立正安国論 0026:04~0026:05 第二章 仏法の衰微を歎ず | 時事ネタ・バイク・自転車

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本文

主人の曰く、予少量為りと雖も、忝くも大乗を学す。蒼蝿驥尾に附して万里を渡り、碧蘿松頭に懸って千尋を延ぶ。弟子、一仏の子と生れて、諸経の王に事う。何ぞ仏法の衰微を見て、心情の哀惜を起さざらんや。

現代語訳

主人のいわく。

自分は器も小さく、取るに足りない人間ではあるけれども、かたじけなくも大乗仏教を学んでいる。青蝿が駿馬の尾について万里を渡り、葛は大きな松に寄って千尋も延びるという譬えもある。たとえ器量は小さいとはいえ、仏弟子と生まれて諸経の王たる法華経を信ずる以上、どうして仏法の衰微するのをみて、哀惜の心情を起こさないでおられようか。

 

解説

日蓮大聖人は何を言おうとしたのか、「蒼蝿驥尾に附して万里を渡り、碧蘿松頭に懸って千尋を延ぶ」

これが一番重要な御文であって驥は一日に千里を走るという名馬、駿馬。「史記」伯夷伝・索隠に「顔淵は篤学なりと雖も、驥尾に付して行い益々顕る」とある。すなわち、孔子が一番信頼していた弟子の顔淵は、熱心に学問に励む人物であった。しかし、蒼蠅が驥の尾に附いて遠くまで行くように、孔子の名声につれて彼の立派な行ないが世に知られ、有名になったのである、との意。「蒼蠅驥尾に付して千里を致す」という。すぐれた人物の後につき従っていれば、自分の能力以上のことが成し遂げられることのたとえ。一般に、人と行動を共にするとき、謙遜の気持ちを込めて使う。日寛上人の立正安国論文段には「応に千里というべきことなれども、文を彩って万里というなり」とある。

ということで偉大な人と行動を共にすれば自分の能力以上のことが成し遂げられる。自分は器は小さいが器の大きい人と

一緒に動けばさも言えぬぐらいの大きいことが成し遂げられることを言っている。日蓮大聖人は自分のことを器の小さい

とおっしゃって謙遜しながら世のあり様を痛くお嘆きになられて邪義のみが栄えて正法が衰微していることを

心から吐露されておられるのだ。

現代の政治や芸能界、テレビ界、マスコミ等酷い有様をみて嘆かない人がいようか。そんなもの知らんこっちゃない

勝ってにやっとれ・・では、気が付いたら自分に過酷なことが押し寄せてくることになる。日本は第二次世界大戦で

辛い思いをしたので二度と戦争はしないだろう。しかし、汚辱にまみれたビジョンや人間が増えれば国から自戒本逆難

といって二つに分裂しばらばらになっていくのである。そうすると国内が混乱状態になるのでそれを外に向けようとする

他国侵逼難となってくるのである。今の日本は非常に危ないのだ。