何かをする時に、自己責任であるから構わないだろうと言う人がいる。
自己責任なのだから、何をさせていても良いと考える人々もいる。
そもそも自己責任とは、人々が軽々しく使い、その時と場面に合わせて
都合良く発せられる、単なる逃げ言葉的な意味を持つ、言葉であって良いものだろうか
自己が責任を執る、即ち、自らの行動に、常に「責任」との文字が付き纏う大変重い言葉であり
自らが責任を執ると人々に公言している、約束や宣言の様なものであり、自らの行動が元で
何かが起きた場合には、その責任の一切合切は、自らが執らなくては成らない訳であるが
責任が発生した途端に、自己責任と言う約束が、まるで撤回されたかの様に、責任逃れに媚び
言い訳を垂れ流し、自らの行動の正当性を訴える卑怯極まりない、屑の様な輩達が出て来る
そして、そこにも、金や欲や利権に包まれた、悪い心に同化している、ブラックマターの存在が
力を発し大衆を少しずつ動かしながら、その者が執らなくては成らぬ義務、自己責任を揉み消し
無罪放免にして世に放ち続けている、なんとも理解しがたい行動がある。
厳格に人を裁く事は、全てが言い訳ではないが、人からの温情や慈悲に甘えてしまえば
人間などと言う生き物は、心の弱い者であるから、あの時は許して貰えたから次もきっと
などと言う者や、あの時には上手く誤魔化せたから、次も上手く行くと考える者や
人から掛けられた恩などは、直ぐに忘れてしまい、再び、同じ罪や過ちを繰り返す者が
出て来るのは、大人数で暮らす社会の中であるからこそ、何パーセントかが出てしまうのは
至極、当然な話であり、その者達を完全に排除するのは、難しい事であろう。
だから、それで良いと言う話にはならない、その兆候が世の中に多く見えて来た場面には
国家権力により、人々を恐怖で支配弾圧する、恐ろしい粛清ではない、心の中に素直に染み入る
最善な方法を人々で考えてそれを用い、自己責任とはこんなにも重い責任であるのだと
多くの人の心に甘え行く者達を、諭して行かなければ、公務員達のように組織的に行われている
責任皆無、誤魔化せば何とか成る的な、人々の心に甘えた犯罪や言い訳が、いつまでも病む事なく
世の中に晒され垂れ流されて続けて行くのであろう。
人の金を盗めば、罪に問われる、それが個人であっても、組織であっても同じ事であり
なあなあ、まあまあでは、決して許されない事なのである。
あれだけ大世帯の日本国の軍隊の中でありながら、犯罪の発生が少ないのは、厳しい規律が
有るからであり、精神教育がしっかりと行われているからであるが、やはりその中でも
数パーセントは犯罪や、自己責任を全う出来ずに、責任を問われる者が出るのだが
国民全体と比べれば、その数はとても少ないのである、只、軍隊の上に立つ者達は
自分の持つ権力を良い事にして、私利私欲に走り武器商人達と連み、国賊と成り果てた姿で
悪徳三昧を重ねながら、公金の搾取略奪を繰り返している者も多く、軍隊の文民統制が
崩れだしている事は明らかなのであり、既に、日本国政府が軍隊に対し、力を失っている
悲しむべき事態に、日本国民はしっかりと監督をする様、警鐘を大きく鳴らすべきであろう。
伊藤博文から続く、2.26事件、そして軍国主義国家への突入などは
絶対に避けるべきであり、犬養死すとも正義は死せず、なんて、暴漢にチクリと
ちょっとだけ刺されたのに、あんな、大げさな事を言うバカ達には、決して惑わされ続けては
いけないのであろうと強く言いたいのである。
おわり