アガサ・クリスティ『鏡は横にひびわれて』―映画と原作のちがい | 実以のブログ

アガサ・クリスティ『鏡は横にひびわれて』―映画と原作のちがい

早川書房クリスティ文庫 2004

早川書房サイト

https://www.hayakawa-online.co.jp/product/books/320042.html

 

探偵好きな独身の老婦人ジェーン・マープルの住むのどかなセント・メアリミードにアメリカの映画スター、マリーナ・グレッグが引っ越してくることから展開するミステリー。

 

 

 

マリーナとその夫ジェースン・ラッドの住まいはミス・マープルの親友、バンドリー夫人が昔住んでいたゴシントン・ホール。そこで催された野戦病院記念パーティの最中、出席者の一人ヘザー・バドコックが急死。死因は鎮静剤として用いられるが量を間違えると危険な薬カルモ―が入ったダイキリを飲んだため。そのダイキリが本来マリーナのために作られたものだったこと、マリーナへ脅迫状が届いたり、

コーヒーに毒物が入っていたことから命を狙われているのはマリーナでヘザーは人違い? かねてからマープルの名探偵ぶりを知るダーモット・クラドック警部が捜査を進める中、ジェースンの秘書エラ・ジーリンスキー、執事のジュゼッペも殺されてしまうのです。

 

これを原作とした映画『クリスタル殺人事件』がNHKBSで放送されたことから読み返してみました。ごらんになった方はご存じかと思いますが事件の核心にはある伝染病が絡んでいます。今年猛威をふるっているコロナウィルスとはちがいますが、事情によっては人の運命を左右する病。ご時世にあった放送とも言えますね。初めてこの映画をやはりテレビで視た時、解説者、確か高島忠夫だったと思いますが「犯人が誰かはすぐにわかります。エリザベス・テーラー(マリーナ役)とロック・ハドソン(ジェースン役)の愛のドラマとしてごらんください」と言っていました。

 

 

 

原作はミス・マープルが窓から庭を眺めて、以前のように自分でガーディニングが出来なくなった体と村の変容を思うことから始まります。そしておせっかいすぎて気に入らない付添婦ミス・ナイトの眼を盗み、新興住宅地の様子を見に出たところ転倒してしまうのです。ミス・マープルは最初に登場した『牧師館の殺人』や『火曜クラブ』の頃から年月が経ち、一人歩きは危険な、日本でいうところの後期高齢者になっているようです。作中では登場人物が「この村には有名な名探偵のご婦人がいるがもう亡くなっているかもしれない」と言ったり、同じくゴシントン・ホールが舞台になった『書斎の死体』事件を回想する場面も出てきます。

 

映画でマープルを演じたアンジェラ・ランズベリーは当時55歳、髪を真っ白にして実年齢よりは年老いているように演じてはいますが後期高齢者には見えません。やはり映画の最初で転倒しますが、それは少年の連れていた犬のリードに足を取られてのこと。足を傷めたためマープル役は事件の現場に居合わせることができず、その場にいた人々の話を聞いて推理していくことになります。この点は原作通りにしないとまずいでしょうね。

 

転倒したミス・マープルを助け起こし、家に招き入れてお茶とビスケットを振舞ってくれた40代くらいの女性、それが事件の被害者ヘザー・バドコック。つまり善意に満ちた親切な女性、野戦病院協会幹事など地域でボス的な役割も果たしており、一見するとあまり殺人のターゲットになりそうに思えません。捜査線上にはヘザーの夫アーサーやアーサーに気があるかもしれない隣の未亡人、以前男性を取りあったこともあるライバル女優のローラ・ブルースター、マリーナが数年間養子としたけれど、実子を妊娠したとたんに遠ざけられた女性カメラマンらが浮かび、映画よりずっと複雑です。

 

ミス・マープルはヘザーは親切だと思いつつ、ある違和感を感じていました。それは人の気持ちがわからないところ。マリーナの長年のファンであるヘザーはパーティでもマリーナに戦時中、舞台出演中に会いに行った時の話を興奮して一方的にまくしたて、周囲を退屈させていました。女優ではないけれど

クリスティの周囲にもヘザーのような、熱烈なファンしてはありがたいけれどあまり接触が望ましくない人がいたのかしら?

 

これ以上書くとネタバレになりますが、新興住宅地のおしゃべりな主婦ヘザーとかつての大スター、しかしあることから精神を病み、第一線を退いたマリーナ、この二人の女性の性格から起きた悲劇です。

 

バントリー夫人が自分が昔住んでいた屋敷に招かれ、映画人夫妻向けに改装されているのを見てまわり(なんと浴室まで見る?!)、「この家を手放したことは

賢かった、家というものにさかりを過ぎる時があり、表面は飾りたてられているけれど何の役にもたっていない」と考えるくだりも私には味わい深く読めました。

 

マリーナもヘザーもミス・マープルとその友人たちにとっては昔はいなかった存在。時代の変化、有名人とそうでない人の人生などが描き出されたミステリー。

『クリスタル殺人事件』をごらんになって「配役とセットと衣装は豪華だけど、底が浅いメロドラマ」と感じられた方もスルーしてしまうにはもったいない小説です。