月曜はホイミで回復。
中村皇月です。



本日も宗教あるあるです。




感謝。

よく使われる言葉です。





感謝。
実はこの現代で感謝する事は難しくなってきたかもしれません。

感謝という言葉の側面を知ると、この日本の本質が見えて来そうな・・・そんな気もしております。






何故感謝が難しいのか。

感謝という字は「感」「謝」なのです。

多くの場合、人に何かしていただいた事に対して感謝するわけですが、これにはまず

「感激」という意味で「感」がでてきます。
この時点でお礼を申し上げるわけです。
これが「ありがとう」

通常はこれで感謝した事になっておりますが・・・「謝」はどうしましょう。

謝まで行かないと。 感謝は完結しません。
ありがとうだけではお礼のみなのです。


「謝」というのは「謝意」の事です。
つまり。
「わざわざ自分のためにお手数をおかけしていただいて申し訳ない」
という意味での謝意であるわけです。
謝罪と言うと少し重いイメージで誤解されやすいのですが・・・

他者に何かしてもらった時に
「ごめんね」
と言う人は少なからず居ると思います。
お仕事中によくある光景です。

同僚が手を止めてまで自分のために何かしてくれた時、「悪いね」「ごめんね」と謝意謝罪を表現する光景は見かけるものです。



昔はこれがとても自然だったのです。

「お互い様だね」

という空気が出来上がっていた。
空気を読む文化である日本ならではの習慣です。

つまり、何かしてもらったりしてあげたり、これが自然であり、感激と謝意がセットになって挨拶になっていたというわけです。

和を以って貴し

このお互い様の空気と言うのは感激と謝意による日本独特の挨拶によって作られてきたのです。



しかし。



現代では、謝ったら即謝罪したという事になってしまうのです。
うっかり謝意を表すと「自分が悪いと認めた」事になるのです。

「悪いと思うなら土下座しろ」
そうなってしまいかねない世の中になってしまいました。

また、「ありがとう」の次に「ごめんね~」と言う人も多いですが、
「すぐに謝る人」
という何かネガティブなレッテルを貼られてしまう事があります。
付け入られる事も。


感激と謝意をセットにしてしまうと心から感謝申し上げているのに、何やら人として非常に立場の悪い方へ追いやられかねない。
そのような昨今。



「とりあえず? ありがとうと言っとけば良いよ」
というアドバイスが多くなるのは仕方がないかもしれません。

スピリチュアル系のセミナーでは「ありがとう」と言えば幸せになると教わる事がありますが。
何百回もありがとうと言うのを実践したりする事があります。
それも良いと思うのですが、心を込めたありがとうが言えれば、何度も言わなくて良いと思うのです。

そもそもが「感謝しましょう」なんて言わなければならない時点でどうかという事です。
何かしていただければ感謝するのはあたりまえのお互い様。
そうなれば何かの形でお返ししたいと思うのもあたりまえ・・・なのが日本の空気だったのですが。


やっぱりいまだに確認しなおす事が多いと言うのはいかに感謝できていないかという事なのです。



それは。


ありがとうの感激のみで考えるから・・・ではないかと。
謝意をネガティブな事と位置づけてしまう所から、日本古来の感謝の意味が薄れてしまったのではないかと思うのです。


「謝罪はしなくて良い」
そのような教えも実際にあるからです。


ヒーリングやエネルギーワークがお好きな人は「ホ・オポノポノ」をご存知かと思いますが、ハワイの教えですね。

「ありがとう」
「ごめんなさい」
「許してください」
「愛してます」

この言葉でしたか、口にして自己浄化、個人の癒しを推奨するものです。
日本とハワイの習慣は似ていますね、感激と謝意がセットで和を育む愛を導くわけですから。
ハワイの人も空気読める人多いのかなと思ったりします。

私は素晴らしい事だと思うのですが・・・


スピリチュアル系ではホ・オポノポノ否定派も居るのです。
「ごめんなさい」と「許してください」はネガティブになるから言ってはいけないと言う教えがあるのです。

「謝罪はしなくてよい」

感激と謝意がセットである意味を知れば、たぶんそのような事は言わないと思うのですが、おそらく謝罪をする習慣が無い国の人が言うのかもしれません。

謝罪=負け と解釈する人が居るのは見かけると思います。
相手が謝ったら付け入る、そのような場面に遭遇する事もたまにあります。

こういった考えを受け入れてしまうと、日本の日本らしさがどんどん失われてしまう気がするのです。

感激と謝意のバランス、これが感謝なのだと、私は思います。




皆さんどうでしょう、そう言われると現代ではやっぱり、感謝というものが少し難しく感じるかもしれません。










釈迦の感謝は最期のエピソードで判るかと思います。

80歳を超えて、おそらく本人にも自覚はあったと思いますが、自分の肉体が滅する事で、最後の説法をしなければならないと、考えていたかもしれません。
托鉢の途中、説法した場所で食事を頂くのですが、そこで食あたりとなり、床に伏してしまします。

しかし釈迦は食事の世話をした人を責める事無く、感謝し、最後の説法をアーナンダにしたと言います。
釈迦本人に救いを求めるのではなく、仏法を実践せよというわけです。

また、釈迦はあらゆる苦、いわゆる生老病死等の苦しみを受け容れる事を人々に推奨します。

「苦しみよこんにちわ」というわけですが、そういう難しいものではなく、何でも思い通りになると思わず、思い通りになっているものから感謝し、少しずつ全てを受け容れて行くというものです。

親切をありがとう、食事をありがとう、恵まれた天候をありがとう・・・

あらゆる日常を受け容れるうちに、全てがありがたいとしか感じなくなる、苦しみとは自分が生み出しているものだからと。

受け容れる事によって悟る事を教えてくれます。

これを感謝と表現し、説法に生かしたわけです。








キリストの感謝エピソードもあります。
違った視点ですが。


重い皮膚病にかかっている患者が10人、キリストに癒しを求めます。
すぐにキリストは彼らの声に耳を傾け、彼らを清め、「祭司に見せなさい」とアドバイスします。
当時は病人は隔離されていたようで、通常の生活に戻るには祭司の病状判断が不可欠だったようです。

キリストに祭司のアドバイスを受けよと聞き、これで元の生活に戻れると思った10人の患者は、祭司の元へ行く途中で完全に癒されます。

そして。

一人だけキリストの元へ戻ってきます。
大声で神を賛美しながら、キリストの元にひれ伏して感謝するのです。

感激と謝意がセットになっています。
表現がなかなか日本的。 日ユ同祖論、分かる気がします。

この一人のサマリア人だけが癒しの奇跡に感激し、すぐにキリストに謝意を表します。
自分たちの信仰する神にではなく、キリストを通して主の御業に感謝を捧げたという事です。


そして。


残りの9人は戻ってくる事はなかったそうです。



キリストはただ一人戻ってきたサマリア人に対し
「行きなさい あなたは、あなたの信仰によって救われた」
そう申し上げる。

おそらく、サマリア人が正しく法を実践したという事を指すのだと思いますが・・・





結局、9割の人が感謝と言うものを実践できないというお話です。
この聖書の切り口もなかなかのものです。




宗教では感謝感謝とよく言うのですが、この感謝の本質というものはまだまだ先がありそうです。

単なるお礼ではない感謝。
実践できるようになりたいものです。




いつもいつも。

お忙しい中に時間を割いてご拝読いただいている皆様に。
ポチッとしていただいたり登録していただく等、お手数をおかけしまして誠に申し訳ない事でございます。

心より心より。 
ひれ伏して感謝申し上げる次第でございますm(__)m




本日もご拝読ありがとうございました。
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