第26話 | 紫苑の扉

紫苑の扉

主にストーリーと詩を書いています。
あるがままに、そのままに・・・。
徒然に気ままに

 千夏は一条から鍵を渡され、妹たちより先に正次の部屋に入った。彼がここで暮らしていたという雰囲気が漂い、すぐにでもドアを開けて入ってくるような錯覚をしてしまいそうだ。
 広々としたリビングルームの窓には、落ち着いたブルーカーテンが掛けてある。窓を開けてバルコニーに出ると、そこから前方に広がる風景を眺めた。高いビルの谷間に緑の木々が喧騒に溶け込み、街は夕闇に染まり始めている。
 千春と千秋は一条と共に正次の部屋の8階でエレベーターから降りた。一条は二人を先に部屋の中に入らせ、周囲に視線をめぐらせてからドアを閉めた。
 千春と千秋は広いリビングを見渡した。フローリングに毛足の長い絨毯が敷かれ、ソファーとリビングテーブル。ダイニングには七人がけのテーブルと椅子が置かれている。開放的な対面式のキッチンの後方にはたっぷりの収納スペース。壁面には何点かの絵が飾られて、全体的に安らぎの空間を演出している。
 先に来ている千夏がバルコニーにいるのだろう。リビング側の窓のカーテンがわずかに揺れた。窓に近づいてみるとやはり千夏がぼんやりと前方を見つめていた。千春が呼びかけても返事はない。もう一度もどかしげに声を掛けると、ようやく反応して振り返る。

 一条は手馴れた様子で戸棚からコーヒーカップを出した。キッチンからコーヒーの香りが漂ってくる。コーヒーをトレーに載せてリビングへ来る一条を三人はじっと見つめる。彼はこの部屋に何が何処にあるのか知り尽くしているのではないだろうか・・・。彼を見ているとこの部屋の主であるかのような、そんな感覚さえ起こしそうだった。
「申し訳ないが砂糖はあるけれど、ミルクは切らしている。君は砂糖だけで良かったね」
 千秋は問いかけるような眼差しを一条に向けた。姉たちより先にわざわざコーヒーの好みを聞くとは、この間自分を無視したことに対する侘びのつもりなのだろうか・・・。
「彼が入れたコーヒーは美味しかったわ・・・。彼は私がどんなコーヒーが好みかも良く知っていたし・・・。彼が入れたコーヒーをもう一度飲みたいわ」
 千夏はコーヒーの湯気が立ち昇るのを見つめながら思うのだった。正次がいないという現実を受け入れていても、目を上げれば彼が目の前で自分に微笑み返してくれるのではないかと・・・。コーヒーカップから目を逸らす千夏の瞳に深い悲しみが滲む。人生のパートナーにはなれなかったけれど、かつては心から愛した人だった。肉体はなくなっても彼の面影が消えることはないけれど、できることならもう一度彼に会いたい・・・。
 今にも壊れそうな心を奮い立たせるには、大切な人を失った悲しみを、その命を奪った犯人への怒りに変えることだ。この部屋で犯人に繋がる何か手がかりがあるかもしれない。彼ならきっと私たちに手がかりを残しているはずだ。一条が自分たちをここへ連れてきた理由がまさにそのことなのだ。
「一条さん、私たちをここへ連れてきたわけを教えてくださるかしら?」
 千夏はテーブルの上に正次の部屋の鍵を置く。
「彼を殺した犯人の正体を知る手掛かりになればと思ったのです。それとあの封筒の中にあった鍵がこの部屋のものなのか確かめるつもりでした。すでに警察はここの捜査を終えていますが、事件に繋がる手掛かりを掴んだ様子はありません。脅迫状や鍵とカードのことはまだ警察も掴んでいないでしょう。本来なら見つけた時点で警察に届けるべきなのでしょうが、このことを知らせれば全て押収されてしまい、事件の真実に繋がる手掛かりを失ってしまう。ですがこのまま黙っているわけにはいかないでしょう。できるだけ早く警察に渡さなければならない。真相を掴む手掛かりを故意に隠したとわかれば、そのことで犯人と何かかかわりがあると疑われることになる」
「それは誰が疑われるのかしら・・・。あなたのこと?それとも私たちのこと・・・」千秋はゆっくりとコーヒーカップを置いた。
 一条は千秋に信用されていないことは十分わかっている。彼女が心のどこかで自分を信じたいと思っているのではないかと秘かな期待を抱いてもいたが、それも事あるごとに希望は打ち砕かれてしまう。薫り高いコーヒーも口にすれば苦く感じられる。まるで彼女の毒舌な言葉を流し込むようにして液体を飲み込んだ。
「千秋、ばかなことを聞かないでちょうだい。事件のことに私たちが関わるなと何度も言っていたのは、私たちに危険が及ぶことを恐れてのことなのよ。真相を知る為のリスクだって私たち同様にある。そのリスクを冒して一緒に手掛かりを掴もうとしているって事もあんたわかってることじゃないの」
 一条のことになると何かとつっかかる妹を千春は軽く睨んだ。千秋は首を竦めたが悪びれる様子はない。やれやれと千夏は妹たちを見て心の中で溜息を付いた。
「あの封筒の中の鍵の一つは、ここの部屋だったのですか?」
「あなたに渡した鍵がそうです」
「あなたはここの鍵だと確信していたのですね」
「三つの鍵の中の一つがここのなら、あの脅迫状は正次さんに送られてきたと考えれば辻褄が合う」
「もしかしたら他の手掛かりが見つかるかもしれませんね」
「ともかく部屋の中に手掛かりがないか探して見ましょう」

