心の琴線、そんなものがあるとして、それが音を立てるのは一体いつなのか……。
そう思い続けて気付けば二十歳を折り返す地点。
仕事はきつくはあるけど嫌じゃないし、高卒の割にはいい待遇の職場で、このご時勢贅沢しているとも思う。
「だからって最近の趣味が外食めぐり、それも一人っていうのも寂しいわね……」
今日も定時に退勤して夕陽の残る帰り道を歩く。
自宅周辺の飲食店は高級料亭のような手の届かない場所以外は全て行きつくしてしまった。
(たまには遠出してみるかな)
いつも利用している私鉄の駅から二駅ほどで電車を降り、めぼしい店がないかを探す。
せっかくだし、という思いからか入り易そうなファーストフードや居酒屋(一人で居酒屋というのも寂しすぎるが)、全国チェーンの店は除外された。
どんどんと進む足を止めるような魅力を感じぬまま、次第に周囲の喧騒は静まっていった。
(しまったな……ここどこだろ……)
辺りを見回すと閑静な住宅街が広がっていた。
夕陽もずいぶんと前に沈み、頼りない街灯がちかちかと不安を煽るように明滅を繰り返す。
ふらふらと目的もなく歩いていたとはいえこんな事になるとは思わず、自身の不注意さに呆れつつも足を動かす。
歩いてきた道を戻るように進んでいるつもりだが、どうも自信がない。
しばらく歩いていると更に明かりの少ない路地に入り込んでしまった。
「あっちゃー……これじゃあ本格的に迷子?」
足を止め、もう一度辺りを見回すがあるのは家だけ。
一軒一軒に明かりはついているものの、
(さすがに迷子なので道を教えてくださいなんて恥ずかしくていえないわよ……)
そんなことを思っていると、ほのかな光と、小さな看板を見つけた。
こころもち走るようなペースでそれに駆け寄ると、看板には
喫茶店 フレンズ
とだけ書かれていた。
営業時間などの記載がなかったが、明かりがついているということはきっと営業中なのだろうと思いつつ、道を聞くついでに何か食べていこうと決めていた。
少し重めの木のドアを開ける。
外観がかなりこじんまりとしたものだったから、中は狭いのだろうと覚悟はしていたが、店内は想像を超える手狭さだった。
薄暗い店内の内装は全体が木造りで、カウンター席が五つと、人が一人動くのがやっとといった感じのスペースにキッチリとした装いの初老の男性が一人。
「いらっしゃいませ。お好きな席にかけられてください」
その男性の第一声は、入り口で硬直してしまった体を動かすには十分すぎる衝撃を彼女に与えた。
「は、はい!」
妙に鯱張った返事をしつつ、いそいそと右から二番目の席に座る。
「ご注文がお決まりでしたらお呼びください」
そう優しく言って、恭しく頭を下げた男性は、隅のほうまで下がってしまう。
その一連の動作に一言も言葉を差し挟むことが出来ず、ぼんやりと受取ったメニューを見詰めてしまう。しかし、さすがに本来の目的を見失うわけにはいかず男性に声をかける。
「あ、あの、私道に迷ってしまって、駅までの道を出来れば紙に書いていただけませんか?」
バックからメモ帳とボールペンを差し出すと、
「構いませんよ。簡単に、でよろしいですよね?」
そう言って、さらさらとペンを走らせ始める。
その間にメニューから料理を選ぶ。
男性が地図を書き終わったのと同じタイミングで注文を決め終え、ペペロンチーノとコーヒーをオーダーする。
男性が奥の暗闇に引っ込んでから、数分で、湯気の昇るパスタと熱々のコーヒーと一緒に男性は戻ってきた。
「いただきます」
そうつぶやいて女性はパスタを口に運び始めた。
しかし、意識の大半は、カウンターの隅でグラスを拭く男性に向かっていた。
そんな調子ではまともに味なんてわかるはずもなく、いつの間にか皿は空になっていた。
彼女は名残惜しそうに、最後のコーヒーを飲み干して、会計を済ませた。
店の扉を押し開けて
「ご馳走様でした」
と笑いかけるのが、彼女にとっての精一杯だった。
しかし、それに答えるように、男性は
「いえ、フレンズへのまたのご来店、心よりお待ちしております」
と、優しくも良く通る声で笑いかけた。
店を出てからは、はっきり言ってあまりよく覚えていない。
いつの間にか、電車に乗り、そして自宅で横になっている。
そうすると、ちくりと胸を刺す何かがあった。
でもそんな痛みも、嫌じゃない。
なんなんだろうと思っていると、同僚達の姦しい会話を思い出す。
『それって絶対恋だよ!こ、い!』
あぁ…なるほど……私は恋をしたんだ。ふた周り、いや三回りくらい歳の差のあるだろうあの人に…
彼女はそこで、ようやく自身の心の中の琴が鳴っていることに気が付いた。
あの不思議な店でのことが頭から離れないが、強い眠気に襲われ、意識の海に溺れるように深い眠りに落ちていった。
明日も、もう一度あの店に、フレンズに行こう。あの人に会うために。
そう誓いながら。
そんな女性の誓いを裏切るように、初老の男性はため息を吐きつつ思う。
(また、離れなければなりませんか……)
生きる道に、迷い、絶望し、生きることに疑問を抱く人がいる。
そんな人のそばに現れる奇妙な喫茶店、フレンズ。
決して一所(ひとところ)にとどまれぬそれは今日もまた移ろってゆく。
(あの女性(ひと)は大丈夫だろうか、彼女もまた心に黒い何かを持っていたはず)
だからこそ、フレンズを見つけ、入店することが出来たのだ。
(私は……ちゃんと救うことができたのだろうか……)
男性の不安など意に介さないといったように、フレンズはその身をまた新しい場所に移した。
人の心に優しさを届けるために。