第22話 | 紫苑の扉

紫苑の扉

主にストーリーと詩を書いています。
あるがままに、そのままに・・・。
徒然に気ままに

 過去は断ち切ったのだと思ってきた。しかし、こうして彼と向き合ってみれば、あの頃のことがたやすく蘇ってくる。
 結婚まで考えた相手だとしても、再び会っても動揺したりしないだろうなどと安易に考えていた。出版社で働いている彼と、偶然会う可能性を否定できるものでもない。だが、これは偶然ではない。彼は再び私の前に現れたのだ。過去を取り戻しに・・・。二人のことは過去のものだと思ったのは間違いだったと言うことだろうか・・・。
「このまま立って話をしているつもりかい?」
 千夏はわずかに眉を上げた。この再会に戸惑っていることを悟られるのはしゃくだ。今すぐにでも追い出したいところだが、今日追い返したとしても、編集者として嫌でも会うことになるのだから・・・。溜息を飲み込み、正次を一瞥して背を向けた。
 招かれざる客はソファーに座り、背を向けてコーヒーを入れる千夏を見つめている。正次の視線を意識しながら平静を装う。今でも彼の好みを忘れていない自分に腹が立つ。いらいらしながら千夏はコーヒーを正次の前に置く。落ち着いた表情を保ちつつ、さりげなく聞こえるように言った。
「いつ城山出版に舞い戻ったの?」
「半年ぐらい前かな・・・。離婚してもう二年になる。しばらく父親の系列会社に勤めていた。少し出版社関係の仕事から離れてみるのも良いと思ってね・・・」
「あなた離婚したの?」
「私には不倫願望はないよ・・・」
 千夏はしばらく正次の言う意味が理解できなかった。軽いジョークのつもりだろうが、自分を挑発しようとしているのだ。
「あなたがくたびれたサラリーマンには見えないわね。あなたはいつも精力的に仕事と向き合って、バリバリ働くのが好きなんでしょう。それも遺伝子の仕業かしら?」
 千夏の言葉の裏には皮肉が込められていた。正次の表情に変化を認めると、小さな勝利感を味わう。
「離婚したのは自分の間違いを正す為だ。自分の気持ちを偽ってまで手に入れたのは間違いだった。情というものは自然と育つものだが、夫婦の絆と男女の関係とは別物だ。情というものが根底にあるとしても・・・」
「愛の形はひとつじゃないわ」
「確かに愛は変化自在だとも言えるがね。結婚して年月を重ねれば、自然とお互いが同化してしまう。いつしか男と女の関係じゃなくなっている」
「話が人生論に及びそうだから、話を元に戻さない?」
 二人がよくこうして理論を交わしていたことが蘇り、過去に引き戻されていくような気がする。
「君ともう一度やり直したい、その為に城山出版に戻ってきた。編集長は喜んで私を迎えてくれた。ありがたいことに、経験を積んだ編集者が欲しかったと言ってくれてね。経営にも関わってきた私の力を必要としてくれたと言うわけだよ」
「あなたの経験は無駄じゃなかったと言うことね」
「相変わらず皮肉屋だな・・・」
 もう一度やり直す為に、わざわざ古巣である出版社に戻ってきた。それを私が受け入れると確信している。自信たっぷりなところは昔と少しも変わらない。
「皮肉でもなんでもないわよ。それが事実でしょう?違う?」
「私たちが別れたのも事実だ。君は私ではなく仕事を選んだ。仕事も幸せな結婚生活も、どちらも手に入れる方法もあったはずじゃないか・・・」
 確かに二人は愛し合い共に将来を誓い合った。だが、二人には越えられない壁が存在していた。
「あなただってわかっているはずよ。私たちが別れたのはそれだけじゃなかったってこと・・・。それにいまさら取り戻すことなんてできやしないわ。あなたは私と別れて別の人と結婚した、それはあなたが私のことを吹っ切ったからでしょう?」
「弁解するつもりはないよ」
「弁解?そんな必要が何処にあるの?私はあなたと別れて、自分の好きな仕事をしてきた。そのことを一度たりとも後悔したことはないわ・・・」
「君は強い人だ。自分の意志を貫く強さがある。そういう君に私は惹かれた。結婚してそれなりの地位を得たが、私はそれだけでは満足できなかった。心は満たされなかった。いつも心の中に君が存在し、消えることはなかった」
「勝手なことは言わないで・・・」千夏は息を吸い込んだ。「とっくに私たちは終わっていたのよ」息苦しさから喉元に手をかける。その手はかすかに震えていた。
「私の中では終わっていなかった。今も君を愛している・・・」正次は千夏に手を伸ばす。
 千夏は身を捩るように体を引いた。正次の懐かしい匂いが、遠い記憶を呼び覚ます。かつては愛した人の体から発散される香りに、忘れたはずの感覚が蘇る。それを振り払うように、テーブルの上にある原稿に手を伸ばす。
「このままでは終わらせない。もう一度君をこの腕の中に取り戻してみせる。私はけして諦めたりしない」
 決然とした意思が正次の言葉には表れていた。静かな口調であるにもかかわらず、その決意は千夏の心を大きく揺さぶった。
 千夏の心は震えていた。相手のわずかな動きも敏感に反応する。
「一度たりとも君のことを、君の温もりを忘れたことはない。君を取り戻す為なら地獄に落ちてもいい・・・」
 正次に引き寄せられて抱きしめられ、体から発散される男の匂いに、千夏は目眩を覚える。手から原稿が滑り落ちる。千夏はショックを受けた。かつては共に分かち合ったその感覚を、今も忘れていないという事実に・・・。
 かつてはこの腕に抱かれ愛を交わした。たとえどんなに歳月をかけようとも、簡単には忘れられないというのか・・・。いいえ、違う・・・。これは単なる感傷に過ぎない。かつては二人がお互いに愛し合っていたことを否定したくないだけ・・・。
 正次はしっかりと抱きしめると、頭を下げて千夏の唇を奪った。しかし、千夏の反応はなく、ただ目を閉じてじっとしているに過ぎない。情熱の迸りも、感情の高ぶりも彼女には感じられなかった。強く唇を押しつけようと、彼女を強く抱きしめ感情に火をつけようと試みても、彼女に対する正次の思いは空回りするばかりだ。
 正次は力を緩め、わずかに距離を置いて千夏を見つめた。彼女の心には届かないのか・・・。正次はゆっくりと千夏を放す。
 千夏は正次の視線を避けるように、落ちた原稿を拾い上げた。
「今日は、もう帰って・・・」千夏は勇気を振り絞って正次の目を見返すと原稿を差し出す。
正次は何かを言いかけてやめた。
「わかった・・・」
 千夏は正次が出て行くまで身じろぎひとつしなかった。その場に立って、玄関のドアが閉まるまでじっとしていた。
 二人はもう元には戻れない。二人の関係が過去のものとなり、今自分が抱いている思いは、過去に対する感傷でしかなかった。
 私は一人の女として自立した生き方をしたいだけ・・・。もう、過去に振り回されたりしない・・・。そう千夏は自分に言い聞かせるのだった。



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