 一条はリビングの引き違い扉を開き、部屋の電気のスイッチに手を伸ばす。部屋の照明が明るくなると、床から天井まである書棚が目に飛び込んでくる。窓辺にベッドが置かれているところを見ると、この部屋は正次が寝室兼書斎として使っていたらしい。編集者として多忙な彼は、この部屋に戻ってからも仕事をしていたに違いない。ベッドのすぐそばの机にはパソコンが置かれてあり、机の上の棚にはコピー機やたくさんの本とバインダー・ファイルが収納されている。
 千春は何かに引き付けられたかのように書棚の前の真ん中に立った。書棚には様々な本やファイルが並び、脚立までも壁面に収納されているのには驚く。本だけでなく雑誌もかなりの数になるだろうか・・・。千夏も何かに導かれるかのように、机の上の棚に手を伸ばして厚みのあるファイルを手にした。
 千秋はリビングに飾られている絵を鑑賞していた。いや、絵を見ているふりをしているだけで、本当は一条の様子を秘かに観察している。三人をここへ連れて来たのは一条の本意ではなく、沢田隆之の指示通りに動いているだけに過ぎない。一条が駐車場で襲われたことと正次が殺されたことが深く関わっていると千秋は考えていた。彼が襲われたことを必死に隠そうとしている理由もそこにある。正次が殺されたことは一条にとって予想外の出来事だったに違いないが、全ては沢田グループを守る為の秘密が隠されている。
 絵の前に立っていた千秋は後ろに気配を感じた。考えに没頭していても、近づいてくるのは彼だと敏感に感じ取ることができる。それほど一条の存在は千秋を圧倒することができるということだろう。
「君はこの絵を気に入ったようだね」
 千秋は声をかけられる前に体制を立て直すことができたが、それほど心の余裕はなく息をすることさえできないのではないかと思った。動揺していることを悟られないように、何気なく振り返って一条と目を合わせる。
「いい絵だと思うわ・・・。誰が描いたのかはわからないけど・・・」
「彼が最も気に入っていた作品だ」
「と、言うと・・・・。これはあの人が描いたものなの?」素人でもこの絵が人を惹き付けるいい絵だという事は千秋にもわかる。
「彼は本の挿絵や文字のデザインまでも手がけている。編集者としてだけではなく彼には絵の才能もある」
「正次さんの作った栞も素敵だったわ・・・」
 一条は絵を見つめている。この人の心は何処にあるのだろう。絵を見ていてもどこかその向こうにある何かを探しているように見える。正次の話をする彼は一瞬遠くを見つめていると思う時がある。だが、それは本当に一瞬の出来事で、次の瞬間にはそんなことがあったかどうかわからなくなる。そんな時いつも千秋は戸惑ってしまう。
「君は手掛かりを探さないのか?手掛かりを掴む為にここへ来たのではないのか?」
「そうよ。あなたの秘密を探るという目的も含めてだけど・・・」
 千秋はつんとして姉たちのいる部屋へ向かった。彼に近づいたかと思うと、思い切り突き放される。彼はいつも壁を張り巡らし、誰だろうと立ち入ることを拒んで突き放す。あんな勝手な人に振り回されるのは真っ平だわ・・・。
 千春は天井まである書箱の前に立ってじっと本を見ているようだ。千秋が横に来ても千春は本を読んでいる。いや、眺めていると言った方がいいだろうか・・・。千秋は目を細めて開かれているページを見つめた。
「これ・・・。千春姉さんの撮った写真じゃないの?」
「ええ、斉藤正和のアシスタントをしていた時のものよ。彼が私にこの本を出す資金を出してくれた。部数はほんのわずかだったけど、私にとっては初めての写真集。無名のカメラマンが出した写真集だから、購入してくれた人たちがどれぐらいいたかどうかわからないわね。まさかこんなところで見つけることになるとは思ってもみなかった」
 千秋は千春が持っている本の間に、何か挟んであることに気づいてそれを引き抜く。
「この写真集にも栞が挟んであるのね・・・」
「正次さんってどれぐらいの本をここに・・・」千春は千秋から栞を受け取りながら書棚を見上げた。「この書箱のあちこちに木の板が挟んであるわね。学校図書館の仕切り板みたいな・・・。板にシール張って区分したりしてなかったっけ・・・」
 千秋は一番近くにある仕切り板を引き抜いて眺めた。
「これって手作りみたいじゃない?」
 千秋は千春と目を合わせてから空洞になっている仕切り板を軽く振った。




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