさいね」
「こちらこそご自宅へお邪魔して申し訳ありません。仕事場にいらっしゃらなかったので・・・」
「この時間は夕食の準備に自宅に戻っているものですから・・・。ハウスで執筆の仕事、自宅はプライベートにと使い分けています。妹たちは仕事で遅くなることが多いので、私が家事を担当しています。物書きだから時間に縛られない勝手気ままな身分ですからね」
「お忙しい時間にお邪魔したようですみません。私はこれで失礼します」
「また出版社に戻られるの?」
「いえ、このまま帰宅します」
「夕食は?いつも外食なのかしら?」
「ええ、気ままな一人暮らしをしている身ですから・・・」
「だったら、ご足労していただいたお詫びにご馳走しますわ・・・」
突然の申し出に驚いた浅井が丁重に断ろうと口を開きかけた時、二階から階段を駆け下りてくる足音と共に緑が姿を現す。
「友美さんと千秋さんがもうすぐ帰るって・・・。あ・・・」来客とは知らない緑は一瞬しまったと思った。
浅井とは初対面である緑は彼が何者かは知らない。じろじろ見るのは失礼だとわかってはいたが、緑なりに大人の男性を観察し、見極める目を養うべく一瞬にして見定める・・・つもりが・・・。浅井に先手を打たれる。
「確か、緑さんだね。福山先生の担当をしている浅井という者です。お邪魔しています」
「は・・・はい、初めまして、居候の園田緑です」
居候の・・・だって、自分から言ってるし・・・。千夏は恐縮している緑を見てクスクス笑った。いつもはなんでもはっきりものを言う彼女も、この時ばかりは出鼻をくじかれたようである。
「紹介はすんだみたいね。今、浅井さんに夕食をご一緒にってお誘いしたところなのよ。お鍋にして良かったわ・・・。お肉もストックがあるし・・・。あ、友美さんと千秋がどうしたって?」
「もうすぐ帰るってメールが来たの」
「そう?じゃあ、そろそろ火を入れましょう。ちょうど良かったわね」
「先生・・・」
すっかり千夏のペースで全てが進んでいく。招待を辞退する間を浅井には与えず、半場強制的に強引に物事を進めようとする。千夏は長女特有ののほほんとしたおっとりした性格とは程遠く真反対の性格である
千夏はおとなしくそこに座って待っているようにと浅井に向かって言い渡す。緑は浅井に向かって首を竦めて見せた。彼女はこういう場面には慣れているらしく、千夏のペースに合わせ逆らったりはしない。
「テレビでも見て、待っていてくださいね」
緑は居間のテレビのスイッチを入れ、千夏の後について台所に姿を消した。
城山出版編集者の浅井拓也が、わざわざ出版社へ千夏が出向いてきたと聞いて福山家を訪れていた。
「編集長の中川さんと個人的なことでお話したいことがあって・・・」
「そうですか」浅井はほっとしたように安堵の溜息を吐いた。
「気を使わせたみたいでごめんなさいね」
「こちらこそご自宅へお邪魔して申し訳ありません。仕事場にいらっしゃらなかったので・・・」
「この時間は夕食の準備に自宅に戻っているものですから・・・。ハウスで執筆の仕事、自宅はプライベートにと使い分けています。妹たちは仕事で遅くなることが多いので、私が家事を担当しています。物書きだから時間に縛られない勝手気ままな身分ですからね」
「お忙しい時間にお邪魔したようですみません。私はこれで失礼します」
「また出版社に戻られるの?」
「いえ、このまま帰宅します」
「夕食は?いつも外食なのかしら?」
「ええ、気ままな一人暮らしをしている身ですから・・・」
「だったら、ご足労していただいたお詫びにご馳走しますわ・・・」
突然の申し出に驚いた浅井が丁重に断ろうと口を開きかけた時、二階から階段を駆け下りてくる足音と共に緑が姿を現す。
「友美さんと千秋さんがもうすぐ帰るって・・・。あ・・・」来客とは知らない緑は一瞬しまったと思った。
浅井とは初対面である緑は彼が何者かは知らない。じろじろ見るのは失礼だとわかってはいたが、緑なりに大人の男性を観察し、見極める目を養うべく一瞬にして見定める・・・つもりが・・・。浅井に先手を打たれる。
「確か、緑さんだね。福山先生の担当をしている浅井という者です。お邪魔しています」
「は・・・はい、初めまして、居候の園田緑です」
居候の・・・だって、自分から言ってるし・・・。千夏は恐縮している緑を見てクスクス笑った。いつもはなんでもはっきりものを言う彼女も、この時ばかりは出鼻をくじかれたようである。
「紹介はすんだみたいね。今、浅井さんに夕食をご一緒にってお誘いしたところなのよ。お鍋にして良かったわ・・・。お肉もストックがあるし・・・。あ、友美さんと千秋がどうしたって?」
「もうすぐ帰るってメールが来たの」
「そう?じゃあ、そろそろ火を入れましょう。ちょうど良かったわね」
「先生・・・」
すっかり千夏のペースで全てが進んでいく。招待を辞退する間を浅井には与えず、半場強制的に強引に物事を進めようとする。千夏は長女特有ののほほんとしたおっとりした性格とは程遠く真反対の性格である
千夏はおとなしくそこに座って待っているようにと浅井に向かって言い渡す。緑は浅井に向かって首を竦めて見せた。彼女はこういう場面には慣れているらしく、千夏のペースに合わせ逆らったりはしない。
「テレビでも見て、待っていてくださいね」
緑は居間のテレビのスイッチを入れ、千夏の後について台所に姿を消した。
