綺麗事を並べても意味なんてないから、ヤメレ
なんにもしていない、お前の話なんか、誰も聞きたくないから、ヤメレ
無駄な事をいつまで続けても意味なんてないのだから、ヤメレ
誰もそんな話など聞きたくないから、ヤメレ
どうも、竹を半分に割ったような、善と悪の話は説得力がないらしい
綺麗事を並べるなと言われても、善は善であり、善以外のなにものでもなく
善を棚に並べなくて、どれが本来の善なのか、示さなければ
善に対する見分けすらも付かなくなっている者に、見本として見せられないのであり
善は善と示し、善とはこう言うものだと、善を忘れた者に理解して貰わないと
ゼンゼン話にならないのであって、善は煮ても焼いても加工をしても
どんな事をしても善なのであるから、善というものを理解をして頂きたいのである。
屁理屈を付け足して、まわりくどく説明しないと善を理解できない者達は
善とは、何かに付随している「おまけ」の様に感じているのかは知らないが
善を単独のものと見ずに、善の工程を先に考える事が多いから
善が見失われてしまう事が多いのだろう。
川で溺れて沈み掛けている人がいれば、善を先に考えてから助けに向かう人などは
いない訳であり、自分の安全が確保され、助ける事に自信があれば、無意識の内に
川に飛び込んで助ける筈であろう、助ける事に自信のない人は、自分が溺れてしまえば
助けようとしている人も助からず、二体の土左衛門が発生すれば処理する人達に
いらぬ迷惑を掛けてしまうから、助けられる人の力を求め、助けようとする善の心が働き
誰かに助けを求める事もまた善であり、溺れている人に手を差し伸ばさずに
他人の出来事であるからと、無視をする者は人でなしの行為、悪となるのであろう。
善の意識が空気のように、その人の精神に染み付いているからこそ、善は生きるのであり
人を助けたからと、見返りを求める善などは、元々有り得ない話であり
「善行」とは、本人が意識もせずに、知らず知らずに行われるものなのであって
他人が行いを見て、善の行いであると認定され、その時点で善が世に出るのだろう。
善とはなにか、それを学び、人が善行を行っている所を見て、自分も善行を行わなくては
成らないのだと気付き、実行する事が大切なのであり、善を知り自らの心に善の心が備われば
善を気にする事もなく、普通に善行を行える者となるのだろう。
世の中に善ばかりだと、ゼンゼン面白くない、つまらない世の中になってしまう
善があれば悪もあって始めて、メリハリがあり面白い世の中になる、などと言う人がいるが
それは善が満ちる事が悪いのではなく、暇を弄ばし、変化を欲しがり、悪を欲しがる者が
存在するから、善が邪魔になるだけで、善は善であり、ゼンゼン悪くはないのである。
だから、陳列棚には、正規の善を並べて置かないと、粗悪品を掴んでしまう者が出て
粗悪品が良かったからと、他人に勧める者も出てしまうから、偽造された善は決して
棚には並べては絶対にいけないのである。
おわり