松本清張 『西郷札―傑作短編集三』より『啾々吟』 | 実以のブログ

松本清張 『西郷札―傑作短編集三』より『啾々吟』

新潮文庫1965年初版

新潮社サイト

https://www.shinchosha.co.jp/book/110904/

 


弘化三年丙午八月十四日に生まれた鍋島藩主の嫡男直大と同藩家老の息子松枝慶一郎、二百俵三人扶持つまり軽輩の子石内嘉門。物語は松枝慶一郎の一人称で

語られます。

 

世子が10歳で学問を始める時、同じ誕生日のよしみで嘉門も身分は低いながら慶一郎と共に学友として近習衆になります。彼らの師である儒学者草場佩川は

嘉門の並外れた才知に注目し、自宅に招き、子供には難解過ぎる書物も貸します。しかし彼らが成人する頃、嘉門は佩川に優秀だが可愛げがないと評され、子供の頃は仲良しだった藩主直大からも冷たくされ、同僚からも孤立。慶一郎にはなぜ彼が皆に嫌われるのかわかりません。しかし嘉門が慶一郎の従妹千恵に恋したことから彼らの友情も終わります。泣きながら

千恵の気持ちを確かめてほしいと頼む嘉門に千恵が自分の許嫁だと言えない慶一郎。嘉門が長崎へ赴任している間に家督を継いだ慶一郎と千恵は結婚。嘉門は慶一郎に裏切られたと誤解して「雑草でも性根はあるぞ」と言う手紙をよこして脱藩。

 

維新後、英国へ留学し、司法少之丞となった慶一郎。嘉門が谷山輝文と名を変えて自由党の論客となり、新聞に自分を名指しで非難する文章を発表したことを知ります。同じ鍋島藩出身の大隈重信が政変で下野したのにそれに従わず薩長に屈している」と。昔の負い目もあり、慶一郎は谷山に敵意は持てず、「嘉門、しっかりやれよ」と心で祈ります。しかし谷山は自由党内でも主脳部から嫌われ、その不満から警視総監樺山資紀の密偵となっていました。

 

嘉門が密偵にまでなりさがっていることは、

予の心を、底知れぬ暗鬱にひきこんだ。

衆人にすぐれた才知を持ちながら、ただ他人の

愛を獲る(うる)ことの不能な男の末路に、

一種の戦慄さえ覚えた。(本文より)

 

密偵であることが知られ、自由党員に射殺された谷山。実行犯たちに「どうして、君ほどの人物が政府の犬などになったのか」に尋ねられ、「宿命だ、こうなるようになっているのだ」と答えたことを裁判記録で知る松枝慶一郎。

 

 

本の裏表紙の説明に「幕末に、大名、家老、軽輩の子として同じ日に生れた三人の男が明治維新の大動乱をかいくぐり、如何なる運命を辿ったかを追求した」とあるので軽輩の子が出世して立場が逆転するのかなと思ったのですが、さにあらず。嘉門はその才知で藩主や家老の子との格差を克服し、幸せをつかむことはできませんでした。貧しい境遇に育った著者清張は文才と精進によって流行作家にはなりましたが、嘉門の姿に自分を重ねているようにも思います。

 

慶一郎は谷山について「彼に欠点も落度もあるわけではない、他人に終生容れられない宿命だった」と語ります。しかし青春時代のくだりを読み返すと嘉門の

宿命の正体が見えてくるように感じます。最初、慶一郎との遠乗りでその叔父の家へ行った石内嘉門。親切な叔父一家は侍としての身分は低くても敬意をもって彼に接します。しかし叔父から嘉門が2,3回、一人で叔父の家を訪問したこと、甥と一緒でもないのに来るのは迷惑なのでやめさせてくれという手紙をもらう慶一郎。

 

このくだり、現代に置き換えても同じ行為をする人がいたら、かなり図々しく不快に感じませんか? 今とちがって一目ぼれした相手に直接話しかけたり、メールや電話もできない時代なので、千恵に恋した嘉門としてはそういう行動を取らざるを得なかったのかもしれませんが。

 

それに千恵は家老である松枝の家の親戚の娘ですから、最初から妻に望んでも家柄がつりあわず無理かと考えなかったのか?それとも千恵の親切な態度を自分への好意と勘違いしてひょっとしたら身分のへだたりを越えてくれるかと期待したか? 幼い頃から才知を認められ、先生から「お前なら身分の低さを越えて実力で成功できるかも」みたいなことを言われていたから、凡人には無理でも自分ならと思ってしまったか?

頭脳はすぐれているのに、内面的にどこか抑制がきかなくて、こういう遠慮のない行動を取ってしまう―草場佩川が嘉門を「可愛げがない子」というのはそういうところではないでしょうか。

 

慶一郎は終生、嘉門に対して優しい気持ちを抱き、、千恵が自分の許嫁であることを告げてさえいれば、嘉門があのような境涯に陥らなかったのではないかと悔いています。

 

物語の終盤、路上で酔いつぶれた谷山こと嘉門を、慶一郎の乗る馬車がひきそうになったことから二人は言葉を交わし、心を通わせます。慶一郎は谷山を家に連れ帰ろうとしますが、そこへ自由党員たちが来たのでそのまま別れます。自分のもとへ来ていたら非業の死は免れたのではないかと思う慶一郎。

 

谷山はおそらく年を重ねても佩川の言う可愛げを身に着けることができなかったのではないでしょうか。その理由は皮肉にも才能があるから。すぐれた面があるが故にどこでも最初は歓迎されてしまうので自分の内面を見直そうと考えなかったのかも。松枝慶一郎が考えたようにできていたとしても石内嘉門、後の谷山輝文は何等かの問題を起こして孤独な人生を生きたのではないでしょうか。

 

他にこの短編集で心に残ったのは、初老の人力車夫吉兵衛の旧幕時代の栄光に執着しない生き方に尊敬すべきものを感じる『くるま宿』、主家の国替えに賛成できない老臣の驚くべき行動を描く『酒井の刃傷』、江戸詰となった美青年の津和野藩士が芝居がきっかけで

美女と夢の一夜を過ごしたことから横領事件が発覚する『白梅の香』です。